大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれたように、天正十三年(1585年)11月、豊臣秀吉は徳川家康と戦をするつもりでした。
前年の小牧・長久手では決着がつかず、両者の関係は悪化する一方。
家康は和睦の勧告を突っぱね、もはや戦は避けられない情勢であり、前線基地となる美濃の大垣城には、すでに兵糧や玉薬が運び込まれていたのです。
しかし、それらは一夜にして消え去りました。
天正十三年(1585年)11月29日の夜、巨大地震が日本の中央部を襲ったのです。
しかも被害の出方が、あまりにも豊臣方へ偏っており何か狙っていたのか?と思いたくなるほど。

天正地震イメージイラスト
秀吉の天下取り、ひいては後の豊臣政権の存続に強く影響を与えた天正地震を振り返ってみましょう。
家康との決戦は避けられない情勢だった
まずは地震の直前、秀吉と家康がどんな状況にあったのか。
前年の天正十二年(1584年)、秀吉は小牧・長久手で家康・織田信雄の連合軍と戦いましたが、両者の間での決着は完全についたとは言えませんでした。
最終的に織田信雄が単独で和睦に応じたため、家康は戦う理由を失って兵を引いたのです。秀吉に屈したわけではありません。

織田信雄/wikimedia commons
その約1年後、徳川にとって重大事件が起きます。
天正十三年(1585年)11月、家康の友とも言えるような腹心・石川数正が出奔して秀吉のもとへ走ったのです。
長く家康の近くに仕え、軍事も外交も知り尽くした人物ですから、徳川方が受けた衝撃は計り知れません。
そのため同月28日、織田信雄が、織田長益(信長の弟)・滝川雄利・土方雄久を使者として家康のもとへ派遣し、秀吉との講和を勧めました。
家康はこれを拒否します。
研究者の平山優氏は著書『小牧・長久手合戦』の中で、これによって秀吉との対決はますます避けられない情勢になったと見ています。
当然、秀吉側も抜かりはなく、来たるべき徳川との戦いに備えて、軍備を増強。
大垣城に兵糧や玉薬をせっせと運ばせていました。
天下人と、その天下を認めない男。
常識的に考えれば兵力や政治力で圧倒する秀吉方が有利ですが、桶狭間のように、戦いは何があるかわかりません。
あとは号令を待つばかり――。

徳川家康・豊臣秀吉の肖像画/wikimedia commons
天変地異が起きたのは、奇遇にもその翌日のことでした。
天正十三年11月29日、午後10時
天正十三年(1585年)11月29日、亥刻(午後10時頃)のことです。
内陸を震源とする天正地震が発生。
マグニチュード7.8とも推定される恐ろしいほどの揺れで、北陸、東海、近畿エリアで甚大な被害が出ます。
本震と同様に恐ろしい巨大な余震も翌日に起き、揺れは継続的に12月23日まで続きました。
多くの人が寝静まったところへ最初の一撃が来て、明け方近くにもう一度大きく揺れ、しかもそれが年末まで断続的に続いたというのです。
当時の人々が味わった恐怖は想像を絶するものだったでしょう。
この記録を残した『家忠日記』は、徳川家臣の松平家忠が書き続けた日記でした。
なお、天正地震においては、秀吉と家康の被害だけでなく、一晩で土中に消えてしまった城が有名です。
揺れの大きさがわかる事例としてサッと確認しておきましょう。
各地の城に甚大な被害が出た
一晩で土中に消えたのは飛騨の帰雲城(かえりぐもじょう)です。
国衆である内ヶ島氏の居城であり、大規模な揺れにより、城のあった帰雲山が大崩落を起こして土石流が発生。
城ごと内ヶ島氏理や一族、家臣を飲み込んで消えてしまいました。

帰雲城趾碑/photo by NALA Wiki (talk) Wikipediaより引用
他にも甚大な影響を受けた諸城は以下の通り。
◆天正地震と伝わる城の被害
飛騨帰雲城:山崩れで埋没し、内ヶ島氏理が一族もろとも滅亡
越中木舟城:崩落して、城主の前田秀継とその夫人、家臣の多くが圧死
近江長浜城:御殿などの倒壊により、山内一豊の娘・与禰姫が圧死
美濃大垣城:全壊焼失
伊勢長島城:焼失
大坂城:秀吉の居城にも被害
※ただし、帰雲城と木舟城の被害については11月29日の本震ではなく、その2日前に起きた別の地震によるものだという指摘もあり
越中木舟城の前田秀継は前田利家の弟であり、城の崩壊で夫婦そろって圧死しました。
長浜城で亡くなった与禰姫は、山内一豊とその妻にとって唯一の実子であり、大河ドラマ『功名が辻』でも描かれた場面ですね。

山内一豊/wikipediaより引用
極めつけが大垣城でしょう。
家康を討つため、秀吉が兵糧と玉薬を用意させていた前線基地が、全壊した挙句、焼け落ちてしまったのです。
しかもこの地震、計ったかのように豊臣方へ被害を集中させていました。
それは一体どんな状況だったのか?
秀吉方の被害はより深刻だった
被害を受けた城のエリアを並べてみましょう。
飛騨・越中・近江・美濃・伊勢・摂津と、いずれも秀吉の勢力圏、あるいはその同盟者の領地ばかりです。
徳川領国の被害は?
これが、まったくもって不思議なことに、極めて軽微なのです。

