筒井定次の挿絵

筒井定次『義烈百人一首』/wikimedia commons

戦国諸家

秀吉に大和を追われ徳川に切腹させられた筒井定次|東軍についたのになぜ?

大河ドラマ『豊臣兄弟』第37回で、ほんの一瞬だけ名前が出た武将がいます。

筒井定次(つついさだつぐ)――彼はいったい何者なのか?

というと、秀長の大和入り前に同国を治めていた戦国大名であり、秀吉の決断ひとつで伊賀へ移されてしまった男です。

画面ではわずか数秒の出来事でしたが、この国替えにより筒井家は、中世以来ずっと大和に根を張ってきた本国を離れることになりました。

定次に降り掛かった理不尽な不幸はそれで終わりません。

いったい何が起きたのか?

筒井定次の挿絵

筒井定次『義烈百人一首』/wikimedia commons

本記事では、秀吉に大和を追われ、家康に切腹させられた筒井定次の生涯を振り返ってみましょう。

 


そもそも跡継ぎの第一候補ではなかった

戦国時代の筒井家といえば?

松永久秀とバチバチに対立していたことで知られる筒井順慶が有名ですね。

筒井定次はその養子となりますが、順慶が最初に選んだ跡継ぎではありませんでした。

筒井順慶の肖像画

筒井順慶/wikimedia commons

『多聞院日記』に、こんな記述があります。

【意訳】順慶はもともと筒井家の名跡を番条五郎という人物に継がせようと考えており、秀吉もこれに同意していたが、当の五郎には全くその気がなかった。

本命が断り、回ってきた跡継ぎというわけです。

では、筒井定次はどんな出自なのか?というとこれが難しい。

天正十年(1582年)7月11日、順慶は秀吉の大和取次を務める伊藤掃部助に対し、「小泉四郎」を人質として差し出しています。

この小泉四郎こそ後の定次であり、天正十二年(1584年)7月にも、再び人質として送られています。

『寛政重修諸家譜』によれば、永禄五年(1562年)に慈明寺順国の次男として生まれ、母は順慶の父・順昭の娘とされます。

つまり順慶にとっては甥ですね。

定次の妻は織田信長の娘ともされますが、『筒井順慶』の著者・金松誠氏は、後世に編纂された史料によるものだとして真偽は不明としています。

一方で、信長の娘が天正六年(1578年)に定次へ嫁いだとする説もあり、こちらも真偽は定まっていません。

最初から、何だか不穏な情報ばかりですね。

 

大和を追われた一度目

天正十二年(1584年)8月、筒井順慶が36才で病死しました。

葬儀は10月16日に行われ、西大寺の長老が引導を渡し、興福寺の僧が大勢参列。

『多聞院日記』では「金銀を尽くし、美麗事を尽くすなど、妄想の所為であった」と書き残しており、葬送の行列は22番まで組まれ、七十人余りが連なったといいます。

葬儀で、順慶の棺のすぐ後ろを歩いていたのが「四郎殿様」こと筒井定次でした。

その翌年、思わぬ転機が訪れます。

天正十三年(1585年)閏8月18日、秀吉が弟の秀長へ大和を与えると決めると、翌19日には定次の伊賀転封が申し渡され、高取城も接収されてしまったのです。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

このとき大和の国衆は、定次について伊賀へ移るか、武士をやめて土地に残るか二択を迫られ、多くは伊賀へ向かったといいます。

果たして秀吉の処断をどう見ればよいのか?

筒井家はそもそも興福寺と縁が深い一族であり、そのため大和から追い出されたように、大河ドラマ『豊臣兄弟』では説明されていました。

研究者の和田裕弘氏は著書『豊臣秀長「天下人の賢弟」の実像』の中で、丹羽長秀といい順慶といい、当人が死去すれば後継者への待遇は手のひら返しである、と記しています。

言われてみれば、確かにその指摘は一理ありますよね。

丹羽長秀も100万石を超える所領を与えられながら、その死後、嫡男の丹羽長重が継ぐと、所領のほとんどを召し上げられました。

丹羽長秀の肖像
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蒲生氏郷の死後も長秀同様です。

むろん大和は、ドラマの説明のように大寺院の勢力が強い特殊なエリアというのは間違いありません。

それだけに秀吉も何かと刷新を図りたかったのでしょう。

では伊賀へ移った定次は、その後どうなったのか?

