豊臣秀吉改姓イメージイラスト

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豊臣家

なぜ秀吉は豊臣姓に変えたのか?「羽柴」も生涯名乗り続けた理由

大河ドラマ『豊臣兄弟』第38回で秀吉が豊臣姓へ改姓しました。

天下人となったから羽柴から豊臣へと変えたのだ――秀吉の“改姓”と言えばそんなイメージがありますが、正解とは言い切れません。

なぜなら秀吉の名字は死ぬまで「羽柴」のままであり、氏が藤原から豊臣に変わったのです。

いったいナンノコッチャ?と思われるかもしれませんが、当時の名前は現代とは違う決まりがあり、秀吉は羽柴であると同時に豊臣でした。

では、なぜ改姓などしたのか?

数多の疑問が湧いてくる「豊臣姓」について、秀吉の狙いなども含めて振り返ってみましょう。

豊臣秀吉改姓イメージイラスト

豊臣秀吉改姓イメージイラスト

※厳密には「改氏」となりますが、慣用で「改姓」「豊臣姓」と呼ばれるため、本記事でもタイトルなどはそれに従います。

 


「羽柴」から「豊臣」ではない

現代の名前は名字+名前からできています。

羽柴(名字)
秀吉(名前)

当時はそれに加えて、氏族を表す氏(うじ)と、朝廷が定めた序列である姓(かばね)がありました。

つまり当時の秀吉の名と言えば

羽柴(名字)
豊臣(氏)
朝臣(姓・かばね)
秀吉(名前)

という組み合わせであり、並べると

羽柴豊臣朝臣秀吉

となります。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

朝臣(あそん)は、古代に定められた姓(かばね)の一つであり、この形が秀吉の正式な名乗りでした。

秀吉だけではわかりづらいので、他の例も見てみましょう。

 

氏と名字はまったく別だった

朝廷が認定していた氏族(氏)は、主なところで

藤原氏
源氏
平氏
橘氏

などがあり、上記の4つは源平藤橘(げんぺいとうきつ)などとも呼ばれます。

最もよく知られたのが藤原氏、あるいは天皇の子孫から臣籍降下して臣下となった源氏や平氏も同等に知られていますね。

その中からわかりやすい事例を見ていきましょう。

例えば源頼朝と足利尊氏です。

源頼朝・足利直義の肖像画

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikimedia commons

源頼朝はそのまま氏(源)と名前(頼朝)で呼ばれますが、足利尊氏は、頼朝と同じ清和源氏の流れをくむのに「源尊氏」と呼ばれませんよね。

足利氏は下野国(栃木県)の足利荘に由来する「足利」を名字としており、

足利(名字)
源(氏)
朝臣(姓・かばね)
尊氏(名前)

となるからです。

正式名称は「足利源朝臣尊氏」となります。

この法則でいくと、織田信長は氏を平氏としておりますので

織田(名字)
平(氏)
朝臣(姓・かばね)
信長(名前)

となります。

正式名称は「織田平朝臣信長」です。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

氏は朝廷から官位の任命書などに記される公式の名乗りであり、江戸時代まで名字との区別が厳然としていました。

しかし、幕末頃になると両者の区別が薄れ、明治時代に同一化されたことで氏は一気に消えてしまった。

いま私たちが当たり前に使っている「名字」という言葉には、かつての氏と名字が溶け込んでいるわけです。

だからややこしい。

秀吉の改姓を誤解してしまう原因もこのためでしょう。

秀吉も「羽柴」は死ぬまで使っていたと、大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者・黒田基樹氏の著書『羽柴を名乗った人々』でも記されています。

では、秀長や秀次は?

実は豊臣秀長や豊臣秀次ではないのか?

 


秀吉の名字は死ぬまで「羽柴」だった

秀吉の弟である秀長や、後継者である秀次や秀頼も同様。

羽柴豊臣朝臣秀長が正式名称であり、羽柴豊臣朝臣秀次、あるいは羽柴豊臣朝臣秀頼となります。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

もっとも秀吉は関白に任官したあと、あまりにも高い身分になってしまったため、実際に名字を名乗る場面がなくなってしまいます。

秀次も関白となり、秀頼も秀吉の後継者として別格の立場に置かれたため、やはり名字を名乗る場面は減りました。

ただし、名乗らなくなっただけの話で、名字の羽柴を捨てたわけではありません。

だったら徳川家康はどうなの?

そんなツッコミもあるかもしれません。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikimedia commons

豊臣秀吉、豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀頼……というように彼らは「豊臣」のイメージが強い。

しかし徳川将軍家は、そのまま徳川家康、徳川秀忠、徳川家光と続いていく。

徳川将軍家に「氏」がないわけではありません。

徳川将軍家の氏は源、名字は徳川です。

家康は公的な場で「源朝臣家康」と名乗りましたが、一般には名字と名前を組み合わせた「徳川家康」と呼ばれています。

むしろ、妙なのは「豊臣」を呼び名に使われている羽柴一族であり、徳川家と同じく名字と名前でそろえるなら、「羽柴秀吉、羽柴秀長……」と記すことになります。

それにしてもです。

単なる呼び名だけの話であれば、なぜ秀吉はわざわざ「豊臣姓」などを新しく作り、それを名乗ったのか?

