豊臣家や天下統一のため、妹を離縁させて家康に嫁がせる――。
大河ドラマ『豊臣兄弟』の第40回放送では、秀吉が、あさひとその夫・副田吉成(そえだ よしなり)に別れを迫る場面が描かれました。
但馬一国を与えると言われても首を縦に振らず、あさひを連れて深夜に逃げ出そうとした吉成はアッサリ捕まってしまう。
果たしてこんな惨いヤリトリは本当にあったのか。
さすがに逃亡シーンはドラマの創作だったとしても、秀吉が、妹夫妻を無理に離縁させたのは史実だったのか。

秀吉夫妻とあさひ夫妻の話し合いの場面イメージイラスト
というわけで本記事では、第40回放送で注目されたあさひ夫妻や、石川数正の出奔を史実面から振り返ってみたいと思います!
◆豊臣兄弟40回 三行あらすじ
豊臣家との争いを回避させるため、決死の思いで徳川家に出奔してきた石川数正。
しかし家康の意志は変わらず豊臣家との合戦準備を進めると、秀吉もそれに対抗して大垣城などへ兵糧を運び込み、すわ決戦か!という状況で天正地震が起きる。
甚大な被害を受け徳川との和睦を選ぶことにした秀吉は、家康からの嫌がらせとも言える求めに応じ、妹あさひを徳川家へ輿入れさせるのであった。
石川数正は衝突を避けるため出奔したのか
第40回放送は、石川数正の出奔に浜松城が騒然となる場面から始まりました。
ドラマの数正は「わが心は殿とともに」と書き置きを残し、徳川と豊臣がぶつからないよう、自ら豊臣側へ渡った人物として描かれています。
では、史実の家康は、数正の出奔をどう受け止めていたのか?

徳川家康イメージイラスト
石川数正が家族と共に岡崎を去ったのは天正十三年(1585年)11月13日のこと。
同地で預かっていた小笠原貞慶の人質も連れ大坂へ向かうと、家康はすぐに対応し、15日には同盟相手の北条氏直へ知らせを送っています。
中身は「数正の出奔は秀吉と示し合わせてのことだろうから油断しないように」というものです。
翌16日、家康は岡崎へ入り、城の普請を進めました。
豊臣との合戦を意識したものでしょう。
北条への知らせを見る限り、家康は数正を「秀吉と通じた者」として扱っており、両家の衝突は遠ざかるどころか、さらに進みました。
徳川が人質を拒んだうえ交渉役の数正が降ってきたことから、秀吉も「家康成敗」を掲げ、翌年春の出陣を表明したのです。
しかしここで運命の天災が起きます。
天正地震です。

天正地震イメージイラスト
推定マグニチュード7.8の巨大地震が11月29日に起きると、大打撃を受けた秀吉は出陣を延期し、織田信雄を通じた融和路線に転換。
翌年1月27日、家康は岡崎で信雄と会い、和睦が成立しました。
数正の立場
偶然起きた大地震により衝突が回避された豊臣家と徳川家。
果たして史実の石川数正はなぜ出奔したのか。
その辺の詳細は前回の記事で扱っていますが、
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石川数正はなぜ秀吉のもとへ走ったのか?豊臣兄弟第39回史実解説
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当時の状況から浮かんでくることは「徳川家で石川数正の立場が悪くなっていた」という事態であり、豊臣家との「衝突を避けるため」との明言はできません。
むろん数正の真意は不明です。
仮に本気で徳川家のことを思い、豊臣家と合戦しないように気を揉んでいたとしても、秀吉の家臣となった以上、
「徳川家のために合戦をおやめください」
とは言えるわけありません。
また、遠回しに対戦を避けるよう提言したところで、秀吉の目をごまかせるはずもないでしょう。

豊臣秀吉/wikimedia commons
天正地震がなければ、総合力で劣る徳川家は滅ぼされるか極端な小国へ転封されていたかもしれない。
しかし結果的に、天災は家康に味方しました。
豊臣方の拠点に大きな被害が出た一方、徳川領内の被害は比較的小さかったとみられ、そこで秀吉が選んだ道が和睦であり、徳川からの要望が妹あさひの輿入れでした。
劇中では神妙な顔で、妹夫妻に離縁を迫っていた秀吉は、果たして史実ではどう対応していたのでしょう。
あさひ前夫は当時の史料に出てこない
あさひ(朝日・旭)は秀吉と秀長の妹であり、天文十二年(1543年)生まれ。
天正十四年(1586年)に徳川家康へ嫁いだとき、すでに数えで44歳でした。
研究者の福田千鶴氏は著書『豊臣家の女たち』の中で、家康に嫁ぐ以前の旭がどうしていたのか、まったく伝わっていないとしています。
同時代の史料にも『太閤記』にも、江戸幕府がまとめた徳川将軍家の妻妾記録にも見えません。

