大河ドラマ『豊臣兄弟』に登場するか?
と期待していたけれど、まったく気配がない秀吉の甥――それが小早川秀秋です。
正確には寧々の実の甥であり、秀吉との血縁関係はありません。
しかし身内が少ない秀吉だけに、毛利との姻戚で利用されたこの秀秋、関ヶ原からわずか2年後の慶長七年(1602年)10月18日、数え21歳の若さで亡くなってしまいます。
いったい何があったのか?
あまりに早い死だったため、後世では「裏切りの罰が当たった」という話が拡散。
特に、大谷吉継の亡霊に悩まされ、狂ったまま死んだ、というのは興味を引かれるものです。

小早川秀秋/wikipediaより引用
果たして秀秋は、どんな最期を迎えていたのか。
振り返ってみましょう。
秀吉の養子から小早川家へ
寧々の兄・木下家定の五男に生まれた小早川秀秋。

木下家定/wikimedia commons
幼いころから秀吉の養子となり、豊臣一門の一人として育てられました。
文禄二年(1593年)、その運命は激変します。
秀吉と茶々の間に豊臣秀頼が生まれ、翌年3月、秀秋は秀長の三女・おきくと結婚することになったのです。
ところが、同じ年のうちに、毛利勢・小早川隆景の養嗣子となって毛利輝元の養女を妻に迎えることが決まり、11月にはその通りになりました。
秀吉が、毛利家との縁組を結び直す一環として二転三転したんですね。
翌文禄四年(1595年)には、隆景の領地を継いで筑前の名島城主となり、慶長の役では朝鮮へ渡る軍勢の総大将まで任されました。
秀吉としても、正妻・寧々の甥だけに無碍には扱えなかったのかもしれません。

豊臣秀吉/wikimedia commons
それだけに不思議だったのが帰国後のことです。
慶長三年(1598年)、秀秋は筑前から越前・加賀へ移されます。
朝鮮の前線で無益な戦いをして、秀吉に叱られ領地を減らされた――なんて話もよく語られますが、同時代の史料で確かめられた話ではありません。
秀秋の移封は罰ではなく、朝鮮出兵の拠点である筑前・博多を、豊臣政権が直接押さえるためだったと考えられています。
結局、同年8月に秀吉が亡くなると、秀秋は遺言を受けて、慶長四年(1599年)正月に筑前へ戻りました。
そんな小早川秀秋の名を決定づけたのが翌年の関ヶ原……ですが、その前に確認しておきたいことがあります。
そもそも秀秋は、なぜ東軍側についたのか?
たとえ血が繋がっていなくても秀吉の親戚であり、待遇は悪くなかった。
何か特別に酷い扱いでもされてきたのでしょうか?
秀秋と秀吉、あるいは秀秋と寧々の関係について、史実と後世の記述(創作)から見て参りましょう。
まずは史実から。
一門衆トップの座は変わらなかった
幼い頃の小早川秀秋は、もともと秀吉の後継ぎとして扱われていました。
天正十六年(1588年)、後陽成天皇が聚楽第へ行幸したとき、わずか7歳で元服して侍従となり、諸大名が秀吉への忠誠を誓った起請文の宛先も秀秋です。
ところが翌天正十七年(1589年)、秀吉に鶴松が生まれてからは立場が一変。
後継ぎの座を外され、一門衆の一人という立場に置き直され、さらに秀頼の生誕後は秀吉の隠居領を継ぐ話すら消えてしまいました。
後継ぎの順位は、2度にわたって下げられたことになります。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
ただし、冷遇されたわけではありません。
研究者の黒田基樹氏は著書『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、秀秋はその後も参議、近衛中将、権中納言へと昇り、一門衆ではトップの位置に置かれていたとしています。
豊臣秀次と豊臣秀保亡き後の羽柴家では、一門衆が秀秋ただ一人になったのです。
秀吉から「小言を言われた」記録はあります。覚書によると「鷹狩りは無用」と戒められ、家臣との対立では我慢を強いられてもいます。
ただ、これは養父としての訓戒の範囲でしょう。
では、寧々と秀秋の関係はどうだったのか?

