大河ドラマ『豊臣兄弟』では柴田勝家が北陸で上杉謙信と対峙し、秀吉が戦場から逃げ出すという場面が描かれました。
その後、劇中では全く描かれなかった壮大な復讐劇が、同エリアで始まりました。
長連龍(ちょう つらたつ)による仇討ちです。
手取川へ向かう柴田勝家軍にも加わっていたこの連龍。
「恨みを残すな」と織田信長に二度もたしなめられながら、決して引かず、ついに仇を討ったのですが、なぜそんなことができたのか。
一体どれだけの恨みを抱いていたのか。
大河などで大きく注目されることはないけれど、まるでドラマのような展開となった史実の仇討ち。

長連龍/wikipediaより引用
長連龍の生涯と共に振り返ってみましょう。
一族が殺されたとき連龍は加賀にいた
長連龍は天文十五年(1546年)、能登の守護・畠山氏に仕える重臣の家に生まれました。
七尾城の主は幼い畠山春王丸で、家中を仕切っていたのは連龍の父・長続連(つぐつら)。
そこへ天正四年(1576年)の冬、上杉謙信が能登に攻め込んできます。

上杉謙信/wikimedia commons
謙信はいったん兵を引くものの、翌天正五年(1577年)閏7月には再び七尾城を囲み、追い詰められた長家は織田信長に救援を求めることにしました。
このとき兄・長綱連(つなつら)の密使として安土へ向かったのが、出家して孝恩寺宗顓(こうおんじ そうせん)を名乗っていた連龍です。
願いは無事聞き入れられました。
連龍は柴田勝家の率いる救援軍に加わって七尾を目指すのですが、救援軍は加賀で足止めされ、その間に七尾城の中で事件が起きます。
天正五年(1577年)9月15日、重臣の遊佐盛光(ゆさ もりみつ)が上杉軍に寝返り、自分の守る曲輪に敵を引き入れたのです。
父の続連、兄の綱連ら長一族百人余りは討ち取られ、七尾城はその日のうちに落ちました。
後世の『長家家譜』は、重臣の温井景隆(ぬくい かげたか)らも謀議に加わったと伝えます。ただし、落城直前の城内で実際にどこまで内紛があったのかは分かりません。
いずれにせよ安土へ使いに出ていた連龍は、この惨事を免れました。
助けを呼びに行っている間に、帰る家そのものが消えてしまったのです。
救援軍もその直後、手取川で上杉軍に追い返されています。
手取川の戦いの実像については、以下の関連記事をご覧いただき、
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手取川の戦いで織田軍は本当に惨敗したのか?秀吉離脱と勝家敗北の真相
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先へ進みましょう。
僧侶をやめて穴水城を奪う
長連龍は越中の守山城(富山県高岡市)にいた神保氏張(じんぼ うじはる)のもとに身を隠し、ここで還俗して長好連(よしつら)を名乗ります。
転機は翌天正六年(1578年)3月に訪れました。
上杉謙信が急死し、上杉家は跡目争い(御館の乱)で真っ二つに割れたのです。
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この報せを聞いた連龍は、まず北庄(福井市)の柴田勝家のもとへ出向いて助けを求めますが、協力は得られません。
ならば自分でやるしかない!
そうして旧臣や浪人をかき集めて能登へ乗り込み、8月14日には上杉方の穴水城(石川県穴水町)を攻め落とします。
しかし、頼みの織田軍は来ません。
勝家からは「年内は海が荒れて救援できない。来春には信長様が出馬されるから、それまで守りを固めよ」という書状が届くばかりでした。

