一つは『吾妻鏡』のように実際に起きた出来事を記録したもの。
もう一つは『名将言行録』のようにさまざまな人物の逸話を集めたものです。
『名将言行録』は、かなり時間が経ってから書かれたものが多く、事実かどうか?についてはかなり眉唾ですが、面白エピソードが多いため小説やドラマなどでよく使われます。
安永十年(1781年)1月9日に亡くなった湯浅常山(ゆあさじょうざん)も同様の書物を著しました。
『常山紀談(じょうざんきだん)』です。
戦国ファンには有名な本なので、ご存知の方も多いかもしれません。
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戦国武将のエピソード元ネタ
常山紀談は、近代デジタルライブラリーで明治時代の文庫版(→link)を見ることができ、目次だけでも歴史上の有名な逸話がたくさん収録されているのがわかります。
戦国時代では【厳島の戦い】や【川中島の戦い】、【三方ヶ原の戦い】といった戦の記録はもちろん、加藤清正の虎退治や細川ガラシャの死に様といったこれまた有名な逸話も入っています。
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江戸時代の人が書いたものであれば当然徳川家のことは悪く書いてないだろうと思いきや、こんな話も入っています。
秀忠が駿府に隠居した家康に会いに行ったら、父親から「まだお前は若いんだから、夜のお相手が欲しいだろ?ニヤ(・∀・)ニヤ」と言われた。
その夜家康の命令で綺麗な女中が来た。
しかし秀忠は手をつけなかった。
家康は「律儀なヤツよ(´・ω・`)」と感心した(超略)
たぶん秀忠のイイ話として入れたのでしょうけども、なんじゃこりゃ。
家康がカッコ悪く見えて仕方ないのはワタクシだけでしょうか。
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まぁ、秀忠に子供が少ないのを心配したのかもしれません。
というか家康が生涯現役過ぎるんですね。
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※最後の子供・市姫は家康64歳のときの子供です(ただし三歳で夭折)
『常山紀談』には黒田官兵衛が
「関ヶ原の戦いがもっと長引けば、九州を制圧してから家康と最終決戦してやったのに」
なんてエピソードも掲載されていました。
岡山藩出身のきまじめ老武士
ではこの本を書いた常山という人は、どんな人だったのか?
というと、常山は元々岡山藩の中級武士でした。
江戸に出ていろいろな学問を身につけてから藩主の池田家に仕えていたのですが、あるとき主君へ諫言をしたところ、見事にクビになってしまいました。
「上のやることに文句をつけること自体がけしからん」というわけです。まぁ、それが封建制ですね。
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常山という人物は情に厚く、くそがつくほど真面目で「武士の本分は武道なんだから、文学などいらん!!」というような性格だったようです。
「本を書いた人間が何言ってんの」とツッコミたくなりますが、常山は年をとっても毎日槍や刀の素振りを欠かさなかったそうなので、本人的にはOKということだったのでしょう。
なかなか面倒な頑固オヤジってところでしょうか。
だからこそ主に逆らうような物言いをしてしまったのでしょうね。
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