江戸の三大改革については、以下の記事にて見てきましたが、
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一定の成果を挙げた政策もあれば、ほとんど効果ナシどころか、世情を悪化させたものもあります。
特に、もう一つの【天保の改革】については、主導者・水野忠邦の方針がとことんイケておらず、幕府の衰退を招いたフシもあります。
一体どんな内容だったのか?
嘉永4年(1851年)2月10日が命日となる、水野忠邦の生涯と共に見て参りましょう。
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賄賂を使って出世に励み
忠邦は元々、唐津藩(佐賀県唐津市)の藩主でした。
水野家は、徳川家康の母・於大の方の実家であり、戦国時代真っ最中には水野信元が信長に従いながら家康を助け、織田と徳川の同盟を結ばせたりもしています。
徳川政権においては重要な一族ですね。
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そのうち忠邦を輩出した水野家は分家であり、信元の弟・水野忠守から始まりました。
忠守の息子・忠元が藩祖となり、そこから数えて11代目の藩主が水野忠邦となるわけですが……この忠邦、幕府の中枢に入るため賄賂を使って転封や昇進を繰り返しています。
客観的に見ると、もうこの時点で嫌な予感しかないのですが、本人はホクホク顔でした。
家督を継いで唐津藩主になったのが18歳で、幕政のTOPである老中首座になったのが45歳ですから、執念のすさまじさがうかがえます。
ちなみに大老というのは臨時職で、通常は老中首座が筆頭となります。
その辺は以下の関連記事をご参照ください。
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ただし、忠邦も単に野心だけの人ではありません。
当時の日本を取り巻く問題が多々あり、特に経済的な改革が必要であることは十二分にわかっていました。
彼が老中首座になった時点では、大御所(11代将軍)だった徳川家斉がまだ存命。
現職である十二代将軍・徳川家慶や幕閣にはほとんど実権がなく、西の丸に住んでいた家斉とその側近たちによって「西丸御政事」という状況になっていました。
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そのため、家斉が亡くなる天保十二年(1841年)までの間、忠邦は老中首座の席でヤキモキしていたと思われます。
家斉と家慶は親子仲が悪く、忠邦は家慶に厚く信任されました。
忠邦は現職の将軍という最大の後ろ盾を得て、元・家斉の側近たちを追い出し、いよいよ天保の改革を始めます。
東北地方の壊滅的な不作で飢饉が発生した
天保の改革――その本題へ向かう前に、当時社会を取り巻いていた現象をチェックしておきましょう。
国内で大きく懸念されていたのは、なんと言っても【天保の大飢饉(1833~1839年)】ですね。
1833年に起きた洪水や冷害によって、主に東北地方の諸藩で壊滅的な不作。とりわけ仙台藩では米作への依存度が高かったため、被害が大きくなっています。
また、米作への依存を減らして他の商品作物の割合を増やしていた藩でも、農民間で貧富の格差が激しくなり、結果、貧しい者から餓死していきました。
力尽きる前に江戸へ逃げ込んだ者もいましたが、幕府が用意した救小屋(すくいごや・現代でいえば災害時の避難所)の定員に対し、100倍以上の人数が救いを求めてきたそうですから、餓死者の惨状も凄まじいものだったことがうかがえます。
収穫される米の量が少ないのですから、当然米価も爆上がり。
百姓一揆や打ちこわしが頻発しました。
これまた有名な【大塩平八郎の乱(1837年)】も天保の大飢饉の影響を受けたものです。
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推計では、その影響で日本の人口は92万人ほど減った……とも考えられています。
世界史上まれに見る悲惨さで有名なアイルランドのジャガイモ飢饉も、死者数については天保の大飢饉とほぼ同レベルでした。
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都市部への農民流入で治安が悪化
天保の大飢饉で生き残った人たち……特に農民の多くは、拾った命を保つために、農村を捨てて都市部へ向かいました。
むろん都市部とて、無限に人を養えるわけではありません。
日雇いの仕事が見つかればまだいいほうで、そこにすら辿り着けない人々は、生きるために窃盗などの犯罪に手を染めるしかありませんでした。よくある治安悪化の流れですな……。
加えて、幕府と諸藩の関係も、決して良くはありませんでした。
というのも徳川家斉が子沢山過ぎたために、あっちこっちの大名家へ養子入りや嫁入りをさせていたからです。
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将軍の息子や娘を迎えれば、その家は別格扱いになります。となると、他の大名にとっては当然面白くありません。
しかも歴史に残るような大飢饉とほぼ同時並行なのですから、不満がたまるのも当たり前の話でしょう。
同時に国外からも、危機が迫りつつありました。
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