松江城イラストイメージ

城

“人柱”が埋められたのは本当か?戦国期の城郭に残された6つの伝説に注目

お城の石垣や地下に人が埋められている――そんな「人柱伝説」を聞いたことはありませんか?

例えば、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された長浜城では「おかね」と「おきく」、松江城では盆踊りの上手な娘、丸岡城では片目の女性「お静」など。

全国各地で主に若い女性が犠牲になった話が語り継がれており、その多くが名前まで残っているのですから、もしかして事実なの?とも思えてきます。

いったい何処からどこまでが伝承なのか。

今回は、全国六城に残る人柱伝説を振り返ってみましょう。

 


長浜城に残る二人の女性

まずは豊臣秀吉の長浜城に注目です。

天正元年(1573年)9月、敵対していた浅井長政を滅ぼした織田信長は、その後の北近江支配を羽柴秀吉に任せました。

このとき秀吉は、浅井家の本拠地だった小谷城から琵琶湖畔の今浜へ移転し、地名を改めて城下町を整えます。

そう、長浜城ですね。

現在の長浜城

現在の長浜城

長浜城歴史博物館「長浜城の歴史」によれば、このとき秀吉が領内の住民を動員し、浅井家が竹生島に預けていた材木も運ばせていたことが、同時代の文書でも裏づけられているとのこと。

女性が人柱になったという伝説は、その普請に結びつけて語られ、二例あります。

一つめは、城と町の繁栄を願って、城下一の美女とされた「おかね」が犠牲になったという話。

そしてもう一つが、人柱を頼まれた盲目の妹に代わり、姉の「おきく」が自ら犠牲になったというものです。

長浜城だけで二人の娘が犠牲になっていて、現在も長浜城跡には「おかねさん」の碑が残されたままとなれば、やはり事実なの?とも考えてしまいますが……。

二人が実在し、人柱になったことを示す築城当時の記録は確認されていません。

史実であれば気の毒としか言いようがありませんが、住民が普請へ動員されたことと、誰かが生き埋めにされた伝説は、分けて考える必要がありそうですね。

 

丸岡城で約束を破られたお静

次は越前の丸岡城です。

天正四年(1576年)に柴田勝家の甥・柴田勝豊が築いたとされる城で「お静の涙雨」という話が伝わっています。

丸岡城

丸岡城

石垣が何度積んでも崩れるため人柱を立てる話が持ち上がり、選ばれたのが片目の女性・お静でした。

お静は息子を侍に取り立てることを条件に、自ら命を差し出したとされます。

しかし勝豊は近江へ移ってしまい、約束は果たされず。

その恨みからお静が片目の蛇となり、400年以上経った今も城に棲んでいると語られ、彼女の霊が春雨を降らせ、堀を水で満たしたとも伝わります。

それが毎年のように降る「お静の涙雨」だというのです。

なんとも哀しい話ですね。

柴田勝豊は丸岡城から長浜城へ移ったのち、天正十年(1582年)12月に秀吉へ降伏して城を明け渡しました。

病身だったこともあって翌年に亡くなり、長浜城を得た秀吉は「賤ヶ岳の戦い」を有利に戦って柴田軍を破ります。

柴田勝家の肖像画
柴田勝家を窮地に追い込んだ甥の柴田勝豊とは?秀吉に渡った長浜城の代償

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もしも勝豊がお静との約束を守っていたらどうなっていたのか……。

ちなみに、調査の結果、現在の丸岡城天守は寛永年間(1624〜1644年)、本多成重の時代に整備されたことが判明しています。

つまり勝豊の築城と現存天守は直接つながりません。

そのことが勝豊の築城時に人柱があったかどうかを証明するものでも否定するものでもないですが、現実として、彼女の慰霊碑は現在もあります。

お静慰霊碑

お静慰霊碑/wikimedia commons

 


府内城のお宮はいつ記録された?

お次は豊後の府内城です。

慶長二年(1597年)、福原直高が築城に着手した城であり、その後、竹中重利の時代に現在の姿に整いました。

府内城

府内城

この地は川と海に近く、工事中に水が出る難所。

そこで弁財天の像を抱いた若い女性「お宮」が水中へ入り、人柱になったところ、工事が完成したという伝説が生まれています。

府内城跡には今もお宮の祠があり、毎年3月18日には供養祭が営まれてきました。

というと、いかにも江戸時代あたりの書物に記され、地元で語り継がれてきた話のようにも見えますよね。

しかし、大分市の調査によると、この伝説は文献上の初見が昭和七年(1932年)刊行の『増補 豊後伝説集』であり、時代を経た史料で伝えられたものではありません。

確かに、寛文七年(1667年)以降に成立した城絵図には、天守台西側に「弁財天」という記載はありますが、お宮の人柱までは確認できない。

祠や信仰だけが古くから存在していて、後に築城物語として描かれた。

果たして何がどこまで本当なのか、判断に困るスポットですね。

続いて、これまた有名な松江城です。

 

松江城で盆踊りが禁じられた?