柴田勝家/wikipediaより引用
結局、敵に囲まれた穴水城は維持できず、連龍はせっかく奪った城を捨てて、再び越中へ退くことになりました。
信長の制止を二度振り切る
長連龍はそれでも、一族の仇討ちと旧領の奪還を目指して能登へ攻め入り続けます。
と、今度は仇の側が動き出しました。
もはや謙信はおらず、温井ら七尾城の畠山旧臣は上杉の城代を追い出し、信長に降参を申し出てきたのです。
戦わずに能登を手に入れられる!
ということでこれを受け入れた信長ですが、状況はややこしくなります。
なんせ長連龍にとっては、親兄弟を殺した相手が、いきなり味方になったわけです。
天正七年(1579年)5月17日、信長は連龍に宛てた黒印状で、温井らの内通を認めたことを伝え、「意趣を残さないように」と命じています。
しかし連龍は止まりません。
天正八年(1580年)閏3月、柴田勝家が加賀の奥まで攻め込むと、連龍はこれに呼応して飯山(石川県羽咋市)に放火し、七尾城から出てきた温井らの軍勢を打ち破りました。
困った信長は、5月10日付の黒印状で再びクギを刺します。
【意訳】七尾の者たちは降参しているのだから、くれぐれも落ち度のないように行動せよ
出典:天正八年5月10日付 織田信長黒印状(『長家文書』)
それでも連龍は菱脇(羽咋市)で温井の軍とぶつかり、またもや打ち破ってしまいます。
信長の言うこと、まるで聞いてない!
普通なら処罰されてもおかしくないところですが、果たして信長はどう出たのか?
5年がかりの仇討ち
答えは、まさかの恩賞でした。
天正八年(1580年)9月1日、連龍は能登の鹿島半郡を与えられたのです。
長家の記録『長家家譜』では、これを2年間の戦功への恩賞としていますが、同じ9月に信長は七尾方との正式な和睦も命じており、連龍による報復を全面的に認めたわけではありません。
信長は天正九年(1581年)、側近の菅屋長頼(すがや ながより)を七尾城に送り込み、能登支配を進めます。
その中で殺害を命じられたのが、一族の仇である遊佐盛光でした。
『信長公記』によれば6月27日、盛光は弟の伊丹孫三郎らとともに、信長の命で殺されています。

織田信長/wikimedia commons
翌7月、信長は連龍にこんな書状を送りました。
【意訳】遊佐のことは、悪逆のゆえに殺害を申し付けた。そなたが本意を遂げたことは、めでたく思う
出典:天正九年(1581年)7月 織田信長書状(『長家文書』)
かつて「意趣を残すな」と言っていた信長が、仇討ちの成就を祝っているのです。
長家に伝わる記録では、遊佐一族の最期がさらに生々しく描かれています。
【意訳】七尾城を逃げ出し、奥能登の鳳至郡(ふげしぐん)に隠れていた遊佐一族を連龍が探し出し、子や孫、従者まで一族郎党の首を刎ねた。
※長家の記録であり、先祖の手柄を大きく書いている可能性はあります
もう一人の仇である温井景隆は、いち早く越後へ逃げており、8月には、信長自身が連龍に温井の追討を命じています。
しかし、天正十年(1582年)6月に本能寺の変が勃発。
織田信長が明智光秀に討たれると、温井は弟の三宅長盛とともに能登へ舞い戻り、石動山(せきどうさん)の衆徒らと結んで近くの荒山砦に立てこもりました。
これを攻め落としたのが佐久間盛政と前田利家の軍勢で、温井兄弟はここで討死します。

前田利家/wikipediaより引用
前田軍の中には、長連龍の姿もありました。
七尾城で一族を失ってから5年が経ち、元僧侶の仇討ちは、ここでようやく終わったのです。
その後の連龍は前田利家に仕え、後に3万1000石を領したとされる加賀藩の重臣となり、元和五年(1619年)2月3日、74歳で亡くなりました。
前田利家の遺言状には、連龍について「世間付き合いもせず、私一人を守って律儀に仕えてくれた」と書かれています。
仇には容赦しなかった男も、主君には実直そのものだったのでしょう。
※遺言状は原本が所在不明で真偽を疑う研究者もいます
なお、手取川の戦いや御館の乱については以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 山田邦明・長谷川裕子・萩原大輔編『戦国武将列伝5 北陸編』(2025年6月 戎光祥出版)
- 谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(2007年7月 中央公論新社)
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
- 大西泰正『前田利家・利長―創られた「加賀百万石」伝説』(2019年4月 平凡社)
- 石川県立図書館「長連龍」(人物資料。典拠は『石川県史』第2編)


