徳川家の重臣が、ある日突然、秀吉のもとへ走る――。
大河ドラマ『豊臣兄弟』第39-40回で描かれた石川数正の出奔に、驚いた方も多いかもしれません。
家康を長く支えてきた腹心中の腹心が、よりによって敵方の秀吉へ主君替えをしてしまう。
そんなことが史実で許されたんかよ!
というと、何も石川数正だけではありません。
天下統一を進めるなかで秀吉は、他家の重臣に新たな領地や役目を与えたり、主君を介さず自分と結びつけていくなど、エゲツない調略のような手法を使っていました。
では誰が実際に引き抜かれ、誰が主家に残ったまま取り込まれたのか?

豊臣秀吉/wikimedia commons
秀吉による人材の一本釣りを振り返ってみましょう。
石川数正:和泉に領地
まずはドラマで描かれた石川数正に注目です。
天正十三年(1585年)11月13日、数正は家族を連れて岡崎城を去り、秀吉のもとへ走りました。
秀吉にとっては、家康の手の内を知り尽くした重臣が転がり込んできたわけで、さっそく数正に新たな領地を与えます。

石川数正/wikipediaより引用
場所は和泉(大阪府南部)。
奈良興福寺の僧侶・英俊が書いた『多聞院日記』では、羽柴秀長の治める和泉の地が「家康ノ内石川伯耆(数正)」に与えられた、と書き留めています。
数正はこのころ名を「吉輝(よしてる)」と改め、名実ともに秀吉の家臣となるのです。
さらに小田原攻め後の天正十八年(1590年)には、信濃の松本へ。
今も残る国宝・松本城の天守は、数正と、跡を継いだ息子の康長の二代で整えられたとされています。

松本城
数正がなぜ出奔したのかについては、以下の記事で詳しく扱っています。
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石川数正はなぜ秀吉のもとへ走ったのか?豊臣兄弟第39回史実解説
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では、徳川家のほかには、どの家から重臣が引き抜かれたのか?
立花宗茂:九州の一物と激賞
次は、九州の大友家です。
天正十四年(1586年)、島津の大軍が筑前に押し寄せると、大友家の重臣・立花宗茂は立花城に籠もって守り抜きました。

立花宗茂/wikimedia commons
実の父・高橋紹運が岩屋城で討死した直後のことです。
島津勢が兵を引くと、宗茂はすぐさま反撃に出て高鳥居城を攻め落とし、秀吉は「九州の一物」と激賞。
研究者の中野等氏は著書『立花宗茂 人物叢書』の中で、このとき秀吉が褒美に新しい領地を与える約束をし、天正十四年9月頃には宗茂を直臣にすると決めたと考えています。
10月には宗茂のほうからも、家臣を大坂へ送って御礼を述べるなど、主君の大友家を通さない関係が始まっていました。
実際その翌年、九州を平定した秀吉は、宗茂に筑後の柳川を与えて大名に取り立てます。
大友家の一家臣が、秀吉直属の大名に変わった瞬間です。
実は立花宗茂に限らず大友家には他にもキャラの濃い面子が揃っており、以下に詳細がございますのでよろしければ併せてご覧ください。
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大友宗麟の家臣団には立花宗茂以外にどんな武将がいた?実は大河の主役級
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なお、九州では、すでに秀吉が絶大な権力を有していたせいか、有力どころの引き抜きが続きます。
豊臣の大軍に屈服させられた島津家も例外ではありません。
では実際に誰が狙われたのか?
伊集院忠棟:島津家の中に領地を得る
島津家の筆頭家老・伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)です。
天正十五年(1587年)、秀吉の大軍が九州に乗り込むと、忠棟は主君の島津義久より先に豊臣秀長の陣へ降伏しました。
秀吉は、義久を助けるための降伏とみて「敵ながら義理がたく頼もしい者」と評価。
そして5月25日、大隅の肝付一郡を忠棟の領地とする朱印状を出します。
研究者の新名一仁氏は著書『「不屈の両殿」島津義久・義弘』の中で、帰順した大名家重臣を一本釣りして直接領地を与えるのは、秀吉によくあるやり方だったと指摘。
つまり島津家の中にいながら、領地は秀吉から直接与えられる――主君にとっては、秀吉の息がかかった存在に見えてしまってもおかしくありません。
結果、秀吉死後の慶長四年(1599年)、忠棟は島津家の跡継ぎ・島津忠恒に討たれてしまいました。

