玉川兄弟と玉川上水

玉川兄弟像

江戸時代

私財を売ってまで工事費を捻出した玉川兄弟「玉川上水」の整備に賭けた執念

2025/01/12

承応ニ年(1653年)1月13日は、江戸幕府から玉川上水の着工許可が下りた日です。

今では「上水」と言われても「川と何が違うの?(´・ω・`)」という方も結構多いかと思いますが、当時はとても画期的なことでした。

なんせ江戸城から約44km離れた水源を拠点として、町へ水を流す水路を作ったのです。

東京都内を流れる玉川上水

一体どんな経緯で上水が整備されたのか?

玉川兄弟の執念とも言うべき功績と共に見ていきましょう。

 


井戸も掘ったが海水混じり

皆さん御存知の通り、江戸は徳川家康が移封されてから大きく発展した街です。

特に江戸幕府ができてからというもの人口が急増。

木造家屋が増え、一度火事が起きると大惨事になりやすくなり、人口激増の影響は他の点にもありました。

飲み水もその一つです。

「武士は食わねど高楊枝」なんて狂歌がありますけども、いくら武士だって水がなければ生きていけません。

まず「井戸を掘って何とかしよう」という試みますと……いかんせん海に近すぎて真水に海水が混じってしまい、飲食には使えませんでした。

そこで大きな川や池から水を引く「上水」が計画されたのです。

今でいう上水道のことですね。

こうした上水はいくつか作られましたが、玉川上水は多摩川から水を引いて作られたもので、総奉行には「知恵伊豆」こと松平信綱が就任。

幕府が上水工事を重く受け止めていたことがうかがえます。

なお、江戸の治水事業といえば、家康の命で工事を進めた伊奈忠次も知られますね。

伊奈忠次像(茨城県水戸市の備前堀道明橋上)/wikipediaより引用

忠次は主に利根川を東へ迂回させるもので、次男の伊奈忠治も引き継ぎ、治水以外にも製塩や桑、麻、楮の栽培なども進めています。

多くの有能な武士によって江戸という街は整備が進められたのでした。

 


一度目は日野 二度目は福生 そして羽村に辿り着く

玉川上水の事業に話を戻しまして、こちらの工事にもかなりの資金が投下されました。

というか実は二回ほど失敗しています。

一度目は日野付近から水を引こうとしたら「地面に水が吸い込まれた」ようです。

詳しい記録が残っていないので、原因はよくわかりません。

当時は【水喰土(みずくらいど)】といわれたそうなので、本当に土が水を食らっているように見えるほど、あっという間に吸い込まれてしまったのでしょう。

字面からして地中に妖怪でもいるようなイメージが湧いてきますね。

二度目は、福生から水を引こうとしたときです。

このときは工事中に岩盤にぶち当たってしまって工事が難航したため、別ルートにせざるを得なかったといわれています。

どちらも掘ってみないとわかりませんから、仕方のない事ですね。

そして三度目の正直になったのが、羽村からの工事でした。

玉川上水の整備と同時に作られた【羽村取水堰(せき)】(東京都羽村市)から江戸城まで、現在の計測で約44kmです。

徒歩で約9時間半ですから、重機もない江戸時代に工事をするとなると、途方も無い距離ですよね。

この場所を決めたのが、信綱の家臣で川越藩士の一人・安松金右衛門という人物。

元々算術が得意だったため、設計の見直しをするよう信綱から命じられたのでした。

 

玉川兄弟が費用を捻出

金右衛門は、羽村付近から掘る案を3パターン作り、そのうちの一つによってようやく玉川上水が完成します。

また、実際の工事には近隣の農民であったといわれる庄右衛門(しょうえもん)・清右衛門(せいえもん)の玉川兄弟も大きく貢献しました。

なんせ途中で幕府からの工事費用が尽きた際、私財をなげうってまで費用を捻出するほど。

そこは信綱に訴えてもよかったんじゃ……?

と思うんですが、二回も失敗したから言い難かったんですかね。信綱なら「自然が相手なんだから仕方ない」って許してくれそうな気もしますけども。

事実、三度目の正直で無事工事を終わらせた彼らに罰が下ることはなく、「玉川」姓の使用が許されました。

現在、羽村市に玉川兄弟の像が建っています。

それがTOPにある画像で、これ、めちゃくちゃカッコイイですよね。

戦国武将や大名以外、もっといえば一般人の像としては屈指のポージングじゃないでしょうか。

何も知らない人に「これ何の像だと思う?」と聞いたら、「忍者」とか「旅人に紛れ込んだ刺客」なんて答えが返ってきそうです(褒め言葉)。

玉川上水の羽村陣屋跡

 


かくして小金井桜も生まれた

こうして作られた玉川上水は、江戸時代を通じて江戸の上水道として役割を果たしました。

水質を保つため、水浴びや洗い物、魚釣りなどは厳しく取り締まられています。

また、水路の両側三間(約540m)は草むしりや木の伐採もご法度でした。

このためか、徳川吉宗の時代にヤマザクラの木が玉川上水沿いに植えられるようになり、花見客も訪れるようになります。

【小金井桜】が有名ですね。

小金井桜は、吉野などから良い木を取り寄せて植えられたものなんだそうですよ。

明治時代の研究では、いわばヤマザクラのハイブリッド地帯であると判明したとか。

大正時代には国の名勝に指定され、人々に愛されましたが、周辺の環境が変わってしまったために、枯死してしまったものも多いそうで……。

現在「名勝 小金井桜の会」という有志の方々によって保護・復活が試みられています。

お近くの方は協力されてみてはいかがでしょうか。

2003年には国の史跡にも指定されていますし、どうせなら国のほうで桜も一緒に保護してくれたらいいんですけどねえ。

そういうほうが「クール・ジャパン」だと思うんですが、いかがでしょう。


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【参考】
国史大辞典
日本大百科全書
羽村取水堰/東京都水道局
小金井桜の会(→link
玉川上水/wikipedia
治水/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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