大河ドラマ『豊臣兄弟』では佳久創さんが演じ、秀長の右腕として存在感を放っている藤堂高虎。
戦国ファンの間では“転職王”として知られています。
主君を七度も変えたからであり、これだけ奉公先が変わると、よほど性格に難アリだったのでは?とも思ってしまいますよね。
しかし、実際はまるで違います。
高虎は豊臣秀長に長く仕え、その死後も菩提を弔い続けました。
七度の中には、主君の死や跡継ぎへの代替わりで奉公先が変わった例も含まれており、必ずしも不満爆発で飛び出した!とかそういうわけではないのです。
では一体、誰にどう仕え、なぜ次へ移ったのか?

藤堂高虎イメージイラスト
藤堂高虎、主君替えの事情を振り返ってみましょう。
8人の主君を並べると?
藤堂高虎が最初に仕えていたのは浅井長政でした。
それから徳川家康の傘下となるまで計8人。
最初にその主君たちと転職理由を確認しておきましょう。

浅井長政/wikimedia commons
①浅井長政……家中の争い
②阿閉貞征……家中の争い
③磯野員昌……養嗣子の信澄に仕える
④津田信澄……処遇への不満
⑤羽柴秀長……主君の死
⑥豊臣秀保……主君の死と家の断絶
⑦豊臣秀吉……主君の死
⑧徳川家康……家康の死後も徳川家に奉公
最初の2名が浅井家で次が織田家、以降、豊臣家、徳川家と続きます。
右側の理由をご覧の通り、奉公先を変えたのは家中の代替わりや主君の死によるものが半数以上。
若い頃は同時代の記録に乏しく、多くは江戸時代に藤堂藩でまとめられた伝記が伝える話ですが、ともかく一人ずつ見て参りましょう。
浅井長政から始まった
近江の浅井長政のもとで、高虎は武将として歩み始めました。
しかし元亀三年(1572年)、高虎は家中で争いを起こして刃傷沙汰となり、小谷城を飛び出したと伝わります。
移った先の山本山城主・阿閉貞征(あつじ さだゆき)も浅井氏に仕える武将ですから、浅井家が滅びて行き場を失ったわけではありません。
同じ陣営の中で奉公先を変えたことになりますね。
ただし、ここでも長続きせず。
自分に礼を欠いた阿閉家の家臣を殺害し、再び出奔したというのです。
次に身を寄せた近江高島郡の磯野員昌(いその かずまさ)からは所領80石を与えられ、後の大大名・藤堂家はここから始まったとも言えます。

磯野員昌(落合芳幾画)/wikipediaより引用
やがて織田信長の甥である津田信澄が員昌の養嗣子になると高虎も信澄に仕えますが、これは不満による転職ではなく家中の事情による移動でしょう。
信澄のもとで丹波攻めに加わり戦功も挙げたものの、処遇に納得できず去ったと伝わります。
そんな藤堂高虎が次に向かったのが、『豊臣兄弟』の主人公である豊臣秀長でした。
秀長のもとでは腰を落ち着けたのでしょうか?
秀長のもとではどう働いた?
藤堂高虎が羽柴秀長に仕えたのは、天正四年(1576年)頃とされます。
秀長に求められて家臣となり、当初の所領は300石。
ここから天正十九年(1591年)に秀長が亡くなるまで15年あまり仕え続けました。
あれほど落ち着かなかった男が、一人の主君のもとに留まったのは、なぜか?

