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【菱垣廻船と樽廻船】
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酒問屋が十組仲間から脱退して樽廻船を運行
さらに、酒の荷主は海難事故の際にも割を食っていました。
当時、船が嵐などに遭ってしまったときは、上のほうに積まれている荷物を海に捨てて、船全体を軽くして転覆を防ぐことがままありました。
ところが、上記の通り酒は船の下のほうに積まれているため、最後まで残りやすいのです。
「自分の荷物が無事ならいいじゃん」と思ってしまいますが、港に着いた後が問題。
荷主の間で共同海損という仕組みが発生し、特定の荷主だけが大損しないよう、お金を出し合うことになっていたからです。
荷物を捨てられてしまった側からすると、少しでもお金が返ってきていいことなのですが……。
これが酒の荷主からすると「自分たちの荷物は無事なのに、余計にお金を払わなければならない」ということになるわけです。
まとめるとこうなります。
・酒の荷主は大事な商品が傷むかもしれない
・それによって売上も減るかもしれない
・そんだけ待たされて、さらには事故が起きれば他の荷主より損する
そりゃ、不満が膨らむのも当然のことです。
こういった違いから、享保十五年(1730年)に酒の荷主である酒問屋が十組仲間から脱退し、江戸積酒造仲間が中心となって、酒荷専用の船を独自に運航させるようになりました。
【樽廻船】の誕生です。
クール便と通常便がやっと分かれたような感じで
しかし、これで話は丸く収まりませんでした。
樽廻船とはいえ、酒樽だけで船室全てが埋まることはそうそうないわけです。船の持ち主としては、そういった余分なスペースも活用してもっと儲けたくなりますよね。
今までさんざん損してきているのですから。
そこで、樽廻船では「菱垣廻船に積まれるような軽い荷物を、酒樽を積んだ余りのスペースへ格安で積む」というサービスを始めました。
元々「なまものである酒を、傷まないうちに運ぶ」のが樽廻船なので、他の荷物も早く運べることになるわけです。
荷主からすれば安く・早く運べるので、願ったり叶ったりというところ。
おそらくは「江戸へ送りたいタイミングで船があるとは限らない」といったデメリットもあったかと思われますが、やはりメリットのほうが大きかったのでしょう。
かくして樽廻船が菱垣廻船の売上を圧迫し始め、両者で衝突が起きるようになります。
そこで明和七年(1770年)、酒問屋と他の問屋との間で話し合いが行われました。
あらかじめ、積み荷の種類を分けておくことにして、これ以上の紛争が起きないようにしたのです。
カテゴライズは、こんな感じでした。
↓
1 菱垣廻船・樽廻船のどちらでも積める七品目
・米
・糠
・阿波藍玉(染料)
・灘目素麺
・酢
・醤油(当時は”溜り”)
・阿波ろうそく
2 樽廻船だけが積めるもの一品目
・酒
3 菱垣廻船だけが積めるもの複数品目
・上記以外の商品すべて
クール便と通常便がやっと分かれたような感じでしょうか。
この住み分けが行われたのは、あの田沼政権の時代にあたります。
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田沼意次の株仲間公認に関する政策の一環として、海運業の整理も行われた、というわけです。
すると……。
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