平賀源内

平賀源内/wikipediaより引用

江戸時代

ドラマ10大奥・平賀源内は史実でも田沼が重用? 天才本草学者の生涯

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平賀源内の学問と発明

平賀源内は目端のきく人物でした。

その才知は多岐に渡り、現代人からするとマルチタレントすぎて掴みにくくなってしまうほど。

前述の通り、本草学は植物のみならず鉱物も範囲とします。

そのため源内は鉱山採掘や精錬といった技術を学び、陶器作りに適した土や、鉱床の発見といった業績もあり、その経験を活かして物産博覧会も開催してゆきました。

かくして進取に富む幕府老中・田沼意次にまでその名は届くようになります。

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源内は、出版業などの功績でも知られますが、本草学などの理系学問も同時に進めていて、実に器用というか、現代人から見ると「どっちつかず」と思われてしまうかもしれません。

しかし本来、人間の才能や学問とは、理系文系の区分など無いのかもしれません。

それは平賀源内の関係した発明品や研究を見るとわかると思います。

以下にリストアップしてみましょう。

・芒消(ぼうしょう/芒硝/硫酸ナトリウム)の製造

硫酸ナトリウムと硫酸マグネシウムを指す言葉であり、源内の場合は前者とされます。

幕命を受け、伊豆で製造。工業用途もあり、薬剤としては消化や利尿を促すものとされています。

当時の薬剤調合には、科学的な工程も含まれていました。

・鉱山開発

中津川はじめ、さまざまな鉱山の開発や、採掘に携わっています。

秋田藩からも招聘を受けるほど。

製鉄技術の改善にも挑みましたが、完成には至りませんでした。

・火浣布(かかんぷ)

「火で洗うことのできる布」という意味です。

『竹取物語』には、かぐや姫が求めた宝物として「火鼠の皮衣」が登場します。

唐土(中国)にある宝物で、火にくべても決して燃えることがなく、燃やすと汚れが落ちるというもの。

「火鼠の皮衣」とは、この火浣布のことだとされます。

源内は、中津川村で見つけた石綿(アスベスト)を織れば、火浣布になるとひらめきました。

そして香を炊く際に敷く香敷を作り上げると将軍に献上し、幕閣にも知れ渡ると、評判を聞きつけた清人から布地の注文も来ましたが……。

源内が作り上げた香敷は2センチ四方程度。

清人の注文は乗馬様の羽織であり、2メートル70センチという大きなものです。

とてもそのサイズに達することはできず、源内も徐々に諦めの境地へ向かい……最終的に実用品を作り上げたとは言えませんでした。

源内は、宣伝上手で筆も達者なため、他者の貢献まで含めて自分の功績としたところもあります。

前野良沢らも火浣布作りを続けたものの、実用化には至りませんでした。

・竹とんぼ

竹とんぼは中国で子どものおもちゃとして存在しました。

東晋『抱朴子』にも記載があり、これをふまえれば源内が竹とんぼを発明したとするのは、誤りであるとは思えます。

ただし、改良なり商品化を進めたという意味でなら否定できなくもありません。

・温度計、万歩計、方位磁石

オランダ製の各種機器を見て、これならば自分でも作ることができる!と言い切り、その通りにしました。

・源内焼

朝鮮人参の例でも挙げましたように、中国由来のものを安価な国産化にすることで、輸入縮小を考えていたのが当時の日本。

そのもう一つの典型例が、源内の故郷・志度で焼かれた「源内焼」でしょう。

当時は、明清時代の陶器を模した色鮮やかな品物が高値で取引され、豪商や大名家がこぞって家宝として求めました。

そうした色彩を模した皿を国産化し、故郷の特産品とすることに尽力。江戸で見本を作り、故郷へ送って焼かせたのです。

さらに源内らしく西洋風のアレンジも加えました。

サイフォンの原理を用いた自動噴水器という、源内らしい逸品もあります。

海禁政策をとった東アジアの国は、西洋史視点から全く閉じこもっていたように見られることもありますが、実際はそうではなく、閉ざしつつも、備えていたのが江戸幕府です。

変革は進んでおり、源内はまさしく時代の変革と一致した人物といえます。

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・羅紗(毛織物)

