承応ニ年(1653年)1月13日は、江戸幕府から玉川上水の着工許可が下りた日です。
今では「上水」と言われても「川と何が違うの?(´・ω・`)」という方も結構多いかと思いますが、当時はとても画期的なことでした。
なんせ江戸城から約44km離れた水源を拠点として、町へ水を流す水路を作ったのです。
一体どんな経緯で上水が整備されたのか?
玉川兄弟の執念とも言うべき功績と共に見ていきましょう。
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井戸も掘ったが海水混じり
皆さん御存知の通り、江戸は徳川家康が移封されてから大きく発展した街です。
特に江戸幕府ができてからというもの人口が急増。
木造家屋が増え、一度火事が起きると大惨事になりやすくなり、人口激増の影響は他の点にもありました。
飲み水もその一つです。
「武士は食わねど高楊枝」なんて狂歌がありますけども、いくら武士だって水がなければ生きていけません。
まず「井戸を掘って何とかしよう」という試みますと……いかんせん海に近すぎて真水に海水が混じってしまい、飲食には使えませんでした。
そこで大きな川や池から水を引く「上水」が計画されたのです。
今でいう上水道のことですね。
こうした上水はいくつか作られましたが、玉川上水は多摩川から水を引いて作られたもので、総奉行には「知恵伊豆」こと松平信綱が就任。
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幕府が上水工事を重く受け止めていたことがうかがえます。
なお、江戸の治水事業といえば、家康の命で工事を進めた伊奈忠次も知られますね。
忠次は主に利根川を東へ迂回させるもので、次男の伊奈忠治も引き継ぎ、治水以外にも製塩や桑、麻、楮の栽培なども進めています。
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多くの有能な武士によって江戸という街は整備が進められたのでした。
一度目は日野 二度目は福生 そして羽村に辿り着く
玉川上水の事業に話を戻しまして、こちらの工事にもかなりの資金が投下されました。
というか実は二回ほど失敗しています。
一度目は日野付近から水を引こうとしたら「地面に水が吸い込まれた」ようです。
詳しい記録が残っていないので、何だったのやらよくわかりません。
当時は【水喰土(みずくらいど)】といわれたそうなので、本当に土が水を食らっているように見えるほど、あっという間に吸い込まれてしまったのでしょう。
字面からして地中に妖怪でもいるようなイメージが湧いてきますね。
二度目は、福生から水を引こうとしたときです。
このときは工事中に岩盤にぶち当たってしまって工事が難航したため、別ルートにせざるを得なかったといわれています。
どちらも掘ってみないとわかりませんから、仕方のない事ですね。
そして三度目の正直になったのが、羽村からの工事でした。
玉川上水の整備と同時に作られた【羽村取水堰(せき)】(東京都羽村市)から江戸城まで、現在の計測で約44kmです。
徒歩で約9時間半ですから、重機もない江戸時代に工事をするとなると、途方も無い距離ですよね。
この場所を決めたのが、信綱の家臣で川越藩士の一人・安松金右衛門という人物。
元々算術が得意だったため、設計の見直しをするよう信綱から命じられたのでした。
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