豊臣秀長と慶の一人娘・末イメージイラスト

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豊臣家

実は4人いた豊臣秀長の娘は誰に嫁いだ?ドラマの「末」と史実の違い

大河ドラマ『豊臣兄弟』で池端杏慈さんが演じている秀長の娘・末(すえ)。

劇中では、羽柴秀長と正妻・慶のあいだに生まれた一人娘という設定ですが、史実ではどうだったのか?

秀長には実娘3人と養女1人がいました。

しかも、その長女の名が「末」であり、ドラマと同じ名の娘がいたのです。

では、史実の末はどんな生涯をたどったのか?

残念ながら、ドラマの一人娘とはまるで違う道をたどっているのですが、その姿を知っておくと、今後の展開を見る目も少し変わってくるかもしれません。

豊臣秀長と慶の一人娘・末イメージイラスト

豊臣秀長と慶の一人娘・末イメージイラスト

そこで本記事では、秀長の娘たちを史実面から振り返ってみましょう。

 


長女の名は「末」だった

秀長の娘は、秀吉にとって貴重な姪。

当然ながら豊臣一門や有力大名を結ぶ縁組に用いられました。

ドラマで時代考証者も務める柴裕之氏は『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、秀長の実子を一男三女とし、長女に「末」という娘がいたと記しています。

この「末」の名は、同じく時代考証者の黒田基樹氏が『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 豊臣兄弟!』の中で示しており、ドラマもここから名を取ったのでしょう。

ただし史実の末は、養子の羽柴秀保(ひでやす)に嫁ぐ予定でありながら、それが実現する前に幼くして亡くなっています。

代わって秀保の妻になったのが次女です。

そして三女のおきくは毛利秀元(もうり ひでもと)、養女の岩(いわ)は森忠政と、いずれも重要な一族と結ばれました。

森忠政は、小牧・長久手の戦いで討死した森長可の弟であり、織田政権でも重要だった森家の当主です。

三女おきくについても、毛利家のプリンスである秀元へ嫁ぐわけですが、その前に小早川秀秋と祝言を挙げていたとみられています。

この辺、中々ややこしいのですが……いずれにせよ相応の相手が選ばれています。

◆秀長の娘たちと嫁ぎ先

・長女の末……羽柴秀保に嫁ぐ予定だったが早世

・次女(名は伝わらない)……羽柴秀保

・三女のおきく(大善院殿)……小早川秀秋のちに毛利秀元

・養女の岩(智勝院殿)……森忠政

秀長と正妻の慈雲院殿(じうんいんでん)との間には、与一郎という男児もいたとされ、早くに亡くなりました。

大河ドラマ『豊臣兄弟』慶(秀長の妻・吉岡里帆さん)イメージイラスト

慶(秀長の妻・吉岡里帆さん)イメージイラスト

ドラマでは慶の連れ子という設定であり、合戦で胸に矢を受け、亡くなっていましたね。

それにしても、です。

長女の末が早世したあと、秀長は残された娘たちをどう嫁がせたのでしょう?

 

4〜5才で決まった次女の縁組

次女の縁組が決まったのは天正十九年(1591年)1月、秀長が重い病で命を落とす直前のことでした。

天正十五年(1587年)生まれの次女は、年齢がまだ4〜5才。

結婚相手は豊臣兄弟の甥で、関白・豊臣秀次の弟にあたる豊臣秀保です。

本来は長女の末が嫁ぐはずだった相手で、末が早世したため、その代わりに次女が選ばれたというわけですね。

柴氏は著書『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』では、このときの縁組が実質的な婚約にとどまり、婚儀は3年後におこなわれたとみていました。

しかしその後に出版された『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』では、このとき二人が婚姻したと見解を改めています。

秀長としては、跡を継ぐ養子で甥の秀保に実の娘を娶らせ、自分が亡きあとの大和豊臣家をより強い血縁で繋いでおきたかったのでしょう。

なお、次女の母が誰なのかは分かっていません。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

 


