北陸で百万石といえば?
誰もが瞬間的に加賀前田家のことを思い浮かべるでしょうが、実は利家が大身となる前に、同じ北陸で百万石規模の領地を手にした男がいます。
丹羽長秀です。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも秀吉の才能に畏怖して、グッと注目度の上がってきたこの長秀。
史実でも秀吉の天下取りを助け、一説には123万石もの大大名となるのですが、息子・丹羽長重の代になると一転、わずか4万石にまで落とされてしまうのですからワケわかりません。
いったい長秀はどうやって領地を拡大し、息子の長重はなぜそれを失ってしまったのか?

丹羽長秀/wikimedia commons
当時を振り返ってみましょう。
清須会議の頃は若狭の小国主
そもそも丹羽長秀はどんな領地を持っていたのか?
天正十年(1582年)清須会議のあと、丹羽家が得た領地は以下の通りです。
◆若狭一国
◆近江国のうち高島郡・志賀郡
若狭は一国とはいえ、研究者の谷口克広氏も著書『織田信長家臣人名辞典』の中で「10万石足らずの小国にすぎない」と評しています。
秀吉が山城と丹波、勝家が越前と長浜を得たことを思えば、けっして厚遇ではない。
清須会議の段階で長秀はあくまで宿老の一人でした。
そんな状況が一変するのは、翌天正十一年(1583年)のことです。
「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が滅び、

柴田勝家/wikipediaより引用
空白となった勝家の旧領・越前に入ったのが丹羽長秀だったのです。
越前一国に加え、加賀国の能美・江沼の二郡も手にして、一説にはこの時期の丹羽領は「123万石に達した」とも言われます。
若狭で10万石程度だった丹羽家が、わずか1年で北陸最大の領主になったんですね。
もらった土地を厳密に計算すると百万石には届かないのでは?という指摘もありますが、いずれにせよ同規模の大身となったのは間違いありません。
前田利家が加賀百万石と称されるよりずっと前に、丹羽長秀が北陸で大領国を築いていました。
なぜ長秀はここまで報われたのか
なぜ秀吉は、丹羽長秀にここまでの領地を与えたのか?
長秀は、秀吉にとって恩人でした。
秀吉が織田家で頭角を現す時期から長秀に助けられ、「羽柴」という名字自体が、丹羽の「羽」と柴田の「柴」から取ったものとも考えられています。
本能寺の変後も同じです。
清須会議では宿老の一人として秀吉の方針に賛成し、その後の本圀寺会談でも秀吉に賛同して織田信雄の擁立に加わりました。

絵・富永商太
賤ヶ岳の戦いでも長秀は自ら舟を出して戦場へ駆けつけており、秀吉が天下人になっていく過程でこれ以上ないほど手助けした人物と言えます。
広大な領地は、その恩に報いるためだったのでしょう。
しかし、天正十三年(1585年)4月に丹羽長秀が病没すると、丹羽家にとっては天変地異レベルの恐ろしいことが起きます。
息子の長重は大減封で4万石に
天正十三年(1585年)5月、丹羽長秀の跡を継いだのは嫡男の丹羽長重でした。
このときまだ15才。
百万石規模の領地は、父からそっくり継承しています。
秀吉からは「羽柴五郎左衛門尉」の名字も許され、越前で家臣に所領を宛行った文書も残っていますから、家督相続は正式なものでした。
しかし、ここからの転落があまりに早い。
同年閏8月になって、突如、若狭一国のみに減封され、清須会議後よりも後退すると、最終的に加賀松任4万3000石にまで減らされてしまうのです。
実に20分の1以下の大減封。
関ヶ原の戦いで徳川家に反目した上杉家も大減封されたことで話題になりますが、そのときでさえ120万石→30万石ですから、次元が違います。
なぜ秀吉は、ここまで容赦なく丹羽家の所領を取り上げたのか?
ひょっとして丹羽長重がとんでもない愚将だったのか?

