豊臣秀吉の勧誘を断ったとされる武将たち

豊臣家

秀吉の誘いを断った武将は誰だ?本多忠勝や直江兼続の忠義話はどこまで本当か

徳川家から石川数正を迎え入れ、大友家の立花宗茂を独立大名に取り立てた豊臣秀吉。

他家の有能な武将に領地や官位をちらつかせて、自分の配下へ取り込む天下人の手口は、正直「ヤメロー!」と言いたくなってしまいますが。

そんな誘いをキッパリ断った武将はいなかったのか?

いやいや、いますよね!

真っ先に名前が挙がるのは片倉景綱や直江兼続、本多忠勝あたりでしょうか。

ただ同時に、大きな問題がございまして。

こうした話は後世に盛られたものも多く、確実な史料的裏付けがある話と、そうでない場合が混在しているのです。

いったい何が本当で何がウソなのか。

秀吉の勧誘を断ったとされる武将たちを、一人ずつ振り返ってみましょう。

 


片倉景綱:田村領を辞退

まずは伊達政宗の右腕・片倉景綱です。

天正十八年(1590年)、奥羽仕置で田村宗顕が改易されると、秀吉はその旧領(福島県三春町など)を片倉景綱に与えようとしました。

いきなり太っ腹な話ですね。

むろん伊達政宗としては腹立たしい話でしょうが、研究者の小林清治氏は著書『伊達政宗 人物叢書』の中で、景綱は政宗との主従関係を理由にこれを辞退した、と述べています。

伊達政宗(左)と片倉景綱の肖像画

伊達政宗(左)と片倉景綱/wikipediaより引用

片倉家の記録『片倉代々記』には、景綱が「主君への忠義が薄くなってしまう」として辞退した経緯が記され、同年9月付で田村領千五百貫文を与える秀吉朱印状の内容も収められています。

小林氏はさらに著書『伊達政宗の研究 新装版』の中で、『片倉代々記』に秀吉の禁制と田村領の朱印状がともに収められていることから、この辞退の経緯は認めてよいとしています。

いいぞ、景綱!

結局、田村領は政宗に与えられました。

【史実判定】○ 研究上も経緯を認めてよい

では景綱と並んでよく名前が挙がる、あの名参謀はどうだったのか?

 

直江兼続:直臣を断った話は典拠なし

上杉景勝の家臣・直江兼続です。

秀吉は兼続の才覚にほれ込み、直臣になるよう誘ったが、兼続は断った――。

上杉景勝と直江兼続の肖像画

上杉景勝と直江兼続/wikipediaより引用

一般書籍や雑誌などでよく見かける話ですがその中で典拠が示されておらず、今回、各研究者の出版物を確認した限り、秀吉が誘ったり兼続が断ったりする史実の記録は確認できませんでした。

ただし、兼続が豊臣政権から厚く遇された事実はあります。

池享・矢田俊文編『増補改訂版 上杉氏年表 為景・謙信・景勝』によれば天正十六年(1588年)、兼続は須田満親・色部長真と共に豊臣姓を授けられ、「豊臣兼続」として従五位下・山城守に任じられました。

豊臣姓まで与えられているんですね!

上杉家を代表する重臣まで豊臣政権に組み込む動きと言えますが、兼続だけが直臣に誘われ、断ったという記録までは確認できません。

そもそも「豊臣姓」は、他にも多くの武将が与えられています。

兼続だけを特別視はできなさそうです。

なお、慶長三年(1598年)に景勝が会津へ移った際、兼続自身が与えられたのは米沢6万石でした。

よく言われる米沢30万石は、関ヶ原後の慶長六年(1601年)に上杉家全体が与えられた所領で、兼続個人が与えられたわけではありません。

【判定】× よく見かけるが典拠を確認できない

次は徳川四天王へ目を向けましょう。

 