 

変わったのは「藤原」からだった

答えは藤原姓が邪魔だったからでしょう。

そもそも秀吉は官位を得るにあたって、最初は平姓を名乗っていました。

当時存命だった主君の織田信長に合わせたのでは?と考えられています。

しかしその後、関白になるため近衛前久(このえ さきひさ)の猶子(ゆうし)となり、このとき藤原姓となりました。

近衛前久の肖像

近衛前久『贈答百人一首』/wikipediaより引用

つまり当時の正式名称は「羽柴藤原朝臣秀吉」となり、ドラマでも取り上げられていましたね。

秀吉は天正十三年(1585年)7月11日に藤原氏として関白へ任官し、その後、同年9月9日に新たな氏「豊臣」の使用を許されました。

柴裕之氏の『図説 豊臣秀吉』でも、関白任官のあとに朝廷へ願い出て改めたと説明されています。

平→藤原→豊臣と目まぐるしく変わる秀吉の氏。

一方、名字の「羽柴」は一度も変わっていません。

 

「豊臣」は秀吉だけの氏には非ず

ややこしいことに豊臣姓は、秀吉一人のものではありません。

家臣や大名たちに、どんどん与えられたのです。

それが端的にわかるのが、天正十六年(1588年)4月、後陽成天皇が聚楽第へ行幸した際に大名たちが差し出した起請文です。

以下のようにズラリと「豊臣姓」の大名たちが並びます。

◆聚楽第行幸の起請文

・権大納言豊臣秀長……羽柴秀長

・権中納言豊臣秀次……羽柴秀次

・参議左近衛中将豊臣秀家……宇喜多秀家

・右近衛権少将豊臣利家……前田利家

・丹後侍従豊臣忠興……細川忠興

・松島侍従豊臣氏郷……蒲生氏郷

・岐阜侍従豊臣照政……池田照政(のちの輝政)

・源五侍従豊臣長益……織田長益

・豊後侍従豊臣義統……大友義統

・三河少将豊臣秀康……結城秀康

前田利家も、細川忠興も、蒲生氏郷も、池田照政(のちの輝政)も、信長の弟である織田長益(織田有楽斎)までもが、公文書の上では「豊臣」とされました。

織田有楽斎の肖像画

織田有楽斎/wikipediaより引用

ちなみに徳川家康はこの顔ぶれに入っておらず、織田信雄らとともに「大納言源家康」と署名しています。

この時点で家康はすでに秀吉へ臣従していましたが、豊臣は名乗っていません。すべての大名が豊臣氏に統一されたわけではなかったのです。

ではなぜ、こんなことが起きたのか。

 

豊臣氏を率いる立場となる秀吉

羽柴政権では、秀吉が多くの大名の官位叙任を朝廷へ取り次ぎ、その際に豊臣氏を与えるケースが広がります。

秀吉は実質的に豊臣氏の氏長者(うじのちょうじゃ)として、各大名を豊臣氏の一員に組み込み、官位叙任を朝廷へ取り次いだのです。

秀吉の取り次ぎで官位を得た多くの大名は、豊臣氏の一員という立場で叙任となりました。

新しい氏を作った理由は、まさにそこでしょう。

関白秀吉イメージイラスト

関白秀吉イメージイラスト

自分が頂点に立つ氏を一つ作り、そこへ大名を次々と組み込み、支配力を高めていく。

もしも藤原姓のままでは、他に五摂家という先客が居座っているため、とてもこうはいきません。

豊臣姓は、単なる秀吉の箔づけというより、大名を束ねるためのシステムでもあったんですね。

一方、名字の羽柴は特別でした。

 

「羽柴」を名乗れた人はごく一部

羽柴の名字を称するということは、秀吉の「御一家」になることを意味していました。

氏を同じくするだけの関係よりも、秀吉との繋がりは強くなる。

ゆえに旧織田家臣の有力者や、大友義統のような旧戦国大名にも羽柴の名字が与えられました。

豊臣姓は家臣の広範囲に及んでいましたが、羽柴名字を与えられた人々は、豊臣姓を与えられた人々の間でもごく一部でしかなかったのです。

大友義統の浮世絵

大友義統/wikimedia commons

豊臣姓は広く、羽柴名字は狭い。

制度上の単純な上下関係とはいえませんが、羽柴は豊臣よりも対象が限られた、特別な名乗り。

ゆえに研究者の黒田氏は同書の中で思い切った表記をしています。

学術的には定着している「豊臣政権」のことを「羽柴政権」と記し、秀吉らの名字をあくまで「羽柴」で通しているのです。

羽柴政権とは見慣れない言葉ではありますが、秀吉の名字が死ぬまで羽柴であり、豊臣はその上に乗った氏だったとすれば、たしかに筋は通っていますよね。

関白相論の混乱を突いて関白職に就いた秀吉は、武家内でそのメリットを最大に活用するため、羽柴と豊臣を用いたのです。

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豊臣姓について、まとめると以下の通りです。

◆秀吉が得た豊臣姓とは?

・「羽柴から豊臣への改姓」という理解は正しくない

・「豊臣」は氏で、「羽柴」は名字で、そもそもは別物だった

・秀吉の改姓(改氏)は「藤原」から「豊臣」である

・秀吉の名字は死ぬまで「羽柴」であり、秀長、秀次、秀頼も同じだった

・豊臣姓は大名たちにも与えられ、前田利家も細川忠興も公文書では「豊臣」

・秀吉は実質的に豊臣氏の氏長者として、多くの大名の叙任を豊臣氏で取り次いだ(家康は当初、源氏のまま)

・羽柴名字を許されたのは、豊臣姓を与えられた人のごく一部だった

大河ドラマ『豊臣兄弟』第38回でも、秀吉は「羽柴豊臣朝臣秀吉」と名乗っていました。

羽柴が名字、豊臣が氏――あの長い名乗りは、二つを正しく並べたものだったのです。

なんとなく聞き流してしまいそうな場面ですが、氏と名字が別物だった時代の作法が、きちんと残されていたわけですね。

なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』で話題になった「奈良の豪商・川窪清俊」や「筆屋の才蔵」考察記事については、以下に関連記事がございます。

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◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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