復元船「浪華丸」/photo by I, KENPEI wikipediaより引用

江戸時代

菱垣廻船と樽廻船の物流トラブル戦争が激しい!お互い何を運んでた?

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菱垣廻船と樽廻船
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酒問屋が十組仲間から脱退して樽廻船を運行

さらに、酒の荷主は海難事故の際にも割を食っていました。

当時、船が嵐などに遭ってしまったときは、上のほうに積まれている荷物を海に捨てて、船全体を軽くして転覆を防ぐことがままありました。

ところが、上記の通り酒は船の下のほうに積まれているため、最後まで残りやすいのです。

「自分の荷物が無事ならいいじゃん」と思ってしまいますが、港に着いた後が問題。

荷主の間で共同海損という仕組みが発生し、特定の荷主だけが大損しないよう、お金を出し合うことになっていたからです。

荷物を捨てられてしまった側からすると、少しでもお金が返ってきていいことなのですが……。

これが酒の荷主からすると「自分たちの荷物は無事なのに、余計にお金を払わなければならない」ということになるわけです。

まとめるとこうなります。

・酒の荷主は大事な商品が傷むかもしれない

・それによって売上も減るかもしれない

・そんだけ待たされて、さらには事故が起きれば他の荷主より損する

そりゃ、不満が膨らむのも当然のことです。

こういった違いから、享保十五年(1730年)に酒の荷主である酒問屋が十組仲間から脱退し、江戸積酒造仲間が中心となって、酒荷専用の船を独自に運航させるようになりました。

樽廻船】の誕生です。

 


クール便と通常便がやっと分かれたような感じで

しかし、これで話は丸く収まりませんでした。

樽廻船とはいえ、酒樽だけで船室全てが埋まることはそうそうないわけです。船の持ち主としては、そういった余分なスペースも活用してもっと儲けたくなりますよね。

今までさんざん損してきているのですから。

そこで、樽廻船では「菱垣廻船に積まれるような軽い荷物を、酒樽を積んだ余りのスペースへ格安で積む」というサービスを始めました。

元々「なまものである酒を、傷まないうちに運ぶ」のが樽廻船なので、他の荷物も早く運べることになるわけです。

荷主からすれば安く・早く運べるので、願ったり叶ったりというところ。

おそらくは「江戸へ送りたいタイミングで船があるとは限らない」といったデメリットもあったかと思われますが、やはりメリットのほうが大きかったのでしょう。

かくして樽廻船が菱垣廻船の売上を圧迫し始め、両者で衝突が起きるようになります。

そこで明和七年(1770年)、酒問屋と他の問屋との間で話し合いが行われました。

あらかじめ、積み荷の種類を分けておくことにして、これ以上の紛争が起きないようにしたのです。

カテゴライズは、こんな感じでした。

1 菱垣廻船・樽廻船のどちらでも積める七品目

・米
・糠
・阿波藍玉(染料)
・灘目素麺
・酢
・醤油(当時は”溜り”)
・阿波ろうそく

2 樽廻船だけが積めるもの一品目

・酒


3 菱垣廻船だけが積めるもの複数品目

・上記以外の商品すべて

クール便と通常便がやっと分かれたような感じでしょうか。

この住み分けが行われたのは、あの田沼政権の時代にあたります。

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田沼意次株仲間公認に関する政策の一環として、海運業の整理も行われた、というわけです。

すると……。

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