なぜこの戦国武将が大河ドラマの主役にならないのか?
以前からそう不思議がられているのが立花宗茂です。
東の無双が本多忠勝ならば、西が宗茂――そんなキャッチフレーズでお馴染みであり、関ヶ原で敗軍の将となりながら、後に大名へと返り咲き、ついには旧領の柳川にまで戻った流れはとにかく劇的。
そこであらためて注目してみたいのが宗茂を輩出した大友家です。
実はこの家臣団が素晴らしい。
宗茂の義父として知られる「鬼道雪」こと立花道雪、岩屋城で玉砕した宗茂の実父・高橋紹運。
さらに主君の側に目を向ければ、秀吉に「豊後の臆病者」と罵られた二代目・大友義統までいます。
ぶっちゃけ、大友宗麟自体は、信長や秀吉のように魅力的な人物とは言えないかもしれません。
しかし、その家臣団は、とにかく特濃クラスが揃っている。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用
本記事では、そんな大友家臣団を振り返ってみましょう。
大友家臣団は「同紋衆」「国衆」「新参衆」の3つ
大友家の家臣は、出自によって大きく3つに分けられます。
◆同紋衆(どうもんしゅう)
大友家から分かれた一族で大友家と同じ家紋を使った
◆国衆(くにしゅう)
もとから豊後に根を張っていた領主たち
◆新参衆(しんざんしゅう)
豊後の外で大友家に従った者で待遇はあまり良くない
政権の中枢で文書に判をすえる「加判衆(かばんしゅう)」、つまり年寄(首脳陣)は同紋衆が多かった。
当然、国衆にとっては面白くない話で、宗麟の父・大友義鑑(よしあき)は、死の直前に「国衆と加判衆一意の事」という文書を残し、両者の和を説いたほどでした。

研究者の外山幹夫氏は著書『大友宗麟』の中で、宗麟の家臣には血と汗を流す忠臣型と、独立心を秘めた謀将型の2タイプがいたと記しています。
そこでまずは忠臣型の代表「豊後三老」から見ていきましょう。
立花道雪ら「豊後三老」
宗麟の全盛期を支えた3人の年寄は「豊後三老(豊州三老)」と呼ばれています。
◆戸次鑑連(べっき あきつら/後の立花道雪)
筑前の立花城を任された猛将
◆吉弘鑑理(よしひろ あきただ)
肥前・筑前・肥後の取次を担った重臣
◆臼杵鑑速(うすき あきはや)
大友一門の臼杵家から出た重臣
高橋家の記録『高橋記』では、3人を「才徳勇猛ノ良将」と評しています。
能力が高く、人徳者であり、勇猛な名将というわけですね。

立花道雪/wikipediaより引用
実際、この3人は永禄年間、毛利と結んで背いた筑前の国衆を討つため、そろって何度も出陣。
しかも吉弘鑑理の次男は高橋紹運であり、その長男が後に道雪の養子となる立花宗茂ですから、彼ら三名が大友宗麟を支えていたと言っても過言ではないでしょう。
【本人】立花宗茂
【祖父】吉弘鑑理
【実父】高橋紹運
【養父・義父】立花道雪
それだけに道雪は、臼杵鑑速の死をよほど惜しんだようです。
天正八年(1580年)に家中へ送った檄文で、鑑速が亡くなってから領国の衰えが始まった、とまで書いています。
大友政権最大の権力者・田原紹忍
三老時代の後、大友家で最も大きな権力を握ったのが、田原紹忍(たわら じょうにん・実名は親賢)でした。
田原紹忍の実姉妹は大友宗麟の2番目の正妻で、二人の間に生まれたのが大友義統です。
つまり紹忍は、義統の伯叔父として政権内で最大の権力を握ったわけです。
宣教師ルイス・フロイスは、紹忍を「富裕かつ貪欲な殿」とまで記しています。

ルイス・フロイスのイメージイラスト
ただし、キリスト教に反対していた紹忍は宣教師たちから敵視されており、こうした人物評を鵜呑みにはできません。
紹忍は元亀三年(1572年)ごろに年寄となり、最大で筑後・肥前・豊前の3か国を受け持ちました。
その6年後の天正六年(1578年)、大友家は耳川の戦いで島津軍に大敗します。
フロイスはこのときの紹忍を「40歳を過ぎた巨体で羽が生えたように逃げた」とまで書いています。
しかし、紹忍が総司令官だったことは一次史料から確認できません。
ともに出陣した年寄3人が戦死したため、生き残った紹忍に敗戦の責任が押しつけられた可能性も指摘されています。
大友家を揺らした豊後最大の国衆・田原本家
大友家の中で強い独立性を持っていたのが、同じ田原一族の本家です。
フロイスが「豊後きっての大物」と書いた田原本家は、大友家の初代から分かれた古い一族。
戦国期の当主・田原親宏(宗亀)は、耳川の大敗後に年寄へ任じられますが、間もなく臼杵から無断で領地へ帰り、かつての所領を返すよう求めました。
大友義統はこの要求を受け入れ、旧領を返還しています。