本多忠勝:10万石を断った話も裏付けなし

徳川だけでなく、東の最強武将とも称される本多忠勝。

徳川家康と本多忠勝の肖像画

徳川家康と本多忠勝/wikimedia commons

小牧・長久手の戦いでの働きに感心した秀吉が、若狭小浜10万3千石で誘うも忠勝は丁重に断ったという話があります。

こちらも一般書籍や雑誌などでよく見かける話です。

ただ、兼続同様に肝心の典拠が示されておらず、今回確認した研究書では、史実と判断できる裏付けが見つかりませんでした。

秀吉なら、いかにも誘っていそうな猛将ですよね。

【判定】× 兼続同様によく見かけるが典拠が示されていない

というのも秀吉は、とにかく徳川四天王が好きだったようで……。

 

井伊直政:誘われたはずだが記録なし

井伊直政も誘われていたという話があります。

秀吉は井伊直政に官位と豊臣姓を与え、大名家の家臣としては異例の扱いをしました。

井伊直政(左)と徳川家康の肖像画

井伊直政(左)と徳川家康/wikipediaより引用

研究者の野田浩子氏は著書『井伊直政』の中で、秀吉はおそらく直政を直臣にしようと誘い、直政はそれになびかなかったのだろう、と見ています。

実際にあったっぽいんですね!

ただ、残念ながら史実と断定できる証拠が残っているわけではなく、あくまで研究者の見解となります。

まぁ現実問題、そんな記録はなかなか残しにくいですよね。

「本日、太閤殿下より家臣にならないか?と言われたが、忠義者の私はこれを断った」とか書き残して、家康に謀反と勘違いされたら最悪じゃないですか。

もしかしたら秘密裏に斬られてしまうかもしれない。

それに、仮に誘われていても、井伊直政であれば断っていたのでは?

徳川家を出奔した石川数正と茶席で同席した直政が、「主君を裏切るような者とは付き合えない」と言い放ったという逸話もあります。

同書は、直政の性格を表すために創作された話ではないかと見ています。

【判定】△ 研究者の推測にとどまる

さらに徳川家には、他にも「断った」と記録に残る人物がいます。

出典が『名将言行録』なため史実とは言えませんが、興味深い話ですので、念のため紹介しておきましょう。

その武将とは?

鳥居元忠:秀吉の官位を固辞

伏見城で壮絶な最期を遂げる鳥居元忠です。

天正十四年(1586年)、家康が上洛したとき、秀吉のはからいで徳川家の功臣数人に官位が与えられることになりました。

鳥居元忠と徳川家康の肖像画

鳥居元忠と徳川家康/wikimedia commons

鳥居元忠にも声がかかりましたが、次のように言って断ったとされます。

【意訳】

私は才のない者で、二人の主君の恩を受けて両方に忠義を尽くす道をわきまえません。

そのうえ三河以来の譜代で、何事にも粗忽ですから、官位を進めて殿下(秀吉)の御前に出られる器ではありません

出典:『名将言行録』

さらに秀吉は元忠の息子・鳥居忠政を家臣・滝川雄利(たきがわかつとし)の養子にして、自分に仕えさせようとしました。

元忠は雄利の娘との縁組みは受けたものの、養子となって豊臣家に仕えることは断ったとされます。

ただ、どちらも幕末から明治初めにまとめられた逸話集『名将言行録』に基づく話です。

しかも元忠本人が断ったのは官位であり、秀吉への仕官を断った話は息子・忠政のものでした。

【判定】× 逸話集『名将言行録』の話で元忠本人が断ったのは官位

次は再び伊達家に注目です!

秀吉の誘いを断ったところ「女性」が届くという驚きの展開となりました。

いったい誰なのか?

 

茂庭綱元:屋敷を断って女性「種」を賜った?

