豊臣政権の実務を担った五奉行といえば、まず思い浮かべるのが石田三成でしょう。
それだけに関ヶ原後に京の六条河原で首を斬られ、五奉行の中で最も厳しい最期を迎えたのも三成だ、と考えるのが自然です。

石田三成/wikipediaより引用
しかし、その三成よりも酷い扱いを受けた同僚がいます。
長束正家(なつかまさいえ)です。
彼は戦場で討たれたわけでも引き回されて斬られたわけでもなく、慶長五年(1600年)10月3日に自ら腹を切っているのに、それでも首が晒されました。
ではいったい五奉行それぞれの最期はどんな状況だったのか?
一人ずつ振り返ってみましょう。
豊臣五奉行
まずは豊臣五奉行の顔ぶれを確認しておきます。
◆豊臣五奉行
・浅野長政(あさのながまさ)
・石田三成(いしだみつなり)
・増田長盛(ますだながもり)
・長束正家(なつかまさいえ)
・前田玄以(まえだげんい)
彼らは、秀吉晩年に政権の実務を担当した5人で、検地や蔵入地の管理、兵糧の調達、寺社との折衝といった、派手さはなくても政権には欠かせない仕事を分担していました。
この5人のうち、いったい何人が畳の上で死んだのか?
答えは2人だけです。
天寿をまっとうした二人
まず浅野長政は関ヶ原で東軍につきました。
秀吉の正室おねの義弟という立場でありながら徳川政権下でも生き残り、常陸の筑波・真壁に隠居料として5万石、さらに近江神崎郡の5,000石を安堵。
最期は慶長十六年(1611年)4月7日、下野の那須塩原で享年65でした。

浅野長政/wikipediaより引用
塩原温泉へ湯治に出かけ、湯あたりでもしたのか、2〜3日寝込んだあとの最期だったと、別冊歴史読本『事典にのらない戦国武将の死の瞬間』では『当代記』に基づいて記しています。
関ヶ原から11年、湯治先で寝込んだあとに死ぬというのは、五奉行としては破格に穏やかな終わり方でしょう。
もう一人は前田玄以です。
もともとは僧侶の出身で京都所司代を務めた人物ですが、関ヶ原では西軍に名を連ねながら切腹などではなく、慶長七年(1602年)に病で世を去りました。
ただし、家のほうは穏やかに済んでいません。

月岡芳年の描いた前田玄以/wikimedia commons
嫡男の前田秀以(ひでもち)は父に先立って慶長六年(1601年)に没し、跡を継いだ茂勝の代で前田家は改易されてしまいます。
本人は寿命をまっとうしながら家は消えるという形でした。
石田三成は10月1日に首を斬られた
残る3人は、いずれも穏やかな最期とは言えません。
二人は関ヶ原の直後に命を落とし、生き延びた一人も最後は自ら腹を切ることになっています。
まず石田三成ですが関ヶ原で西軍の中心として戦い敗れると、伊吹山中に逃げ込んだ後に捕らえられて大坂と堺を引き回され、慶長五年(1600年)10月1日に京都の六条河原で首を斬られました。
同じ日に小西行長と安国寺恵瓊も処刑されており、首はいずれも晒されています。

小西行長/wikimedia commons
西軍の決起を主導した中心人物ですから、処分が最も重くなるのは当然ですし、本人も覚悟はしていたでしょう。
しかし、この2日後に奇妙なことが起きます。
長束正家です。
長束正家は城を出たあとに死んだ
長束正家は近江水口岡山城(滋賀県甲賀市)の城主です。後世に近隣へ築かれた水口城とは別の城で、甲賀市も水口岡山城と呼んでいます。
もとは丹羽長秀に仕え、その没後に秀吉のもとへ移った人物であり、算用に強く、兵糧の調達や検地で手腕を発揮。
関ヶ原では西軍に属して伏見城攻めや伊勢方面の攻略を担当し、本戦では南宮山の麓に着陣しました。
しかし西軍が崩れると南へ退き、駒野城を経て居城の水口岡山城へ戻ります。