大友義統/wikimedia commons
謀反のようにも見えるこの無断帰宅ですが、研究者の八木直樹氏は著書『戦国武将列伝11 九州編』の中で、そこまでは断定できないだろうとしています。
親宏はその後も大友方として活動し、天正七年(1579年)9月に病死しました。
しかし、親宏の死後、家督を継いだ養子の田原親貫がやらかします。
大友家に反旗を翻したのです。
「親貫の乱」とも呼ばれるこの反乱は同年末に始まり、翌年10月まで続き、耳川で傷ついた大友家をさらに疲弊させました。
豊後三老の時代がウソのように、大友家の凋落は止まりません。
耳川の大敗で年寄3人が討死した
耳川の戦いの痛手は、家臣団にも深く刻まれました。
当時6人いた年寄のうち、佐伯宗天・田北鎮周・吉岡鑑興の3人が同合戦にて戦死。
田原紹忍も政権の中枢を離れ、残った年寄は志賀道輝と朽網宗歴の2人だけになってしまい、こうなるとお決まりの展開となります。
秋月や龍造寺が次々と背き、大友家は坂を転げ落ちていくのです。

龍造寺隆信/Wikipediaより引用
そして島津が豊後に攻め込んだ天正十四年(1586年)には、豊後南部の多くの国衆が島津方となりました。
年寄・志賀道輝の息子まで敵に内通する状況でしたが、孫の志賀親善は岡城(大分県竹田市)に籠もって島津勢に屈せず、豊臣秀吉から感状を受けています。
この島津との戦いに秀吉が絡んでくるのも、大河の見どころになる展開。
なぜならそこには高橋紹運と立花宗茂が絡んでくるのです。
岩屋城に散った高橋紹運と立花城を守った宗茂
傾いた大友家を筑前で支え続けたのが、立花道雪と高橋紹運、そして若き立花宗茂でした。
高橋紹運の長男として生まれた宗茂は男子のいなかった道雪の養子へ。

高橋紹運/wikimedia commons
道雪はすでに一人娘の誾千代(ぎんちよ)に家督を譲っており、宗茂はその婿に迎えられた形でした。つまり宗茂にとって道雪は、養父であり舅でもあるわけですね。
天正十三年(1585年)9月、道雪は筑後北野の陣中で逝去。
すると翌天正十四年(1586年)、九州北上を進める島津の大軍が筑前に押し寄せてきました。
高橋紹運は岩屋城に籠もって抗戦し、7月27日、城とともに討死。
続いて宝満城も落ち、紹運の妻、つまり宗茂の実母まで島津方に捕らえられてしまいます。
それでも宗茂は立花城を守り抜き、8月下旬、島津勢は兵を引きました。
すわ滅亡か!というところで、豊臣秀吉の九州攻めが始まることになったのです。
翌年、九州に乗り込んだ秀吉は宗茂を島津攻めの先鋒に起用し、戦後、筑後の柳川を与えて大名に取り立てています。
宗茂は、その後がさらに劇的でした。

立花宗茂/wikimedia commons
文禄・慶長の役では碧蹄館(へきていかん)の戦いなどで活躍し、関ヶ原の戦いでは西軍について改易。
30代の大半を牢人として過ごすのですが、慶長十一年(1606年)ごろ、将軍・徳川秀忠のもとで奥州の棚倉(福島県棚倉町)に領地を与えられ、大名に復帰するのです。
そして元和六年(1620年)、関ヶ原から20年を経て、再び筑後柳川の領主に返り咲きました。
家臣たちが命がけで戦う一方、主君の大友義統はどうだったのか?
「豊後の臆病者」と呼ばれた二代目・大友義統
大友義統は、宗麟が国外への出陣から戻った元亀元年(1570年)ごろ、まだ13〜14歳で家督を譲られています。
実権はしばらく宗麟が握り、父子の二頭政治が継続。
島津に押され続けた大友家は、天正十四年(1586年)、隠居の宗麟が自ら大坂へ出向き、秀吉に救いを求めます。

豊臣秀吉/wikimedia commons
同年12月、義統は豊臣軍の長宗我部元親・仙石秀久とともに戸次川(へつぎがわ)で島津勢と戦いますが、大敗して逃げ延びました。
結局、秀吉の本隊が九州に渡ったことで島津勢は退き、大友家は豊後一国を安堵されます。
しかし、です。
文禄二年(1593年)、朝鮮出兵の最中に持ち場の鳳山(ほうざん)を捨てて退いたことなどを理由に、義統は改易となりました。
秀吉は義統のことを「豊後の臆病者」とまで酷評しているほどです。
もっとも、義統が戦地から家臣に送った書状には戦況が冷静に分析されており、退いたのはむしろ状況を的確に判断した結果だった可能性も指摘されています。
★
大友家臣団は、道雪や紹運のような忠臣だけでなく、強い独立性を持つ国衆によっても成り立っていました。
耳川の敗戦で当主の求心力が落ちると、その構造が一気に弱点へ変化。
大友宗麟や大友義統では事態の収拾を図ることはできず、九州の名門も凋落していくしかありませんでした。
なお、大友宗麟や立花宗茂など個別の記事については、以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 外山幹夫『大友宗麟 人物叢書』(1988年12月 吉川弘文館)
- 新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』(2023年6月 戎光祥出版)
- 中野等『立花宗茂 人物叢書』(2001年1月 吉川弘文館)




