戦国ゲームを武田家でプレイした場合、真っ先に揃えたいのがこの四武将。
・馬場信春
・内藤昌秀
・山県昌景
・春日虎綱
そう、「武田四天王」と呼ばれる信玄配下の名将たちです。
武田信玄の家臣団といえば「武田二十四将」も有名ですが、その中からなぜ彼ら四名だけが別格扱いされるのか。
一体いつから、その呼び名はあったのか。
信玄だけでなく武田勝頼も支えながら、その多くが長篠の戦いで散ってしまった。

武田四天王(左から山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・春日虎綱)/wikimedia commons
「武田四天王」のルーツや事績を振り返ってみましょう。
原点は『甲陽軍鑑末書』の「おとな四人」
「武田四天王」という呼び名はどこから来たのか?
元々は『甲陽軍鑑末書』に掲載されていた「武田のおとな四人」が原点ではなかろうか、と研究者の丸島和洋氏は著書『戦国大名武田氏の家臣団』の中で指摘。
以下の4名が挙げられています。
◆武田のおとな四人
・小山田虎満
・板垣信方
・甘利虎泰
・飯富虎昌
なんだか、元祖と呼ぶに相応しい、いぶし銀のメンバーですよね。
板垣信方と甘利虎泰は若き日の信玄を支え、上田原の戦いに散った宿老。
小山田虎満は、小山田信茂とは別系統の小山田氏で、こちらも古くから武田家の信濃侵攻で活躍していた武将です。
そして、信玄の嫡男・武田義信を補佐していた飯富虎昌は「元祖赤備え」として有名な猛将で、義信事件にからんで処刑されましたね。

歌川国芳の描いた飯富虎昌/wikipediaより引用
同書によると、彼らに代わる新たな「武田のおとな四人」とされていったのが、信玄の全盛期に活躍した馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、春日虎綱でした。
「武田四天王」という括りは戦国期にそう名乗ったものではなく、後世で変遷しながら出来上がったんですね。
なお「おとな」とは、重臣中の重臣である宿老を意味しており、『甲陽軍鑑』の教訓集では、若い家臣が教えを請う場面でたびたび出てきます。
そもそも「馬場」「内藤」「山県」は武田家の名門武家であり、信玄が才ある将たちに名跡を継がせました。
有能な武将たちに権威を持たせ、武田軍の統制強化に利用したんですね。
実際、武田四天王の各武将たちは、牧之島・箕輪・江尻・海津と、いずれも武田領国の最前線を任されるようになっていきます。
その一人、馬場信春から特徴を見て参りましょう。
馬場信春|地侍から家老の当主へ
馬場信春は、甲斐と信濃の国境の地侍・教来石(きょうらいし)氏の出身。
本来は、とても重臣と呼べる家柄ではありませんでした。

馬場信春(教来石景政)/wikipediaより引用
信玄はこれを引き立て、武田家の家老だった馬場氏の名跡を継承。
その期待に応えて馬場信春は、信濃の深志城、ついで牧之島城を預かり、越中や飛騨方面との交渉も任されました。
天正三年(1575年)「長篠の戦い」では、敗れた武田軍の殿(しんがり)を務めて討死しています。
このときの奮戦ぶりは、敵方の記録である『信長公記』でも称えられるほどでした。
内藤昌秀|「昌豊」は誤りだった
内藤昌秀は、もとは工藤氏でした。

内藤昌秀/wikipediaより引用
父または兄が信玄の父・武田信虎に手討ちにされ、一時は相模へ逃れたという話も伝わります。
兄の工藤長門守はその後も健在でしたので、話が事実なら討たれたのは父親だったのでしょう。
内藤昌秀は「内藤昌豊」の名でも広く知られていますが、丸島氏によると「昌豊」は誤伝であり、「昌秀」が正しい名だと指摘しています。
信玄は、昌秀にも途絶えていた家老・内藤氏の名跡を継がせました。
永禄十二年(1569年)からは上野の箕輪城を預かり、西上野の国衆を率いて、関東の国衆との外交も担当。
しかし昌秀もまた「長篠の戦い」で討死しました。
山県昌景|赤備えの兄を持つ信玄の右腕
「武田の赤備え」として著名な山県昌景は、もともと名字が飯富(おぶ)でした。
しかし、兄とされる元祖赤備えの飯富虎昌が永禄八年(1565年)に義信事件で処刑。
信玄がその状況を気遣い、飯富家を断絶とする一方、昌景には武田家の家老筆頭格である山県を継がせました。

山県昌景/wikipediaより引用
以後、昌景は信玄の右腕として、内政・外交・軍事にフル回転。
徳川家康との交渉窓口も務めるほどの立場まで重用されますが、長篠の戦いで馬場・内藤と共に討死しています。
春日虎綱|豪農の子から海津城代へ
「高坂昌信」の名でも知られる春日虎綱は、甲斐石和(いさわ)で豪農の子として生誕。
父の死後、財産争いに敗れて落ちぶれていたところを信玄に引き立てられました。

歌川国芳による春日虎綱(高坂昌信)/wikipediaより引用
信玄は虎綱を北信濃の国衆・香坂氏に養子に入れ、上杉謙信との最前線である海津城の城代に任命します。
豪農の子をここまで抜擢した例は、武田家では他に見当たらないとされます。
まぁ、海津城ほど重要な場所は他にないので、それも当たり前といえば当たり前ですね。
ともかく、なぜ春日虎綱は「高坂昌信」と呼ばれるのか?
『甲陽軍鑑』の原著者とされる「高坂弾正」はこの虎綱のことで、「高坂」は「香坂」の誤記、実名の「昌信」も誤りとされています。
虎綱は、長篠で3人が討死したあとも、北信濃の守りを担い続け、天正六年(1578年)6月14日に亡くなりました。
四天王が支えた武田家は、それからわずか4年後の天正十年(1582年)、織田家に攻められ滅亡します。
なお、各武将ごとの詳しい事績については、以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団 信玄・勝頼を支えた家臣たち』(2016年6月 教育評論社)
- 武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』(2010年2月 高志書院)