文禄三年の花婿は小早川秀秋だった

秀長の死から3年後の文禄三年(1594年)3月、大和郡山城で婚儀が実施。

関白の豊臣秀次と、後の小早川秀秋も訪れました。

これまでは、秀長の次女と豊臣秀保の婚儀だと見られてきました。

しかし、研究者の和田裕弘氏は著書『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』の中で、このときの花婿は小早川秀秋で、その花嫁はのちに毛利秀元へ嫁いだ秀長の娘(三女おきく)と同一人物だった可能性を指摘します。

かなり大きな見直しですよね。

小早川秀秋の肖像画

小早川秀秋/wikipediaより引用

秀秋だとする和田氏の根拠は、『多聞院日記』に祝言の主役として記されているのが「金吾」だという点でした。

【意訳】郡山で金吾殿の祝言の儀式があった。花嫁は大納言殿(秀長)の側室の娘である。

【原文】於郡山、金吾殿へ祝言ノ儀式在之、大納言殿ノソハムスメ也

出典:『多聞院日記』文禄三年3月2日条

「金吾」は小早川秀秋が幼い頃から呼ばれていた名であり、秀保が名乗った形跡はありません。

婚礼で能を演じた下間少進(しもつま しょうしん)の記録にも「大和中納言殿と丹波中納言殿と御縁辺の祝儀」、つまり「秀保の義妹にあたる秀長の娘と秀秋が縁を結ぶ」祝いのため大和へ下ったとあります(『能之留帳』)。

柴氏も『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』でこの見方を支持し、文禄三年3月の婚儀は、秀秋と三女のおきくの婚姻だったと見解を修正しました。

花嫁のおきくは、このとき数えで7才です。

しかし、です。なんともややこしいことに、この秀秋は同年11月、毛利輝元の養女と結婚しています。

そして、おきくは毛利秀元の妻へ。

・小早川秀秋は毛利輝元の養女と結婚

・当初秀秋の妻だった秀長の三女おきくは毛利秀元と結婚

なぜ、こうも複雑な経緯を辿るのか?というと、秀秋が小早川家へ養子に入るため秀吉が毛利一門に気を遣い、妻の組み合わせを入れ替えたのではないか?と推測されています。

秀秋には輝元の血縁の娘を、そして毛利秀元には秀長の娘を、という組み合わせにしたんですね。

毛利輝元の肖像画

毛利輝元/wikipediaより引用

とにかくややこしい。

いずれにせよ、秀保に嫁いだのは秀長次女、毛利秀元に嫁いだのは秀長三女のおきく、ということになります。

相手が秀元であれば、おきくにとっても悪い話ではなかったでしょう。

では、三女おきくの母は誰だったのか?

 

おきくの母は「尼を見初めた」話の女性

『多聞院日記』は、文禄三年3月の花嫁おきくを「ソハムスメ」、つまり正妻以外の女性との間に生まれた娘と記しています。

母は秋篠氏の娘で、秀長の別妻だった摂取院(せっしゅいん)です。

摂取院の正体については、江戸時代の奈良の名所案内『八重桜』に「尼だった彼女を秀長が見初めて城へ連れ帰った」という話が載っています。

しかし、これが怪しい。

彼女が出家したのは秀長が亡くなった後だという記録があり、柴氏は「尼を見初めた」という話を誤りとしています。

摂取院は秋篠家の出身とみられますが、実名は分かっていません。

 

