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【菱垣廻船と樽廻船】
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経営圧迫されたのは菱垣廻船だった
一応これで話はついたのですが、どうしても安く済ませたい荷主はいました。
現代でもよくある話ですね。
本来なら菱垣廻船でしか運べないようなものを、樽廻船に積む”洩積み”が、後を絶たなかったといいます。
そのため、圧迫された菱垣廻船は、老朽化した船の修理や、新造船への世代交代もできず、難破船への補填もままならなくなってしまい……。
当然、その状態ではまともに営業できるわけもなく、全体的に衰退していきます。
実に暗い話ですね(´・ω・`)
文化五年(1808年)には、この状況を憂えた江戸十組問屋頭取・杉本茂十郎という人がテコ入れを行います。
これまでの問屋だけでなく、より大きな「菱垣廻船積仲間」を結成し、新たに加わった問屋にも協力を取り付け、お金を出し合って、船の修復と新規建造をしたのです。
また、金融業にも手を広げて、資金源を増やそうとしました。
しかし、これは一時的に衰退を遅らせただけでした。
文政八年(1825年)に残った菱垣廻船の数はわずか27艘。
一方、樽廻船は灘酒造仲間の援助を得て、ますます数を増やしています。
競争社会ではよくある話ですが、世知辛すぎて聞いてるほうが泣けてきますね(´;ω;`)
延命措置がとられたが結局……
菱垣廻船のほうでも、なんとか生き残るために幕府の力を借りています。
紀州藩から船を30艘借りて、必要に応じて尾張や伊勢からも借りられることになりました。
上記の通り、幕府で使うものも運んでいたので、”お情け”が受けられたのです。
天保年間には、上記の1(菱垣廻船・樽廻船両方に積めるもの)だけでなく、新たに鰹節・塩干肴(魚の干物)・乾物、そして幕府に収める砂糖が加えられました。
先にカテゴライズされていた7品目と合わせて、11品目が両積みできることになったのです。
・米
・糠
・阿波藍玉(染料)
・灘目素麺
・酢
・醤油(当時は”溜り”)
・阿波ろうそく
・鰹節
・塩干肴(魚の干物)
・乾物
・砂糖(幕府へ収める)
こうすることによって「菱垣廻船でも運べるものは菱垣廻船で」という流れを作ろうとしたのですが……。
その後、天保の改革(水野忠邦による江戸時代で最後の大きな改革)で株仲間が解散となり、さらに菱垣・樽両廻船問屋も解放。
これに伴って「船の種類で積荷の種類を制限する」という住み分けも撤廃され、荷主の意向でどちらの船でも載せていいことになりました。
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この時点で、菱垣廻船の名前の由来だった菱垣模様もつけなくなり、樽廻船との違いは実質的にほぼなくなります。
しかし、管轄組織としての江戸十組問屋や大坂二十四組問屋は残っていたため、海難事故への補填などを正確に行う定めが必須となり、弘化三年(1846年)に九店(くたな)仲間が結成され、菱垣廻船はこの九店仲間差配の船となりました。
この時点で「樽廻船は酒優先、菱垣廻船はそれ以外の商品」という実にシンプルな住み分けに変わり、両者ともなんとか幕末を生き延びて、明治十年(1877年)ごろまで生き残っています。
細々ではあっても、残っただけまだマシですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「菱垣廻船」「樽廻船」