 


それでも国持大名として扱われた

筒井定次は、伊賀で落ちぶれたわけではありません。

研究者の黒田基樹氏が著書『羽柴秀長の生涯』で整理した石高の内訳が興味深い。

先代の筒井順慶が大和一国で得ていた所領が18万石だったのに対し、定次は転封先の伊賀で10万石に加え、伊勢で5万石、山城で3万石、合計すると18万石になります。

国替えで石高そのものは減っていません。

しかも天正十四年(1586年)正月20日には侍従に任官して公家成を果たし、豊臣姓と羽柴の名字まで与えられました。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

天正十五年(1587年)正月1日、九州攻めの陣容を定めた秀吉の朱印状では、定次もこう記されています。

◆天正十五年(1587年)正月1日付 羽柴秀吉朱印状写に見える記載順

・羽柴備前少将(宇喜多秀家)

・羽柴丹後侍従(細川忠興)

・羽柴中納言(羽柴秀長)

・羽柴伊賀侍従(筒井定次)

・羽柴若狭侍従(丹羽長重)

【参考】黒田基樹『羽柴を名乗った人々』

宇喜多秀家、細川忠興、羽柴秀長に次いで四番目なのです。

翌天正十六年(1588年)の聚楽第行幸で交わされた起請文では「伊賀侍従豊臣定次」と署名しており、徳川家康や前田利家とも同列に名を連ねている。

大和は失ったものの、豊臣政権で表面上は相応の位置にいたわけです。

しかし、その足元は静かに削られていきます。

 

名目は国持大名、実質は5万石

文禄三年(1594年)の「伏見普請役之帳」に記された筒井定次の領知高は5万石でした。

天正十七年(1589年)ぐらいに5万石へ減知されたのでは?というのが黒田氏の見解。

わずか4年ほどで、18万石から13万石まで減らされたのですね。

伊賀一国は10万石ですから、定次の領地は一国の半分にすら届いていないことになります。

それでも定次は「伊賀侍従」「伊賀守」と呼ばれ続けました。

かつて大和のほぼ一国を治めていた経緯が踏まえられ、転封後も国持大名の扱いがとられたのだろうと見られています。

名目は国持大名、しかし実質は5万石。

そして秀吉が世を去ると、その名目すら崩れていきます。

果たして何が起きたのか?

 

東軍についたのに改易された

関ヶ原の戦いで西軍についたんだな。

そう思われがちですが、違います。

慶長五年(1600年)の関ヶ原で、定次は家康方――つまり東軍につき、上杉征討にも従軍して下野の小山まで赴いて、戦後は所領を安堵されています。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikimedia commons

『徳川家康家臣団の事典』では「関ヶ原の戦いで家康に属した豊臣大名」という章が立てられ、その筆頭に筒井定次の名が挙げられているほどです。

ところが、そこから8年後。

慶長十三年(1608年)6月、定次は突如改易されてしまいます。

表向きの理由は、家臣に悪行を訴えられたことであり、いわゆる御家騒動にも見えますが、話はそう単純ではありませんでした。

当時の家康にとって最大の懸案は、大坂城に健在な豊臣家でした。

豊臣姓を持ち、大和にも縁の深かった定次を、要地の伊賀上野に置いておくことに不安を覚えていたとしても不思議ではありません。

家中の不和は、その不安を表沙汰にするための口実だったのかもしれません。

東軍について所領を安堵されながら、所領ごと消されてしまうとは、あまりに理不尽な話でしょう。

 

大坂の陣で父子そろって

改易された筒井定次に、最後の一撃が加えられたのは慶長二十年(1615年)のことでした。

大坂冬の陣に際し、豊臣家へ内通したという理由により、定次は嫡男の順定とともに自害を命じられます。

享年54。

これにより筒井の主家もお取り潰し。

豊臣方と直接通じた証拠が示されたわけではありません。

理由は「御不審をこうぶり」と記すのみで、具体的に何があったのかは不明です。

★

大和の筒井家は、興福寺の衆徒から身を起こし、筒井順慶の代でついに国を治めるまでになった一族でした。

興福寺五重塔

興福寺五重塔

それを継いだ男は、本命が断ったから跡を継ぎ、秀吉に国を替えられ、実質的に削られ、東軍についてなお家康に潰された。

順慶の棺のすぐ後ろを歩いていたあの日から、三十年あまりの出来事です。

ただし、順慶の養子で甥とされる筒井順斎の系統は旗本として江戸時代を生き延びています。

幕末には筒井政憲がロシア使節プチャーチンとの交渉にあたり、日露和親条約の締結に尽力。

主家は消えても、筒井の名は残ったのでした。

なお、定次を伊賀へ追いやった羽柴秀長の大和入りについては、以下の関連記事がございますのでよろしければ併せてご覧ください。

磐覚イメージイラスト
秀長を脅す興福寺の僧侶・磐覚は実在したのか?豊臣兄弟第37回史実解説

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◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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