地震には一定の周期があり、日本列島は昔から揺れ続けてきた――。
皆さん周知のことと思いますが、では実際にどんな地震が起きていたか?
江戸時代のちょうど中頃の元禄16年(1703年)11月23日。
現代においては「相模トラフ巨大地震」とも呼ばれており、あの【関東大震災】を引き起こした地震と同質だったと目されております。
温故知新で地震の被害を最小に防ごう。
ということで今回は元禄地震を見て参りたいと思います。
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元禄地震は300年前の大晦日に
元禄地震が起きたのは、元禄16年(1703年)11月23日の午前2時頃。
新暦では12月31日になりますので、かなり冷え込みと乾燥の厳しい日だったことでしょう。
震源地は房総半島の最南端地域・野島崎沖と考えられています。
江戸からは、少々離れた場所ですね。
内閣府(→link)によると、地震の規模はM7.9~8.2とされ、関東大震災(1923年)のM7.9よりやや大きかった模様。
実際の被害も、震源地に近い房総半島南部はもちろん、海を挟んで反対側となる小田原周辺が深刻だったとされています。
以下に内閣府防災情報ページ(→link)より震度分布図を引用させてもらいました。
左が元禄地震で、右が関東大震災。
江戸時代で情報が少ないため震度表記がまばらですが、湘南地域や横浜あたり、あるいは房総半島の南端で震度6~7を記録しているのが御確認できるでしょう。
ちなみに、関東大震災でも東京都よりも神奈川県の方が揺れが厳しいのがわかりますね。
もちろんだからといって安心とかではなく、関東全域で気を引き締めるべきかと思います。
小田原と千葉での被害が大きい
元禄地震における全体の死者数は10,367人とされています。
内訳は以下の通り。
【元禄地震 死者数】
・甲府領 83名
・小田原藩 2,291名
・房総半島 6,534名
・江戸府内 340名
・駿河伊豆 397名
・他 722名
ご覧の通り房総半島南部での死者が六割以上となっており、震源地に近いことから全壊家屋も多く9,610軒に昇り、大きな津波被害も発生。
死者数に対する溺死の割合も相当高いと考えられています(関東大震災では津波被害はナシ)。
小田原方面では、家屋や寺社の倒壊が8,007ヶ所あり、こちらも2,291人という死者を数えました。
【元禄地震 全壊家屋】
・甲府領 345軒
・小田原藩 8,007軒
・房総半島 9,610軒
・江戸府内 22軒
・駿河伊豆 3,666軒
・他 774軒
もちろん江戸も無事ではありません。
大名屋敷や一般人の住む長屋、そして江戸城でも崩壊・破損が多く発生。
後の六代将軍・徳川家宣(当時は綱豊)に仕えていた新井白石は、自著『折たく柴の記』で、この地震が起きた夜のことを書き残しています。
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その内容をざっと示しますと。
白石は深夜の地震にも冷静に対応し、まず妻子の安全を確保した後、急いで主の元へ。
道中は「火の元に注意せよ」と言って回り、できるだけ火災発生を防いだそうです。
なにせ当時の明かり=炎を使うものです。
もしも、明かりをつけたり持ち歩いているときに再度揺れが来て、その人が転びでもしたら、あっという間に火災と混乱を生み出してしまいます。
おそらく、白石以外にも、火元への注意を呼びかけた人が多かったのでしょう。
最大でM8.2と目される大地震の割に、このとき江戸での火事は広がりませんでした。
このころの江戸はまだ未開発の地もあり
もっとも、火災の被害を最小で食い止められたのは、当時の江戸が現代の東京ほどの過密さではなかったから、と考えられています。
特に隅田川の東側は元々湿地帯で、この時代はまだ未開発。
むしろ、この火事の後に隅田川の東にも町が広がり、後年の災害で被害を受けることになります。
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あるいは先に例で挙げた「大正関東地震(関東大震災を引き起こした地震の名称)」も同様ですね。
ちょっとややこしいですが、
「震災」→「地震によって引き起こされた災害・被害」
を指しますので、地震そのものの話をするときは「◯◯地震」となります。
我々現代人の間では、被害について語ることが多いので「◯◯震災」のほうが馴染みがありますが。
元禄地震と大正関東地震は、震源地も被害の様子もよく似ているといわれています。
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直接的な震源こそ異なると考えられているものの、同じ相模トラフに関連する揺れであろうということ、房総半島南部と相模湾沿岸部の被害が大きかったことがその理由です。
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