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【細川重賢】
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まずは江戸藩邸の予算をきっちり制限するばい!
細川重賢はまず、江戸藩邸の予算をきっちり制限することから始めました。
「金がないのに際限なく使うとかアホなの?」と言ったかどうかは不明ですが、締めるべきところを締めたわけです。
そしてしょっちゅう起きる飢饉に関係なく年貢を取れるよう、米以外の作物を作ることを奨励しました。
和紙の原料になる楮という木や生糸、ろうそくなどです。
どれも生活必需品ですから、相場が大きく変動することはないと考えたのでしょう。
楮の実も「まずいけど一応食べられる」らしいので、救荒作物の意味もあったかもしれません。
そしてこれらを原料とした和紙などを鹿島屋経由で売りさばき、少しずつ藩政を潤わせていったのです。
こうして見ると重賢以前の藩主でもできたように思えますが、目の付け所が違ったんですね。
コロンブスの卵とも言えましょうか。
「神なら住民に協力するのが当然!」
このころのエピソードとして、面白いものが伝わっています。
熊本藩内には現在も温泉地・火山として有名な阿蘇山がありました。
温泉といえば硫黄の匂いですよね。
細川重賢はこの硫黄に目をつけます。
現代人にとってはただの臭いものですが、硫黄は火薬や薬の原料となるとてもありがたい資源です。
それが大量に取れそうな場所が領内にあるというのですから、見逃す手はありません。
しかし「硫黄、取ろうぜ!」という重賢の呼びかけに、地元の人はなかなか協力してくれません。
「阿蘇は神様のいる山だから、掘り返すなんてとんでもない」というわけです。
九州はもともと火山の多い土地ですから、火山そのものを神様として信仰している人が多かったんですね。
ですが、超がつくほどの合理主義者・重賢は
「神なら住民に協力するのが当然!」
と考えて、硫黄掘りを決行。
採掘の後、住民の言い分に味方するかのように洪水が起き、「ほら見ろ言わんこっちゃない」なんてpgrされることになってしまいました。
身分を問わず通える時習館も設立
しかし細川重賢はそのくらいでは諦めません。
どこから探してきたのか。
大砲を担ぎ出して洪水の元になった池に一発ぶっ放したのです。
ンなことしたら余計罰が当たりそうなものですが、それで洪水は鎮まり、以後、無事に採掘を続けることができたのだとか。
重賢いわく
「住民のためになることをしているのに、邪魔するヤツは神じゃなくて物の怪だ、不届き千万!」
ということだったらしいです。
「水源ぶっ飛ばしたら余計洪水が酷くなる」とは思わなかったんですかね……。
このダイナミックな発想、やっぱり藩祖・忠興さんの血がうかがえる気がします。
その他にも身分を問わず通える藩直営の学校・時習館や、日本最初の公立医学校・再春館を作るなど、人材育成にも注力。
熊本藩の財政再建に身を費やすのでした。
上杉鷹山なども「倹約」+「教育」のコンボで改革に成功しましたよね。
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これは財政再建のセオリーともいえそうです。
現代でしたら保育料や大学までの学費を無料にして、後は税収の使い道を再検討ってところでしょうか。
キャッシュレス決済によって脱税者が減れば、一気に税収も増えると言いますし、いつの時代もやることは山積みですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
川口恭子『重賢公逸話(熊日新書)』(→amazon)
細川重賢/wikipedia