大河ドラマ『光る君へ』で注目された藤原氏一強の平安時代。
道長もまた、甥の伊周やその他の藤原一族と権力争いを続けていましたが、それ以前から幾千もの政争があり、その度に数多の藤原モンスターが現れ、次代へ引き継がれてきました。
今回の“日本史ワル査定”で注目したいのは、平安前期に【阿衡事件】や【応天門の変】に関わった藤原基経です。
菅原道真を讒言で陥れた藤原時平の父が基経となりますが、一体なにをしでかしたのか?
寛平3年(891年)1月13日が命日となる、藤原モンスターの事績を振り返ってみましょう。

藤原基経/wikipediaより引用
叔父もかなりの藤原モンスター良房
藤原基経は承和3年(836年)、中納言・藤原長良の三男として生まれました。
最初に少し、父・長良の話をしておきますと……。
彼は藤原冬嗣の長男。
一族の中で最もイケてる藤原北家の出で、当時のドエリートでありますが、長良は弟の藤原良房に出世競争で負けてしまいます。
ただ、大変性格の良い人だったので貴賎を問わず皆から慕われ、二人の兄弟仲も良好だったと伝わります。
そしてその子である基経は、男児のいなかった叔父・良房に見込まれて養子となりました。
この良房叔父さんがかなりの切れ者。

藤原良房/wikipediaより引用
皇室以外で初めて摂政になった人物、かつ皇女を嫁にもらうという権力者にのしあがります。
基経もその下で政治的手腕を遺憾なく発揮するようになりました。
応天門での放火事件をキッカケに
866年、応天門が放火され炎上するという大事件が起きました。
天皇の住まいと職場に近いところでの火事で、しかも放火ですから、単なる失火では済まされません。
直後に動いたのが大納言・伴善男(とものよしお)でした。
「犯人は左大臣の源信(みなもとのまこと)だ!」
として右大臣の藤原良相(ふじわらのよしみ)に訴えでたのです。
そこで良相は、すぐさま源信の逮捕を命じるのですが、ここで藤原基経が「ちょっと待ったぁああああ!」で、権力闘争の始まりです。
実は右大臣の良相とは、冬嗣の五男。
つまりは良房の弟であり、基経の叔父にもあたる人です。
しかもナイスガイで人気者だったので、ライバルとなる良房にとっては目の上のたんこぶでしかありません。
ちなみに良房は、伴善男とも源信とも仲良しではありません。彼らを助けようなんて気持ちはない。
ここで基経、太政大臣であった良房に「源信は無罪でしょう」と報告。
結果、良房の尽力で源信は無罪となり、その後のタレコミで「真犯人は伴善男だ」ということになり、自作自演乙という展開で伴善男は流罪となりました。
左大臣の源信をはめようとして伴善男が自滅した――そんな事件が【応天門の変】です。