長束正家イメージイラスト
そこからの経緯が、どうにも妙なのです。
まず関ヶ原を離脱した正家は居城へ逃げ帰りました。
すると東軍の池田長吉から「本領を安堵する」と降伏を求められ、城を退去することに決定。
研究者の渡邊大門氏は著書『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』の中で、この降伏の条件が嘘であり、正家はのちに近江の日野で自刃したと記しています。
9月22日までに水口岡山城を開城し、正家は剃髪もしています。出家をして表向きだけでも俗世から離れることにより、助命を許されようとしたのですね。
しかし、その条件が反故にされてしまいました。
正家は、蟄居先の日野(滋賀県日野町)で弟の直吉と共に自害へ追い込まれ、しかもその首は京都の三条大橋に晒されてしまったのです。
研究者の谷徹也氏は、黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、開城から自害、そして首が晒されるまでの経緯を『舜旧記』『時慶記』『孝亮宿祢記』といった同時代の日記から裏づけています。
剃髪して出家した者が、蟄居先で弟と共に自害をして果て、それでも首は都へ運ばれて晒されたんですね。
石田三成と同様の立場にいる者に対し、特別扱いは許されなかったということでしょう。
では残りの増田長盛はどうなったのか?
増田長盛は15年生き延びた
増田長盛は、大河ドラマ『豊臣兄弟』に未だ登場しておりませんが、かなり重要な人物とも言えます。
豊臣秀長の死後、大和郡山城を任されたからです。

郡山城
それだけ秀吉からの信頼も厚かったということであり、関ヶ原では西軍につきましたが、処刑もされず自害もしていません。
一体どうなったのか?
大坂城を退去して居城の郡山城に蟄居すると、その後、領地を没収されました。
そして9月25日に剃髪して高野山へ入り、以後は武蔵岩槻城主の高力忠房に預けられたと伝わります。単なる預け置きではなく、家康は長盛へ知行を与える予定だったともされ、ただ生かされていただけでもなさそうです。
大坂の陣が終わった元和元年(1615年)6月、子息の増田盛次が大坂方に与したという理由で自刃したと伝わるのです。
ただし5月27日とする記述もあり、月すら一致していません。
関ヶ原から15年後のこと。
五奉行では最も長く生きたことになりますが、

増田長盛/wikipediaより引用
その最期は詳細が不明であり、以下のように諸説あります。
◆増田長盛の最期をめぐる諸説
・子の盛次が大坂方に与したため自刃した/子の盛次が大坂城で討死して長盛も切腹を命じられた(『駿河土産』)
・豊臣秀頼の死に殉じた
・享年は71とも77とも伝わる
・平林寺(埼玉県新座市)の墓石には「元和元乙卯年五月二十七日」と刻まれているが、元和への改元は7月13日なので後世に造られたと考えられる
命日を刻んだはずの墓石が、改元より前の年号で彫られている。
つまりは墓石の日付すら後世の人が決めた、ということですね。
処刑もされず、記録も定まらない。
なかなか寂しい最期だった可能性が高いですね。
豊臣五奉行の最期まとめ
では豊臣五奉行の最期を一覧にしてまとめておきましょう。
浅野長政:慶長十六年(1611年)に下野那須塩原で湯治中に死去。享年65
前田玄以:慶長七年(1602年)に病没し、家は子の代で改易
石田三成:慶長五年(1600年)10月1日に六条河原で斬首後、首を晒される
長束正家:同年10月3日、蟄居先の日野で弟と共に自害へ追い込まれ、首を三条大橋に晒される(9月30日説もある)
増田長盛:元和元年(1615年)に自刃とされるが、経緯も享年も諸説あり
畳の上で死んだのは2人だけ。
石田三成は大将として裁かれた代わりに名は後世まで残る一方、増田長盛は長く生きた代わりに、死んだ日の記録さえ定まっていません。
長束正家だけが妙な位置にいて、自ら腹を切って決着をつけたはずなのに、首は都へ運ばれて橋の上に置かれています。
実務を回していた官吏が、なぜそこまでされたのか?
答えは、いまのところ史料に書かれていませんが、徳川家康としても厳しい処断をくださぬわけにはいかなかったのでしょう。
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参考文献
- 黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(2026年7月 戎光祥出版)※長束正家の項は谷徹也
- 戦国人名辞典編集委員会編『戦国人名辞典』(2006年1月 吉川弘文館)
- 渡邊大門『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(2013年8月 KADOKAWA)
- 呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(2025年11月 幻冬舎)
- 『事典にのらない戦国武将の死の瞬間』(2006年3月 新人物往来社)
- 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(2019年11月 KADOKAWA)





