大河ドラマ『豊臣兄弟』に登場した狩野永徳(かのう えいとく)。
片岡鶴太郎さんが演じられ、いかにも鬼才を放つ戦国絵師という風貌でしたが、実のところこの永徳、ほとんど作品が残ってないのをご存知でしょうか?
劇中では『唐獅子図屏風』が完成し、秀吉を大いに喜ばせていました。
我々のような素人目にも魅力的な作品であり、他にもっと数多くの屏風や障壁画を手掛けた記録だけは残されています。
しかし、大半が消滅しているのは一体なぜなのか。

狩野永徳イメージイラスト
狩野永徳と秀吉の関わりと共に振り返ってみましょう。
永徳の確実な作品は数えるほどしかない
狩野永徳の代表作と言えば?
まず最初に思い浮かべるのが『唐獅子図屏風』(皇居三の丸尚蔵館)でしょう。

唐獅子図屏風/wikipediaより引用
眼前を二頭の獅子が優雅に歩いているかのような屏風は当時きっての迫力に満ち溢れていて、素人目にも只者ではないとわかる迫力と申しましょうか。
現存する一双のうち永徳が描いたのは右隻で、左隻は江戸時代に狩野常信が描き加えたものです。
他に、織田信長が上杉謙信へ贈ったとされる『洛中洛外図屏風』(上杉本・米沢市上杉博物館)もまた永徳筆とされます。
永禄九年(1566年)に父の狩野松栄と共に描いた大徳寺聚光院の障壁画(国宝)や、東京国立博物館の『許由巣父図』(重要文化財)、さらに『檜図屏風』(同館)も永徳作と考えられています。
一方、記録には残っているけど、現存が確認できない作品群が以下の通りです。
・安土城の障壁画(天主や江雲寺御殿など)
・『安土山図屏風』(安土城図屏風)
・『源氏物語図屏風』(信長が謙信へ贈ったもの)
・天瑞寺(秀吉が母のために建てた寺)の障壁画
・聚楽第と大坂城の絵
美術史家の宮島新一氏は著書『長谷川等伯 真にそれぞれの様を写すべし』の中で、永徳の確実な作品は等伯に比べてあまりに少ないと指摘しているほど。
いったい天下一の絵師がなぜ、ここまで失われたのか。
大きな理由は、永徳の大作が、城や御殿、寺院に組み込まれた障壁画だったからです。
安土城と一緒に焼け落ちた
狩野永徳が信長に仕えたのは、天正元年(1573年)頃からのこと。
天正四年(1576年)に安土城の築城が始まると、一門を率いて安土へ移り住んだほどでした。

織田信長/wikimedia commons
『信長公記』には、天主の座敷に永徳が墨絵の梅を描いたこと、さらに絵を描いた所にはすべて金を用いたことが記されています。
信長が家臣たちに見物を勧めたことで知られる城内の江雲寺御殿については、こう説明されています。
【意訳】座敷はすべて金で飾られ、各部屋とも永徳に命じて各地の風景を描かせてあった。山あり、海あり、田園あり、村里あり。言葉に表せないほど面白い。
出典:『信長公記』
それが天正十年(1582年)に本能寺の変が起き、安土城の中心部は火災で焼失。
天主や本丸御殿などが失われると、その後も再建されませんでした。
発掘調査では、黒金門より内側の主要部が焼け、山麓などは被害を受けていないことが分かっています。
しかし、天主の座敷を飾った永徳の絵は、まさにその中心部にあったため、建物の一部であった絵も共に消えてしまったのです。
では、持ち運び可能な屏風は?
信長が贈った屏風は?
狩野永徳と言えば『唐獅子図屏風』ですが、他にも屏風はあったのでは?と思いますよね。
実際、天正八年(1580年)、信長は完成した安土城と城下の様子を屏風に描かせています。
『安土山図屏風』(安土城図屏風)です。
作者については永徳説と、父の狩野松栄説がありますが、ローマのバチカンまで送り届けられ、現在では行方不明となっています。
信長が上杉謙信に『洛中洛外図屏風』を贈ったとき、共に贈っていた『源氏物語図屏風』も現存しません。
何処へ消えてしまったのか……。