慶長十二年(1607年)から築城が進められた松江城。

松江城

松江城

石垣が何度も崩れたため、盆踊りで最も美しく踊った娘をさらい人柱にしたと伝わります。

しかし完成後に盆踊りをすると城山が揺れるようになり、城の近くでは踊りが禁じられたとのことで、松江市が史料調査をしたところ、この物語を記録した人物が判明しました。

小泉八雲です。

小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの写真

小泉八雲ことラフカディオ・ハーン/wikimedia commons

八雲が松江に滞在したのは明治二十三〜二十四年(1890〜1891年)ですから、現在確認できる記録は築城から約280年後のことでした。

松江城には他にも、石垣の下から槍の刺さった頭蓋骨が出たため祈祷したという「ギリギリ井戸」の話もあるほど“怪談”じみたスポットになっているんですね。

ただし八雲がこの伝説を作ったとは限りません。あくまで、現在たどれる最も古い記録が八雲だったということです。

松江城の築城時に、難工事や祈祷があった可能性は否定できませんが、複数の怪談を史実として見るのは違いますね。

同城を築いた堀尾吉晴については、以下の関連記事をご覧ください。

堀尾吉晴
尾張の戦国武将・堀尾吉晴の生涯|秀吉に信頼された豊臣三中老とはどんな存在?

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白河小峰城のおとめと郡上八幡城のおよし

人柱伝説をさらに二つ見てみましょう。

寛永六年(1629年)から丹羽長重が大改修を進めた白河小峰城では、崩れる石垣を鎮めるため、工事に携わる藩士の娘が犠牲になったと伝わります。

そんな娘を悼んで植えられたのが「おとめ桜」。

以下の写真がそれで、

おとめ桜

おとめ桜

初代は戊辰戦争で焼失し、三重櫓の近くに立つ現在の木は二代目です。

非常に立派な桜ですね。

次に郡上八幡城では、数え17才の「およし」が人柱になったという伝説が残りました。

およしは不思議な力で築城用の大木を運び、城を守るため地中へ入ったとされ、現在も城内の社や麓の観音堂に祀られています。

ただし郡上八幡城の公式サイトでも、この話は「史実ではない」という位置づけです。

伝説の舞台も、永禄二年(1559年)の遠藤盛数による築城とする説や、慶長五年(1600年)に遠藤慶隆が郡上へ復帰したあとの大修理とする説などがあり、一定していません。

年代が揺れること自体、この物語が築城記録ではなく、後世に広まった伝承の証拠でしょう。

およし塚

およし塚

なお慶長二年(1597年)に生駒親正が築いた讃岐の丸亀城にも、同じく女性を人柱にしたという伝説が残っています。

それにしても、です。

若い娘ばかりが犠牲になる、こんな蛮行を親が許すの?と思いませんか。

確かに人柱自体の記録は『日本書紀』の頃からあり、伝説と史実の境目はわかりづらい――そんな恐ろしい状況ですが、だからこそ気になることもあります。

例えば織田信長であれば、このような非合理なことを信じたでしょうか?

信長は大蛇伝説を否定するため、自ら池に潜って確認したという話が『信長公記』にもあるほどで、人柱伝説など信じそうにありません。

オカルト否定派と言えるでしょう。

あまが池の大蛇と佐々成政|信長公記第20話

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そこで、最初の問いに戻りたいと思います。

果たして人柱は、本当に使われたのか。

 

六城の伝説は史実なのか?

今回確認した資料の範囲では、六城の人柱を裏づける築城当時の文書も、犠牲者と確定できる発掘成果も見つかりませんでした。

六城の事例をまとめると以下の通りです。

◆六城に残る人柱伝説

長浜城:おかねとおきく

丸岡城:約束を破られたお静

府内城:弁財天像を抱いたお宮

松江城:盆踊りの上手な娘

白河小峰城:おとめ桜に名を残す娘

郡上八幡城:17才のおよし

並べてみると共通点が浮かんできます。

多くの話は、崩れる石垣や湧き出す水といった難工事から始まり、犠牲になった女性が城を守る存在、あるいは約束を破った城主へ祟る存在となりました。

必ずしも積極的に肯定されているわけではなく、むしろ「史実にはない」という見解も示されています。

一方で、人柱を拒んだ側の話も残っている。

謀将として知られる毛利元就は、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)の拡張工事で人柱を立てる話が出たとき、生き埋めを嫌って「百万一心」と刻んだ巨石を埋めたと伝わります。

ただし、この話も元就の時代にあった証拠はなく、石の実物すら見つかっていない。

とにかくアヤフヤな話が多いんですね。

人柱を拒んだ美談まで後世の産物だとすれば、現実世界の結論としては“無い”と決断してもよさそうですが……。

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参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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