豊臣秀長/wikimedia commons
大河ドラマ『豊臣兄弟』で時代考証を務める黒田基樹氏は著書『羽柴秀長とその家臣たち』の中で、高虎が秀長軍の先鋒を務め、敵の城を攻めるときにはしばしば先頭を駆けていたと述べています。
要は、その能力を高く買われていたんですね。
なんせ高虎は外交の担い手としても働いており、天正十三年(1585年)に降伏した長宗我部元親が上洛するときには、山城の山崎まで出迎えました。
天正十六年(1588年)には、上洛してきた毛利輝元を摂津の兵庫と山城の淀で迎えるほどです。
もちろん秀長の家臣団には桑山重晴ら他の重臣もいましたが、高虎がこの主君のもとを自分から離れることはなく、最終的に二人の別れは秀長の死によるものでした。
主君を失った藤堂高虎は、そのまま秀吉のもとへ移ったのでしょうか?
なぜ再び主君が変わった?
藤堂高虎が次に仕えたのは、秀長の跡を継いだ養子の豊臣秀保です。
高虎は桑山重晴とともに、この若い当主を補佐する立場になりました。
主君の名前が変われども仕える家は同じ。
朝鮮への出兵では、まだ若い秀保の名代として海を渡り、船奉行を務めています。
しかし文禄四年(1595年)4月、秀保は数え17歳の若さで十津川にて病死し、大和羽柴家は断絶してしまいました。
結果、高虎も奉公先を失ってしまいます。
高虎はその後、高野山に登って出家しようとしたと伝わるのですが、ここで引き留めに動いたのが秀吉です。

豊臣秀吉/wikimedia commons
朝鮮での戦いが続くなか、高虎ほどの人材を手放すわけにはいかなかったのでしょう。
高虎は求めに応じて出家を取りやめ、その後、伊予で7万石を得て大名になりました。
秀長の家臣から、秀吉に直接仕える大名への転身です。
もっとも秀吉との関係がここで突然始まったわけでもありません。
天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの功で、高虎は秀長だけでなく秀吉からも1000石を与えられたとされます。
黒田氏は、秀長の家臣でありながら秀吉の直臣の立場を併せもっていた、と見ています。
主従関係は、一対一で割り切れるものではなかったのですね。
では徳川家康との結びつきは、いつから始まっていたのでしょうか?
家康のもとで過去は捨てた?
藤堂高虎と徳川家康のつながりは、秀長の家臣時代にさかのぼります。
天正十五年(1587年)には家康との連絡役を務めており、同年10月には聚楽第にある家康の屋敷を普請して、礼を述べられました。
秀吉の没後はさらに家康へ近づき、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍として参戦。
つまり、ある日突然、豊臣から徳川へ転職したという話ではないのですね。
実際、その能力は家康からも認められていました。

徳川家康/wikimedia commons
徳川の世になってからも軍事や築城、交渉で働き、元和九年(1623年)に徳川家光が将軍となると、計三代の将軍に仕えることになりました。
家康が最後の主君だったわけでもないのです。
しかも、秀長のことを決して忘れていません。
家康へ一層近づいた慶長四年(1599年)、高虎は秀長の菩提寺・大光院を、大和郡山から京都の大徳寺内へ移築しました。
その後も慶長十二年(1607年)の十七回忌、元和九年(1623年)の三十三回忌を盛大に営み、寛永二年(1625年)には同寺に書院まで建てています。
研究者の藤田達生氏は著書『江戸時代の設計者』の中で、高虎は秀長の遺志を継ぎ、家康の参謀となることで安定した武家政権を実現しようとした、と考えています。
高虎の本心までは分かりませんが、弔いを続けた事実は残っているのです。

藤堂高虎/wikipediaより引用
家中の争いで飛び出したことがあれば、処遇に納得できず去ったこともあった。
しかし、主君の死や家の断絶で奉公先が変わり、その能力を求める主人に迎えられたことも。
主君の名前がいくら変わっても、秀長とのつながりだけは手放さなかった高虎。
果たして転職王と呼ぶのは相応しいのかどうか、と思ってしまいますね。
なお、藤堂高虎が長く仕えた秀長家臣団については、以下の詳細記事をご覧ください。
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羽柴秀長の家臣団|大和入り後の筆頭家老は藤堂高虎ではなかった
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参考文献
- 諏訪勝則『図説 藤堂高虎 乱世を駆け抜けた稀代の名将』(2025年10月 戎光祥出版)
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』(2025年10月 KADOKAWA)
- 藤田達生『江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎』(2006年3月 講談社)