丹羽長重/wikipediaより引用
秀吉には「家」という感覚がなかった
丹羽長重について、当人が愚将であることを示す記録は残っていません。
暗愚ではない。
しかし名将と呼べるような派手なエピソードもない。
要は、普通の戦国武将と言えそうですが、だからこそ秀吉にとっては価値が低い存在となり領地を取り上げたのではないか、と研究者の本郷和人氏は著書『豊臣の兄弟』で指摘しています。
秀吉にとって丹羽長秀には恩があるが、息子には恩もなく、百万石なんてもったいない!というわけですね。
こうした個人の能力に対して大きな報酬を払ったり、あるいは出し渋ったりするのは、現代では割と普通の感覚でしょう。
いわゆる能力主義であり、外資系企業の給与形態や、日系企業でもボーナス査定などはその一例となります。
しかし当時の武士社会でこの価値観は、かなり異質。
当時の武家は「家」を代々引き継いでいく世襲こそが最も大事な価値観であり、先代が命がけで奉公したのに子の代で土地を取り上げられたら、忠義を尽くす意味がなくなってしまいます。
出自が低いとされる秀吉には、この本質が真に理解できていなかったのでは?とも本郷和人氏は指摘しています。
由緒正しい武家の生まれであれば、世襲の原理は体に染み込んでいる。
ところが秀吉には、それがなかった。

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikimedia commons
なんせ、丹羽家とほとんど同じような悲劇が蒲生家でも起きているのです。
蒲生家の当主だった蒲生氏郷は織田政権でも豊臣政権でも重用された人物で、東北の最重要エリアである会津に92万石もの大領地を与えられていました。
ところが氏郷が没すると、跡を継いだ息子の蒲生秀行が18万石へ大減封されているのです。
丹羽家と蒲生家という豊臣政権の柱が、当主の死をきっかけに一気に縮小。
しかも、丹羽家と蒲生家で抱えきれなくなった家臣たちは、秀吉のもとで大名となったり旗本となって抱えられたりするのですから、両家から見ればやってられないでしょう。
一方、自身が能力主義で成り上がってきた秀吉にしてみれば、他に有能な者たちへ分け与えたくなるのも無理はないのかもしれません。
まとめ
丹羽長重はその後、少しずつ盛り返していきます。
慶長三年(1598年)には加賀能美郡内で加増を受けて合計12万5000石となり、本拠を松任城から小松城へ移し「羽柴小松宰相」と呼ばれるまでになりました。
丹羽長秀からの変遷をまとめるとこうなります。
◆天正十年(1582年)清須会議後:若狭+近江2郡で10数万石
◆天正十一年(1583年)賤ヶ岳の戦い後:越前+加賀2郡で百万石規模
◆天正十三年(1585年)丹羽長秀没後:15才で跡を継いだ丹羽長重が若狭一国へ減封
◆天正十五年(1587年)加賀松任4万3000石までさらに減封
◆慶長三年(1598年)12万5000石まで回復して小松城主となる
恩は、家ではなく個人に対して支払われる――そんな秀吉の能力主義は、才ある者を引き上げる原動力にもなりました。
しかし同時に、たった一代で吹き飛ばす刃にもなってしまった。
こうなると命をかけてまで豊臣政権を守っていきたいとは思えず、早々に崩壊してしまうのは必然の流れだったのかもしれません。
なお、秀吉が出世争いに利用し、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目される「三法師」については以下に別記事もございます。
よろしければ併せてご覧ください。
-

信長の葬儀はなぜ二度行われたのか?お市と秀吉が争った法号と後継者の座
続きを見る
【参考文献】
- 本郷和人『豊臣の兄弟』(2025年10月 河出書房新社)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)
- 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(2016年 KADOKAWA・角川選書)
- 菊地浩之『織田家臣団の系図』(KADOKAWA・角川新書)
- 『兼見卿記』『当代記』/岡本文書・丹羽文書

