Yesの方もNoの方も、続けてこんな質問をさせていただきます。
糸割符の「糸」って何のことだと思います?
現代の感覚だとミシンや裁縫で使う綿の糸を真っ先に思い浮かべるかもしれませんが、歴史上でただ単に「糸」といった場合、だいたいは生糸(=絹糸)の話。
つまり糸割符制とは、生糸(絹)に関する何らかの制度ということになりますね。
衣服に直結する話なので、人々の生活に密着した重要な話なのですが、あまり注目されることはありません。
今回は江戸時代の糸割符制度を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
8世紀の大宝律令に記述あり
本題に入る前に、まずは日本における絹生産の歴史を軽く振り返ってみたいと思います。
絹の歴史は非常に古く、8世紀の大宝律令には、生糸や絹織物の生産に関する記述が出てきます。
また『延喜式(10世紀)』の記述からすると、日本のほとんどの地域で養蚕・製糸が行われていたこともうかがえる。
この時点で「どの地域で良い生糸が作られるか?」というランク付けも存在していました。我が国は昔からランキング大好きだったんですね。
しかし、それは税としての話。
商品として国産の絹や生糸がいつから流通し始めたのかはわかっていません。
というのも、西陣織をはじめとした高級な絹織物に使われる生糸は、ほとんどが中国から輸入されたものだったからです。
中国では紀元前3000年頃から養蚕が行われ、一日ならぬ千年の長がありました。
そのため中国産のほうが質が良いばかりか、貿易商にとっても効率よく「高値で売れる」というメリットもありました。
国産の生糸は税の対象にもなっていて、朝廷に収められたり、皇族の衣装に用いられたり……と、限定的に使われていたようです。
平和になって織物業界が再び盛り上がる
江戸時代に入ると、少し状況が変わってきます。
室町時代からの度重なる戦によって衰退しかかっていた京の織物業界が再び活性化し、需要が伸びてきたのです。
そのためには多くの材料が必要。
では、どこで賄おうか?となると、中国から大量の生糸を輸入しなくてはなりませんでした。
国内の養蚕業は、戦国時代の荒廃で大打撃を受けてしまい、かつての半数程度の地域でしか絹の生産が行われていなかったのです。
当時、中国の生糸を日本に輸入していたのは、マカオを拠点とするポルトガル人たちでした。
彼らも、日本における中国産生糸の需要はよく理解しており、
「ここが稼ぎどころだ( ̄ー ̄)ニヤリ」(※イメージです)
と商機を把握。
大量に運んでは売り、運んでは売り……というボロ儲け商売を繰り返しておりました。
その対価として、日本の金や銀が大量に流出してしまうことになったのです。
あー、もったいないー><;
というのは幕府だって百も承知。
貿易=規模のデカイ買い物なわけですから、代金を払うのは当たり前にしても、偏るとマズイわけで、現代でいう貿易摩擦みたいなものとなります。
交渉!→購入!→流通!→山分け!
生糸貿易のバランスをどうするか――。
幕府がいくつかの対策を考えたその中に【糸割符制】がありました。
では、それは一体何なのか?
幕府が堺・京都・長崎の豪商を中心に作らせた「仲間」=組合のようなものです。
中心になったのは御用商人だった茶屋四郎次郎。
彼らがポルトガル人と交渉し、中国産生糸をできるだけ安く仕入れられるようにしていました。
流れとしましてはこんな感じです。
【糸割符チャート】
交渉
↓
購入
↓
流通
↓
山分け
【①交渉】
→糸割符仲間のトップである「年寄」が、ポルトガル側の責任者と生糸の価格を協議する
【②購入】
→糸割符仲間の中で、輸入された生糸の標準価格を決めて一括購入
【③流通】
→糸割符仲間の利益になるよう金額を調整し、他の国内の商人に売る
【④山分け】
→売上から、経費を差し引いた利益分を糸割符仲間で分配する
いわゆる問屋や株式会社に似たところがありますね。
現代の商社や問屋と違うのは、糸割符仲間は長崎奉行の支配下に置かれたため、好きなようにボロ儲けすることはできなかったことです。
それと引き換えに、将軍家や幕府が外国製品を必要としたとき、糸割符仲間が優先的に取り扱う権利を持っていました。
無制限に権利があるというワケではありませんが、だいたいにおいて糸割符仲間のほうにメリットがあった制度といえますね。
※続きは【次のページへ】をclick!