毛利家が喜んだ「おきく」の嫁入り

毛利秀元は、毛利家当主・毛利輝元の従弟です。

当初は、子のなかった輝元の養子として、毛利本家を継ぐ予定の人物でした。

そんな秀元と秀長三女との縁談は文禄三年(1594年)に決まり、朝鮮に渡っていた秀元を迎えるため船まで遣わされたと、近衛前久の書状が伝えています。

毛利家の重臣たちにしても、この縁談は「誠に面目の至」と書き送るほど、喜んでいました(『毛利家乗』)。

毛利秀元の肖像画

毛利秀元/wikipediaより引用

実際の嫁入りは文禄四年(1595年)2月28日で、道中には藤堂高虎が供として付き添っています。

ただし、出発したのは父・秀長の家ではありません。

『北野社家日記』には「大和中納言殿よりよめ入り」とあり、すでに秀長はこの世になく、義兄・豊臣秀保の家から送り出されています。

秀吉の養女として嫁いだと記録する系譜もありますが、当時の史料では「和州大納言息女」、つまり秀長の娘としか書かれていません。

しかし、おきくの嫁入りを祝う空気は、長くは続きませんでした。

 

養女の岩は森忠政に嫁いだ

おきくの嫁入りから2か月もたたない文禄四年(1595年)4月、義兄の秀保が十津川で病に倒れて亡くなりました。

秀吉はその後、秀次の幼い子を後継に迎える構想を立てますが、同年7月の秀次事件で実現せず、秀長の家は断絶します。

豊臣秀次の肖像画

豊臣秀次/wikimedia commons

おきくの夫である毛利秀元も、輝元に実子(秀就)が生まれたことで本家を継げなくなりました。

しかも、おきくは子に恵まれないまま、慶長十四年(1609年)11月29日に22才で亡くなり、父・秀長の法名と同じ名を持つ京都・大徳寺の大光院に葬られています。

秀長の養女・岩だけは、少し事情が違いました。

岩の実母は寧々(高台院)に筆を教えた師匠とされ、岩の実父は、寧々と秀吉の縁組を浅野長勝にすすめた人物とされます。

秀吉夫婦からすれば、岩は縁結びの恩人の娘だったわけですね。

彼女は当初、秀長の嫡男・与一郎に嫁いだとみられますが、与一郎が早世したため、その後は秀長夫妻の養女として育てられました。

そして文禄三年(1594年)春、美濃金山城主の森忠政に嫁いでいます。

前述の通り、森忠政は、信長の信頼厚かった森家の跡取り。

森忠政の銅像

森忠政の銅像

岩は数えで20才のときに嫁ぎ、忠政との間で跡継ぎの忠広を含む一男三女を産んだとされます。

そして慶長十二年(1607年)5月3日、津山城で33才の生涯を閉じました。

 

秀長の娘たちまとめ

秀吉と毛利の関係に影響され、非常に複雑な立場に置かれた秀長の娘たち。

どんな生涯だったのか。最後にマトメておきましょう。

・秀長の実子は一男三女。長女の名は「末」で、秀保に嫁ぐ予定だったが早世した

・次女は天正十九年1月、数え4〜5才で秀保と婚姻した

・文禄三年3月の婚儀は、従来は秀長の娘と秀保の婚姻とされてきたが、現在は小早川秀秋と三女おきくの婚姻と見られている

・三女おきくは文禄四年2月、8才で毛利秀元へ嫁いだ

・おきくの嫁入りから2か月足らずで秀保が病死し、秀次の子を迎える構想も同年7月の秀次事件で潰え、秀長の大和豊臣家は断絶した

・養女の岩は20才で森忠政に嫁ぎ、後継ぎの森忠広を産んだ

ドラマの末は、奔放なひとり娘として描かれています。

しかし史実の末は嫁ぐ前に幼くして亡くなり、妹たちは物心がつくかつかない年に、父の死と前後して嫁ぎ先を決められ、養女の岩は数え20才で森忠政に嫁ぎました。

劇中の末は、この先どんな縁談に向き合うのでしょうか。

豊臣秀長と慶の一人娘・末イメージイラスト

豊臣秀長と慶の一人娘・末イメージイラスト

可能性としては秀保との縁談が持ち上がるようにも思えますが、今回のドラマは史実からの乖離も激しいだけに、何がどうなるか全く読めません。

なお、豊臣秀保と毛利秀元については、以下の関連記事を併せてご覧いただければ幸いです。

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◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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