伊達家の重臣・茂庭綱元(もにわつなもと)です。

伊達政宗と鬼庭綱元

伊達政宗と鬼庭綱元/wikimedia commons

朝鮮出兵のとき、茂庭綱元は海を渡らず、肥前名護屋で留守を預かっていました。

『茂庭家記録』によると文禄三年(1594年)、その器量を見込んだ秀吉は綱元を召し抱えようと、伏見に五町四方の屋敷を与えようとします。

しかし綱元がこの屋敷を辞退したところ、代わりに女性の「種」が与えられたとか。

女性は後世に「香の前(こうのまえ)」と呼ばれ、秀吉の愛妾だったともいわれますが、同時代史料では確認できません。

一説には、秀吉との碁の賭けに勝った褒美だったともいわれます。

なんとも豪快な話ですが、翌年、綱元は政宗から隠居を命じられてしまいます。

理由は、秀吉からの厚遇があまりに目立ったためとも(『治家記録』)、秀吉の家臣に召し出されるとの噂が政宗に伝わったためともいわれます。

断っても、結局、主君に疑われたんですなぁ……。

『茂庭家記録』では、その後、綱元が伊達家を離れた際、徳川家康からも召し抱えの誘いを受け、それも断ったとしています。

【判定】△ 『茂庭家記録』に伝わるが同時代史料では確認できない

ラストは、かなり渋いチョイスです。

細川家の家老でして、すぐには頭に浮かんできませんよね。

いったい誰のことか?

 

松井康之:辞退説は同時代史料と合わない

松井康之です。

細川藤孝と松井康之の肖像画

細川藤孝と松井康之/wikimedia commons

江戸幕府がまとめた『寛政重修諸家譜』(江戸時代後期)では、朝鮮から帰ったあと、秀吉から直属の家臣になるよう命じられたが固辞した、と書かれています。

一方、研究者の谷口克広氏は著書『織田信長家臣人名辞典』の中で、松井康之は天正の末ごろから、すでに秀吉の直臣の立場だったらしいとしています。

実際、秀吉から山城で173石の領地を与えられた文書(『松井文書』)も残っています。

いったいどちらが正しい?

一度は断るも結局仕えたということなのか。

康之は秀吉の死後、細川家の家臣へ戻ったと見られますので、後世で記録された「辞退した」という話は当時の動向と合いませんね。

【判定】× 後世の辞退説は秀吉に仕えた当時の動向と合わない

 

秀吉の引き抜きを断った忠義話の実像

秀吉の勧誘を断った武将は誰なのか?

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

きちんと史実と言えるかどうか、その判定結果マトメは以下の通りです。

○ 研究上も経緯を認めてよい:片倉景綱

△ 後世の記録に残る:茂庭綱元

△ 研究者の推測にとどまる:井伊直政

× 後世の記録に残るが本人の仕官辞退ではない:鳥居元忠

× 典拠を確認できない:直江兼続、本多忠勝

× 当時の動向と後世記述の辻褄が合わない:松井康之

秀吉の誘いを断った忠臣の話は確かに数多くあります。

江戸時代は戦国期とは異なり“忠義”が重んじられましたので、そうした話が好まれたのでしょう。

その中で実際に史実だと確認できるものは少なく、今回取り上げた中で研究上も経緯を認めてよいとされているのは片倉景綱の田村領辞退だけでした。

しかし、秀吉が実際に何人かの重要武将を引き抜いている実績もあり、表に出ないだけで断っていた話も数多くあるのではないでしょうか。

例えば井伊直政などは研究者もそのような見解を示しています。

なお、秀吉が実際に引き抜いた武将は誰なんだ?という点については、以下の関連記事をご覧ください。

豊臣秀吉に引き抜きされた武将たちイメージ
秀吉に引き抜かれた武将は誰だ?石川数正以外にもいた他家の有力武将

続きを見る

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

TOPページへ


 

    • この記事を書いた人
    • 最新記事

    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連からエンタメ書籍まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

    -豊臣家

    右クリックのご使用はできません