島津忠恒/wikipediaより引用
そこで忠棟の子・伊集院忠真は庄内(宮崎県都城市一帯)に立て籠もって反旗を翻し、「庄内の乱」と呼ばれる内乱にまで発展します。
詳細は以下の記事に譲りますが、
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戦国島津家ドロドロの内紛「庄内の乱」とは? 関ヶ原直前に起きた薩摩の大乱
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この内乱は関ヶ原における島津家の立場にまで影響したので、被害甚大だったとも言えるでしょう。
しかも秀吉が島津家で直接取り込もうとしたのは、忠棟だけではありません。
島津義弘です。

島津義弘/wikipediaより引用
武名も高かった島津四兄弟の次男を豊臣大名として扱い、義弘の子・島津久保を後継者に据えようとまでしました。
しかし義久の影響力を排除するまでには至らず。
久保も文禄二年(1593年)に亡くなったため、権力を義弘父子へ一本化する秀吉の構想は成就しませんでした。
いずれにせよ島津家を屈服させ、九州平定という大事業を完結させた秀吉。
これにより龍造寺家からも、引き抜かれていく者がいました。
鍋島直茂:重要拠点の長崎を任される
鍋島直茂です。
直茂と秀吉のつながりは早く、本能寺の変後の天正十年(1582年)、山崎の戦いに勝った秀吉へ祝いの品を届けています。
贈ったのは主君の龍造寺隆信ではなく、同家の重臣だった直茂自身。
秀吉との直接のつながりは、この時点ですでに始まっていたと言えるでしょう。

鍋島直茂/wikipediaより引用
九州平定のあと、秀吉は直茂を重く用いました。
天正十六年(1588年)には、秀吉の朱印状によって、直茂が毛利吉成とともに長崎代官に任じられています。
龍造寺家の家臣でありながら、秀吉から直接、重要な貿易都市・長崎の統治を任されたわけです。
さらに天正十八年(1590年)、秀吉は当主の龍造寺政家に隠居を命じ、幼い嫡男・藤八郎(のちの高房)へ家督と肥前の所領を与えました。
そのうえで藤八郎が成長するまで直茂に国政を任せたのです。
こうして龍造寺家の実権は直茂の手に移り、やがて佐賀藩を治める鍋島家へとつながっていきますので、幕末までキッチリ影響していると言えますね。
最後に、中国地方にも注目しておきましょう。
小早川隆景:毛利家から切り離され
毛利家の小早川隆景です。
元就の三男・小早川隆景は、吉川元春と並ぶ「毛利両川」の一人として、当主の毛利輝元を支えていました。
それが秀吉が四国と九州を平定すると、隆景には伊予、さらに筑前一国と筑後・肥前の一部が与えられます。

小早川隆景/wikipediaより引用
研究者の光成準治氏は著書『小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す』の中で、隆景は毛利領国から切り離され、独立した豊臣大名にされたと指摘。
隆景は毛利家への奉公が果たせなくなるとして独立大名化を固辞しましたが、秀吉は認めませんでした。
秀吉に取り込まれたあとも、隆景は毛利輝元を支え続け、しかも寧々の甥である小早川秀秋が送り込まれるなど、なかなか辛い立場に追い込まれています。
大名から文句は言えない
石川数正は徳川家を去り、小早川隆景と立花宗茂はそれぞれ毛利・大友の枠から切り離されて独立大名となりました。
伊集院忠棟と鍋島直茂は旧主家に居ながらにして、秀吉に直接領地や役目を与えられています。
島津義弘も秀吉から直接所領を与えられ、実質的には独立した豊臣大名となっています。
秀吉の怖いところは、単なる家臣の引き抜きを狙っただけでなく、大名家の中核人物を自分と直接結びつけたことでしょう。
内部からジワジワと侵食されても表立っては文句の言えない立場。
むろん能力主義が通用する戦国時代ですから、自分をより高く評価してくれる主君に鞍替えすることは、必ずしも“悪”とは言い切れません。
しかし、その一方で秀吉から誘いを受けながら、最後まで主家を離れなかった重臣もいます。
明日、別記事にてお送りさせていただきますので、あらためてのご来訪お待ちしております。
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参考文献
- 光成準治『小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す』(2019年3月 ミネルヴァ書房)
- 中野等『立花宗茂 人物叢書』(2001年1月 吉川弘文館)
- 新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇 角川新書』(2021年8月 KADOKAWA)
- 市丸昭太郎『龍造寺家と鍋嶋直茂』(2016年12月 佐賀新聞社)
- 黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(2025年9月 平凡社)