燃え盛る応天門の炎を見て動揺する貴族たち(伴大納言絵詞/wikipediaより引用)
良房から見れば、
・ライバルの伴氏が政治の舞台から消え、
・左大臣には恩を売ることができ、
・さらには良相を「あれ? 放火犯の伴善男とつるんでたよね?」とプレッシャーをかけノイローゼにしちゃう
という一石三鳥。
ゆえに伴善男は本当に犯人だったのか?と疑念も残されているほどです。
融君は天皇になれま……しぇ~ん!!
かくして順調に出世した藤原基経は、義父の良房が亡くなった後、朝廷で権力を握ります。
時の天皇である清和天皇は、良房の孫にあたり基経とも血縁。
しかも清和天皇の女御である高子は、基経の実妹であり、皇子を2人産んでおりました。
清和天皇は高子の息子に譲位し、9歳の幼帝・陽成天皇が即位します。
と、ここで伯父である基経は摂政となったわけです。
しかーし、色々あって基経と高子は兄妹ながら犬猿の仲であり、成人した陽成天皇と基経の仲もこじれました。
陽成天皇は行いが粗暴だったこともあり、退位を迫り、これを実現させます。
ここで基経が次の天皇に据えたのが仁明天皇の第3皇子であった時康親王。
基経の母方の従兄弟にあたり、性格はいたって穏やかであり、即位して光孝天皇となりました。
ちなみにこのとき左大臣・源融(みなもとのとおる)と基経の間でこんなやりとりがありました。
「俺、嵯峨天皇の皇子だし皇位継承できない?」
「姓をもらって天皇になった前例がないからダメ~!」
皇族から臣下になることを【臣籍降下】と言いますが、
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なぜ皇族から源氏や平氏が出てくるのか?臣籍降下による皇位皇族の法則
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源融はまさにそれで源氏の姓になっていました。
そのため「天皇になりたい」という申し出は一喝されます。
一方で、基経のおかげで天皇になれた光孝天皇は恩義を感じ「太政大臣である基経に政治を委任します」と実質上の関白宣言。
さらに光孝天皇は「ウチの皇子と皇女たち26人全員『源』にしました。臣下にしたから皇位継承しないよね」とアピールしました。
なぜ、そんな極端なことをしたのか?
というのも光孝天皇、
『基経は甥にあたる陽成天皇の弟を次の天皇にしたいのだろう……』
と空気を読んだのですね。
ここまで天皇に気を遣わせるって凄まじいです。
あれ? 源姓は天皇になれ……ま~す♪
しかし即位して3年後。
光孝天皇が危篤となると、後継問題が浮上します。
そこで、いよいよ件の甥の登場と思いますよね?
違った。
甥とは、藤原基経の大嫌いな妹・藤原高子の息子だったのです。
そこで「アイツは無し!」と突っぱね、光孝天皇の第七皇子である源定省(みなもとのさだみ)を後継に推薦してしまいます。
光孝天皇にとっては、寝耳に水の展開だったでしょう。
第七皇子の源定省とは、自らが天皇にしたかった息子です。喜びのあまり天皇が藤原基経の手を取ったという逸話も納得ができます。
って、ここで少し違和感を感じませんか?
源氏姓の源定省がなぜ天皇に?
源融に対しては「一度、姓を貰ったら、もう天皇にはなれない」と言ってたよね? あの決まりはどうしたん? あっさり覆されたってこと?
はい、もはや基経が法律でした……。
かくして源定省は天皇の臨終間際に親王に復位し、東宮になった日に天皇が崩御すると、次代の宇多天皇となったのです。

宇多天皇/wikipediaより引用
阿衡だから、ワイ、仕事はしまへん
さて藤原基経のおかげで天皇になれた宇多天皇。
父親と同じく「基経に政治委任しちゃうよ」宣言をします。
と、ここで新たな問題が起きます。
宇多天皇は詔の草起を左大弁・橘広相(たちばなのひろみ)にさせたのですか、橘氏の活躍を快く思わなかった基経が、詔の中の
【阿衡(あこう)】
という表現に噛みついたのです。
「阿衡ってば名ばかりの名誉職じゃん! あっ、そう。ワイのことを軽んじているワケね。だったら仕事しましぇーん」
そんな風に難癖つけて、仕事を完全サボタージュするのです。
宇多天皇が何度「そういう意味じゃない!」と取り繕っても意に介さず、ついに橘広相は罷免。
「私が間違っていました」という詔を天皇に出させるに至りました。
基経は更に「広相を流罪にどう?」とも主張していますが、さすがにそれはアカン!とした菅原道真が間に入り事件は収束します。

菅原道真像(菊池容斎)/wikipediaより引用
この出来事を【阿衡事件(あこうじけん)】と言います。
意義としては、
【天皇よりも藤原氏が権力を持っていたことを世に知らしめた】
となりますね。
宇多天皇はメチャメチャ悔しかったようで、基経亡き後に「藤原外し計画」を行います。
やっぱり基経はやり過ぎでしたね。
悪人度 ★★☆☆☆
影響力(権力)★★★★★
妹嫌い度 ★★★★★
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【参考】
藤原基経・藤原良房・応天門の変・伴大納言絵詞
国史大辞典
wikipedia