徳川家康/wikimedia commons
もちろん徳川領がまったくの無傷だったわけではありませんが、侵攻準備そのものを潰された豊臣方とは、打撃の深さがまるで違います。
◆天正地震被害の偏り
【秀吉方】大垣城・長島城・大坂城・長浜城など、前線から本拠まで広範囲に被災
【徳川方】被害はあるも、秀吉方より相対的に軽かったとみられる
攻める側が総崩れで、攻められる側はかすり傷。
これではすぐに戦はできませんし、天正十三年(1585年)というのは各地で大飢饉に苦しまされた年ですから、出兵どころではありません。
研究者の平山優氏も著書の中で、この天正地震によって秀吉は家康を攻撃することが困難となった、という見解を示しています。
こうして秀吉は、家康を軍事力で打倒する強硬路線から一転。
上洛を促す融和路線へ舵を切ることになりました。
後の江戸幕府では、幕末期に度重なる大震災が発生し、それが倒幕の遠因になったのでは?とも指摘されますが、このときばかりは逆に助かっていたのですね。
秀吉が名指しした三人
翌天正十四年(1586年)1月、秀吉と信雄は富田知信・滝川雄利を使者として家康のもとへ派遣。
徳川方は頑なに秀吉への臣従を拒みます。
これ以上、一体どうしろというんだ?
という場面で秀吉が繰り出したのが、例の手です。
妹の朝日姫を家康に嫁がせ、さらには母の大政所まで人質として送り込み、大切な身内を差し出してまで家康を上洛させようとしたわけです。

朝日姫と大政所/wikimedia commons
天下人が、ここまで下手に出る。
いったい地震がなければ、両者の関係はどうなっていたのでしょうか。
さすがに秀吉の面子にも関わることであり、激突は避けられなかったかもしれません。
ちなみに秀吉の面子といえば、一つ興味深い話があります。
当初、祝言は天正十四年(1586年)4月28日に予定され、その準備に際して家康は天野康景を秀吉のもとへ派遣しました。
ところが同年4月19日の『家忠日記』によると、秀吉は天野を「知らない人物だ」として腹を立て、「酒井忠次・本多忠勝・榊原康政のいずれかを遣わす」よう要求したといいます。
天野康景は三河三奉行に数えられた家康譜代の重臣です。
家康は逆に面目を潰されたと激怒し、一時は縁談の破談まで口にしましたが、織田信雄の使者に宥められ、改めて本多忠勝を派遣しました。
-

秀吉に「徳川四天王を遣わせい!」と叱られた家康|徳川内と世間の家格ギャップよ
続きを見る
まったくもってお騒がせな天下人ですが、このときばかりは当人たちもそうそう笑っていられなかったでしょう。
というのも天正地震による豊臣家の被害は、意外な場所にも及んでいました。
どこだと思われますか?
大和では郡山城天守も崩れたと伝わる
羽柴秀長の大和郡山城です。
この年の閏8月、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えられ、郡山城へ入ったばかりの羽柴秀長。

豊臣秀長/wikimedia commons
兄の天下取りを支える弟が、新しい本拠で腰を落ち着けようとしていた矢先のことです。
『大和郡山旧記』という江戸時代の記録に、こんな話が出てきます。
天正十四年(1586年)、秀長は本丸と二の丸の石垣普請を実施し、天守の材木を生駒の鬼取山から伐り出した。
ところが完成の直前、それが地震で倒壊してしまった――。
この記述で引っかかるのが、年次です。
天正十四年(1586年)に大和国で大地震が起きた記録は見当たりません。
そこで研究者の平山優氏は、前年の天正十三年(1585年)11月29日に起きた天正地震を指す可能性を指摘しています。
この推定に従うなら、秀長が引き継いだ城の象徴・天守は、入城からわずか2か月あまりで崩れ落ちたことになるでしょう。

郡山城
ただし、これはあくまで江戸時代の記録に基づく推定であり、同時代の史料による裏付けはありません。
秀長は、奈良中に石材の供出を命じ、興福寺境内の大小の石までことごとく郡山へ運ばせました。
その詳細は以下の関連記事をご覧ください。
-

羽柴秀長は郡山城の改修に200もの石仏を利用した?さかさ地蔵と天守台の謎
続きを見る
天正地震と郡山城の大改修を直接つなぐ証拠はいまのところありませんが、現実的に家康を潰す機会も失われ、豊臣兄弟にとっては悔いの残る年の瀬になったことでしょう。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』では秀吉によって離縁された朝日姫と副田吉成の夫妻ですが、果たして史実ではどうだったのか?という関連記事が以下にございます。
-

あさひと副田吉成夫妻は本当に秀吉が離縁させたのか?豊臣兄弟第40回史実解説
続きを見る
参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA・角川新書)
- 大和郡山市『史跡郡山城跡保存活用計画』
- 松浦律子「天正地震の震源域特定:史料情報の詳細検討による最新成果」(『活断層研究』2011年35号)
- 松平家忠『家忠日記』天正十四年4月19日条
- 平山優執筆・監修『豊臣秀長 秀吉を支えた生涯』(2026年1月 サンニチ印刷)