洛中洛外図屏風右/wikimedia commons

洛中洛外図屏風左/wikimedia commons
残った作品には、ある共通点があります。
『洛中洛外図屏風』は上杉家で、『唐獅子図屏風』は毛利家で、いずれも他家の大名家であり、中央での戦火を免れた格好です。
『唐獅子図屏風』は、秀吉が毛利氏との講和の際に贈ったのでは?とも考えられていますが、文化庁では「近代の口伝の域を出ない」としています。
いずれにせよ、どちらも城に据え付けられた絵とは明暗が分かれ、他家へ伝わったことが幸いしたのかもしれません。
秀吉の大量注文が、永徳の画風を変えた
織田信長が没すると、狩野家は迷うことなく秀吉に近づきました。
永徳の弟・宗秀は、本能寺の変以前の天正十年(1582年)1月、すでに秀吉の姫路城へ下っています。

絵・富永商太
秀吉は普請好きで有名。
御殿や寺院が建つたびに、膨大な襖絵や壁画が必要になります。
永徳たち狩野派は多くの弟子を抱え、天下人からの注文に応じていましたが、それでも手が回らなかったのでしょう。
膨大な依頼をこなすため、永徳は画風を変えたと考えられています。
細密に描き込むやり方ではとても注文に間に合いませんので、次第に雄大な画風となり、悪く言えば粗放な描写へ変わっていったというのです。
その典型例が『唐獅子図屏風』や『檜図屏風』でした。
豪快な大画面になっていったのは、作風の影響だけでなく、天下人の注文に応えなければならない、という現実的な必要性からだったのでしょう。
しかし、そうして永徳が筆を振るった秀吉の建物も、結局は長く残りませんでした。
秀吉の建物は次々と消えた
天正十六年(1588年)、秀吉は母のため大徳寺内に天瑞寺を創建します。
禅寺の襖絵に金碧画を描いた最初の例とされ、障壁画は永徳が担当しました。
しかし、天瑞寺は明治時代の初めに廃寺となり、障壁画も失われています。
聚楽第の運命はもっと劇的でした。
文禄四年(1595年)7月に豊臣秀次が切腹すると、秀吉は聚楽第の破却を命じます。

豊臣秀次/wikimedia commons
発掘調査では、堀まで完全に埋められていたことが判明しており、もちろん障壁画も現存していません。
大坂城は、慶長二十年(1615年)5月「大坂の陣」で落城。
永徳は天正十八年(1590年)9月に世を去っていたため、終わりを見ることはありませんでした。
最晩年にも、永徳が仕事を守ろうとする姿は記録に残されています。
公家・勧修寺晴豊の日記『晴豊記』によると、同年8月、御所の仕事を長谷川等伯に任せるという話が持ち上がったとき、永徳親子から取りやめるよう申し入れたとされます。
永徳は最後まで、自分の仕事を守ろうとしていたんですね。
東福寺法堂の龍の天井画は、永徳が修復を依頼されながら急死したため、狩野山楽が新たに描いたと東福寺では説明しています。
永徳の絵は、建物と運命を共にした
狩野永徳は現存作品が少ない――。
それは他の絵師と比べて才能がないわけでも、評価が低かったからでもありません。
信長と秀吉という天下人の城や御殿、寺院を飾った絵だったからこそ、建物と運命を共にしたのです。
安土城は焼け、聚楽第は壊され、大坂城は落ちました。
一方、毛利家へ伝わった『唐獅子図屏風』が、永徳の大作として今に残っているのは、皮肉な話かもしれません。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも話題になった秀吉の「豊臣姓」への改姓は以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 宮島新一『長谷川等伯 真にそれぞれの様を写すべし』(2003年11月 ミネルヴァ書房)
- 千田嘉博『信長の城』(2013年1月 岩波書店)
- 小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』(2002年3月 PHP研究所)
- 太田牛一/中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)