羊毛を用いたウールの品物は、日本でも使われるようになっていました。

とはいえ島国の日本では、羊を放牧する習慣がありません。

そこで源内は、牧羊して毛織物を作る計画を立てましたが、本格的な実現には至りませんでした。

幕府でも清人による指導のもと牧羊を試みて、短期間のうちに頓挫しています。羊は函館に送られたまま、計画は途絶えてしまったようです。

日本で軍服をはじめとするウールの需要が高まり、牧羊が定着するには明治を待たねばなりません。

・菅原櫛

最高級品の櫛。

伽羅の木、銀細工、象牙の歯に、細やかな模様が施されていました。

源内は当時トップクラスの吉原遊女であった丁子屋の雛鶴に贈り、抜け目なく宣伝しています。

・金唐傘

薄いなめし革に模様をつけ、金漆を塗った傘。源内が作ったのは、革に模した紙製でした。

こうした櫛や傘はあくまでどん底だった収入を補うもので、本人としては不本意だったようです。

・戯作者(ペンネームは風来山人)

『放屁論』という自虐ネタまみれのエッセイ集や、奇想天外なタイトルからして凄まじいセンスです。

浄瑠璃から俳諧まで、様々なライター活動をしていました。

SFの草分け的な作品や、痛烈なユーモアや風刺を得意としています。

・「土用丑の日」には鰻を食べる

源内は当時の広告代理店のような役割も果たしています。

「引き札」というチラシの制作や、コピーライティングも手掛けていたのです。

ある日、知り合いの鰻屋が「夏場は売り上げが伸びない」と源内にボヤきました。

すると源内は「土曜丑の日」には「う」のつくものを食べると良いという、アイデアを出します。

博識らしく陰陽五行説を用い、それらしく演出し、これが大当たり。現代までも続く風習となりました。

・エレキテル

源内が一から発明したわけではありません。

故障したエレキテルを入手し、自力で修復したのですが、それしたって才知なくして不可能なことでしょう。

ただ、それでも注意は必要で、当時、エレキテルは日本に複数持ち込まれ、幕府にも献上されていました。

そうした中、オランダ語の知識をもとに桂川甫周もエレキテル製法を研究しています。

どうにも行き詰まっていた甫周は、源内と話すことでヒントを得たといいます。互いに知識を補い合っていたのでしょう。

こうして複数名が関わっていたものを、源内が持ち前の宣伝センスを駆使して、己一人の功績にしたと思えなくもないところはあります。

偽物や模倣騒動もあり、各人ごとの言い分がありそうです。

なお、このエレキテルは病気治療や見物客を集めるための道具として、注目を集めました。

・西洋画

平賀源内の作品といえば『西洋婦人図(→link)』が有名です。

しかし「伝平賀源内作」とされていて、何らかの模写と推察されます。

インパクトが強い作品ではありますが、着彩はのっぺりとしており、実は西洋画の技法は学んでおりません。

きっちりと技法を学んだ明治以降の西洋画とは異なるのです。

一応は西洋画ではあり、まだまだ進歩の余地がある作品なのでしょう。

・『解体新書』挿絵画家を推挙

盟友の杉田玄白らが手掛けた『解体新書』。

この挿絵画家として秋田藩の小田野直武を推薦しました。

源内が秋田藩に向かった際、小田野直武の才能を見込み、西洋画の技法を伝授していたのです。

 

このように多彩な才能を見せた源内。

しかし、どれも中途半端で、完徹したと言い切れないところに、限界がありました。

これは源内の能力というより、時代や科学技術の制限も影響したのでしょう。

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