細川重賢

細川重賢/wikipediaより引用

江戸時代

肥後の鳳凰・細川重賢の手腕が凄い~神をも恐れぬ合理主義者が藩財政を建て直す

「お殿様」というと贅沢なイメージが強いもの。

しかし江戸時代の大名達は、ほとんどの人がド貧乏でした。

収入が大きくても養う家臣の数が多く、それでいて天災オンパレードの時代ですから、お財布事情は火の車だったのです。

その財政難を見事に打ち破って見せた家もあります。

天明五年(1785年)10月26日、熊本藩六代目藩主で「肥後の鳳凰」と呼ばれた細川重賢(しげかた)が亡くなりました。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも重要な役どころとなった細川藤孝細川忠興の子孫たちが切り盛りした大藩ですね。

藤孝も忠興も文武両道で【織田~豊臣~徳川政権】を生き抜いたタフな武将でしたが、子孫も負けていない。

そんな重賢の生涯を振り返ってみましょう。

細川重賢/wikipediaより引用

 


伊達宗村の機転により改易を免れる

細川家は50万石を超える大きな家でした。

が、五代目で重賢の兄・細川宗孝に浪費癖があったせいで、藩の財布は一気にすっからかん。

このお兄さんが江戸城内で人違いにより突然殺されてしまいます。

当人にとっては災難どころじゃありませんが、熊本藩にとっては不幸中の幸いだったかもしれません。

まだ子供がいなかったので、そのままなら「跡継ぎいないなら取り潰し」となるところを、急遽、弟の細川重賢を跡継ぎにして事なきを得たのです。

ちなみにこのとき「宗孝は、まだ死んでないことにしておくから、急いで跡継ぎを決めろ!」と指示をしてくれたのが、たまたま居合わせた仙台藩六代目・伊達宗村でした。

伊達宗村/wikipediaより引用

こういう土壇場での機転が利くのはお家柄という感じがしますね。

なんせキャラの濃い伊達政宗さんや細川忠興さんときたら……といった話は、それぞれの記事をご覧ください(記事末にもリンクを設置いたします)。

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次男としての苦難が転じて活きる展開に

こうして突然藩のトップに立った細川重賢は、それまでの苦労が活きることになります。

この時代、大名の次男以下は「部屋住み」と呼ばれ、穀潰し同然の扱いでした。

良い養子先が見つかれば他の家で活躍することもできましたが、嫁に行ける女性と違い、男性ではそうそう行く先は見つかりません。

政略結婚でも堂々と家を出られるほうがいいか、あるいは貧乏でも実家暮らしを選ぶか……と、大名家もなかなか大変なものです。

重賢も藩主になるまでは、自ら質屋に行くほどの困窮振りだったとか。

というか熊本藩自体の財政が酷くて、

「新品の釜には『細川』って書いとけよw 金気かなけが抜けて使いやすくなるぜwwwwww」

とまで言われるほどでした。

上杉家も似たようなことを言われているので当時の流行り文句だったんですかね。今で言えば流行語大賞的な?

ともかくこうした窮状を立ち直らせるにはどうするか。

改革を行うにも、元手の資金が必要といういことで、重賢はまず名のある商人からお金を借りようとします。

が、「アナタサマのところは返してもらそうにないので貸せません」とすげなく断られてしまいました。

大名と商人とはいえ、貸し手と借り手では当然前者が上手ですが、ここで諦めては火の車どころか再び改易の危機です。

そこで比較的新しく金貸しを始めた加島屋という商家に頼み込み、条件付きでようやくお金を借りることができました。

いよいよ改革スタートです。

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