あさひイメージイラスト
一方、前夫についての主な記録は、以下のように、江戸時代の三つの書物となります。
◆あさひ前夫の記録
『武家事紀』(1673年)
副田甚兵衛
但馬の城を一揆に奪われた失態で、秀吉に離縁させられた
『改正三河後風土記』(1833年)
佐治日向守
家康との縁談のため離縁を受け入れ、後に自害したとも伝えられる
『尾張志』(1844年)
副田吉成
5万石の加増を断って出家し、尾張の烏森村に隠棲した
名前は「副田」と「佐治」に割れ、結末も、仕え続けた、自害した、隠棲したと三者三様。
ドラマの副田吉成という名は『尾張志』からきたんですね。
吉成という名は、18世紀前半の随筆『塩尻』あたりから登場したと考えられています。
しかし、です。
そもそも副田吉成は実在の人物だったのでしょうか。
秀吉の家臣・副田甚兵衛は実在した
かなりマイナーな存在であるせいか、副田吉成そのものが創作とも思われそうです。
ただし、秀吉の家臣・副田甚兵衛が実在したことは、当時の史料から確認できます。

副田吉成イメージイラスト
天正八年(1580年)4月26日付の秀吉の覚書に、三木合戦後の播磨で城を壊す担当として、こう書かれています。
【意訳】神吉城(かんきじょう)の破却は、副田甚兵衛が担当する
【原文】神吉の城の事 副田甚兵衛
出典:天正八年4月26日付 羽柴秀吉覚書
秀吉の家臣に副田甚兵衛がいたことが、当時の史料で確かめられるのです。
『太閤記』では天正十年(1582年)10月、大徳寺における信長葬儀で法事の奉行まで務め、翌年「賤ヶ岳の戦い」後に佐久間盛政らを預かったことも記されています。
なかなか大事なポジションにいたんですね。
しかしそうなると、辻褄の合わない話が出てきます。
あさひと副田夫妻の離縁の時期です。
離縁は家康との縁談の4年前だった?
『武家事紀』によれば、副田甚兵衛は秀長の与力として、但馬の多伊城(兵庫県新温泉町)を守っていました。
ところが天正十年(1582年)6月、本能寺の変の混乱で播磨へ移っている間に、一揆が勃発。
城を奪われてしまいます。
城はのちに宮部継潤が取り返しましたが、この失態により、
副田は、秀吉によってあさひと離縁させられた
というのです。
研究者の黒田基樹氏は著書『羽柴秀吉とその一族』の中で、二人の離婚は天正十年のことだったとみるのが妥当だとしています。
つまり、家康との結婚にともなって離婚したという話は、後世の創作となりますね。
ただし、縁組そのものはドラマのように家康からの求めだったようで……秀吉の朱印状には「家康が懇望した」とあり、黒田氏も家康側からの求めだったと指摘。
ともかく、あさひと家康の縁談が持ち上がる4年前に、彼女はすでに独り身だった可能性が高いのです。

徳川家康/wikimedia commons
離縁後の副田は秀吉に仕え続けたとされ、信長葬儀の奉行や佐久間盛政を預かった仕事も、離縁後の出来事だった可能性があります。
少なくとも『武家事紀』の記述どおりなら、離縁後ただちに秀吉から追放されたわけではなさそうです。
ただ、家康との縁談のために引き裂かれたほうが、ドラマとしては劇的な展開になりますね。
但馬一国と夜逃げはドラマ独自の展開
劇中の秀吉は、副田吉成に対し「但馬一国をやる」と提案していました。
『武家事紀』の副田は但馬の城を守り、『尾張志』では5万石の加増を断ったことになっています。
いずれもドラマの申し出と重なるところがありますね。
ただし、あさひと副田が手を取り合って逃げようとする場面はどの記録にも見当たらず、こちらはドラマ独自の展開とみられます。
なお、あさひと家康の婚儀を進める上で互いの使者を送るとき、秀吉が
「徳川からは四天王の誰かをよこせよ!」
と怒ったという、しょーもないけど微笑ましい一件がございます。
よろしければ以下の関連記事からご覧ください。
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秀吉に「徳川四天王を遣わせい!」と叱られた家康|徳川内と世間の家格ギャップよ
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秀吉が徳川との対戦を諦めることになった天正地震については、以下の関連記事に詳細がありますので、よろしければ併せてご覧ください。
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秀吉の家康潰しを阻んだ天正地震とは?頓挫した侵攻計画と崩れた城
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参考文献
- 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA)
- 福田千鶴『豊臣家の女たち』(2025年10月 岩波書店)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書』(2020年1月 吉川弘文館)
- 黒田基樹編『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』(2023年4月 戎光祥出版)