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用
秀秋の死後に書かれた追悼文によれば、秀秋は天正十七年の春ごろまでは学問に熱心でしたが、その後は若い仲間と遊び、酒を飲む日が増えていったといいます。
ちょうど鶴松が生まれ、後継ぎを外された時期ですね。
ここから先は創作の色が濃くなります。
江戸時代の『武家事紀』には、肥前名護屋へ出陣するとき、寧々が秀秋の素行に不満を持って武具を用意せず、仕方なく自前でそろえた、という話が載っています。
跡継ぎの座を外され、酒に走り、養母にもあきれられる――。
それが東軍につく動機になったかどうか、史料からは分かりません。
ただ、秀吉から家中で格下げされていたわけではないことは確か……ということで、いよいよ関ヶ原に注目してみましょう。
関ヶ原の「問鉄砲」はなかった
慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦い――。
通説では、松尾山に陣取った秀秋は、西軍につくか東軍につくか、昼まで迷い続けていた。
業を煮やした家康が松尾山へ鉄砲を撃ちかけると(問鉄砲)、慌てた秀秋はようやく東軍として山を下りた。
ところがこの場面は大きく見直されています。
研究者の柴裕之氏は著書『徳川家康 境界の領主から天下人へ』の中で、秀秋らの寝返りは開戦と同時の出来事だったことが、東軍武将の書状から明らかになったとしています。

徳川家康/wikimedia commons
しかも戦後は、家康から秀秋へ「最前よりの筋目が違わなかったこと」を喜ぶ書状が送られています。
やはり秀秋は、戦闘が始まった時点で東軍につくことを決めていたんですね。
昼まで迷い続け、問鉄砲に驚いて初めて決断したわけではありません。
岡山で「名君」になろうとした
実際、関ヶ原の功として、小早川秀秋は宇喜多秀家の旧領を与えられ、岡山城主となりました。
岡山城主時代はわずか2年ながら、秀秋は外堀を掘って城を大きく広げるなど、積極的に城の改修を進めています。
一方で、家中では重臣たちが次々に去っていきました。
江戸時代の『備前軍記』によると、秀秋が鷹狩りや殺生にふけり、諫めた家老の杉原紀伊守を討たせたと書いています。
いかにも暗君らしい話です。
しかし実際のところ、杉原の誅伐は藩主として実権を握るための争いだったと考えられています。
研究者の光成準治氏は著書『小早川隆景・秀秋』の中で、秀秋は岡山で「名君」となることで関ヶ原での悪評を払拭しようと意気込んでいた、と説明。

岡山城
ただし、一つだけ否定しきれない悪癖がありました。
お酒です。
【意訳】昨日は大酒を飲んだせいで、さんざん酔って前後不覚だった
【原文】昨日は大酒ゆえ、さんざん酔い、正体なく候
出典:慶長五年4月9日付 小早川秀秋書状
この書状のとき、秀秋は19歳。
少年のころから深酒をすることがあり、叔母の寧々(北政所)から戒められていたというのは、先の『武家事紀』にもありましたね。
そして慶長七年(1602年)10月18日、秀秋は岡山城で亡くなりました。
21歳の最期は鷹狩りの帰りだった
なぜ小早川秀秋が亡くなったのか。
実は3日前の15日、兄の木下俊定も亡くなっています。
京都の神道家・梵舜(ぼんしゅん)の日記『舜旧記』では、この相次ぐ死をこう記しました。
【意訳】同じ月に兄弟三人が病死した。人々は不思議なことだと言っている
【原文】同月に兄弟三人病死也、諸人、不思儀と申す
出典:『舜旧記』慶長七年10月18日条
世間が首をかしげたのも無理はありません。
三人目の兄弟が誰なのか、詳細は不明ですが、確かに不気味ではありますよね。
秀秋の死について、よく囁かれるのが「大谷吉継の亡霊」です。

大谷吉継に恐れる小早川秀秋を描いた「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」月岡芳年/wikipediaより引用
関ヶ原で敗死した吉継の霊に苛まされ、秀秋の気がおかしくなった、という話があります。
出典は、江戸時代の軍記物『関原軍記大成』で、一言でいえば創作。
他に『備前軍記』では、斬ろうとした百姓に蹴られたとか、落馬したとか、何通りもの死に方まで並べられています。
光成氏は、こうした描き方について「裏切り者の末路は惨めであるべきだ」という因果応報の物語として作られたものとしています。
では実際はどんな最期だった?
確率高いと考えられるのが病死でしょう。
最期を伝える聖護院道澄(しょうごいん どうちょう)の追悼文によると、秀秋は10月15日、鷹狩りから城へ帰還後に気分が悪くなり、そのまま床に伏して18日朝に亡くなったといいます。
原因はやはり、酒、ですかね……。
前年から、深酒による体調不良に悩まされていましたので、直接の死因とする史料は残っていなくても、心身に悪影響を与えていた可能性は十分にありそうです。
秀秋には跡継ぎがなく、結局、小早川家はそのまま断絶しました。
なお、寧々の立場は我々が思うよりずっと強い、という関連記事が以下にございますのでよろしければ併せてご覧ください。
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参考文献
- 光成準治『小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す』(2019年3月 ミネルヴァ書房)
- 黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(2026年7月 戎光祥出版)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)


