天正十三年(1585年)10月8日は、伊達輝宗が落命した日。
畠山義継に拉致された輝宗を、息子の伊達政宗が家臣に命じて敵もろとも撃たせた――戦国でも指折りの壮絶な話として知られていますが、果たしてこの話はどこまで本当なのか。
いったい高田原で何が起きていたのか。
いかにも独眼竜らしいエピソードだけに、何やら怪しさも感じます。

伊達政宗/wikipediaより引用
当時を振り返ってみましょう。
義継はなぜ輝宗をさらった?
伊達輝宗が畠山義継に拉致され、天正十三年(1585年)10月8日に両者が亡くなったこと自体は、研究書でも事実として扱われています。
まずはその流れを確認しておきますと……。
そもそも二本松城主の畠山義継は伊達家に降参し、領地の大半を取り上げられたうえで、ふたたび伊達の傘下に入ったばかりの武将でした。
後世の記録によれば、天正十三年(1585年)10月8日、義継は降参の仲立ちをしてくれた輝宗に礼を言うため、宮森城(福島県二本松市)を訪れました。
事件は、その帰り際に起きます。
玄関まで見送りに出た輝宗を、義継が家臣と共に捕らえ、そのまま二本松へ連れ去ろうとしたのです。

伊達輝宗/wikipediaより引用
慌てて追いかける伊達勢は、輝宗を盾にとられているだけにおいそれとは手が出せず、両者睨み合いのまま、宮森城から約6km先の高田原(粟の須)まで進んでいきます。
そこで輝宗と義継の両名が落命しました。
輝宗は数えで42才。
礼を言いに来た義継は、なぜ急に輝宗をさらったのか?
義継の家臣がその日に耳にした噂を、対面中の義継に耳打ちしたためと伝わりますが、噂の中身は分かっていません。
政宗はその場にいたのか?
では事件のとき、肝心の伊達政宗はどこにいたのか。
よく知られた通説ならば、追いつける場所にいて、父と義継を共に射殺したことになっています。

絵・富永商太
が、政宗の腹心・伊達成実の『成実記』や、それをもとにまとめられた伊達家の記録によると、この日の政宗は鷹狩に出ていて、高田原に駆けつけたときには、すでに父は死んでいたとされます。
「父もろとも撃て!」とは命じようがありませんね。
一方、晩年の政宗の話を小姓がまとめた『木村宇右衛門覚書』では、政宗本人が「事件は自分の目の前で起きた」と語っています。
ただし、同じ覚書には、政宗が「やむなし」と答えたのを見た義継側が輝宗に斬りかかり、それを見た伊達勢が二本松勢を討ち取ったという流れで記されています。
政宗が「撃て」と命じたとは書かれていない。
整理すると、輝宗の最期には三つの話が伝わっています。
◆輝宗の最期をめぐる後世の記録
・政宗が到着する前に、輝宗と義継が共に死亡していた
・政宗が到着したあと、義継側が輝宗を刺殺した
・政宗の指示により、輝宗と義継がともに銃撃された
研究者の黒田風花氏は『戦国武将列伝1 東北編』の中で、これらはいずれも後世にまとめられた記録であり、事件の経過を直接伝える当時の史料は見つかっていないとしています。
要は、どの経過が史実なのかを決める材料はないんですね。
「我をば捨てよ」は史実なのか?
もうひとつ、よく知られた場面があります。
拉致された輝宗自身が「自分ごと義継を討て!」と叫んだという話です。

絵・富永商太
【意訳】お前たちが私をかばっているうちに、二本松領が近づいてしまう。川の向こうへ連れていかれたら、私はそのまま人質だ。私を捨てよ
出典:『木村宇右衛門覚書』
フィクションで描かれると胸を打つ場面だけに、思わず目を奪われますが、これも後世の記録に残る話です。
本当に輝宗がそう叫んだのかは、事実と確認できません。
父を失った政宗がしたこと
では伊達輝宗の射殺事件は史実なのか創作なのか。
義継が輝宗をさらい、高田原で二人とも命を落としたこと自体は、前述の通り研究上も事実として扱われています。
しかし「政宗が父を撃たせた」とまでは言い切れないどころか、撃たれたのか、はたまた斬られたのか、確かなことは分かっていません。
はっきりしているのは、事件後の政宗が少しも立ち止まらなかったことでしょう。
父の初七日が済んだ10月15日、政宗は早くも二本松城へ兵を向けています。
一方、10月21日には輝宗の側近だった遠藤基信(えんどう もとのぶ)が主君のあとを追って自害し、11月には佐竹・蘆名らの連合軍が押し寄せて、政宗は生涯最大の激戦といわれる人取橋の戦いへ突入しました。
武家同士の姻戚関係が濃い東北エリアで、激しい戦闘を繰り返していた政宗だけに、遅かれ早かれ大きなトラブルに巻き込まれる命運にあったのかもしれません。
後年、政宗は息子の伊達忠宗に向かって「家の大事の前には親をも捨てる覚悟が必要だ」と語ったとされます。
その言葉が高田原の記憶から出たものだとしても、政宗が父を撃たせた証拠にはなりません。
輝宗の首塚は、いまも福島市佐原の慈徳寺に残されています。

伊達輝宗の首塚がある慈徳寺(左の桜は同寺の有名な種まき桜)
なお伊達輝宗の生涯や人取橋の戦いについては、以下の関連記事を併せてご覧ください。
-

伊達輝宗の生涯|外交名人だった勇将はなぜ息子の政宗に射殺されたのか
続きを見る
-

人取橋の戦い1585年|伊達軍7,800vs35,000連合軍で崖っぷちに立たされた政宗
続きを見る
参考文献
- 小林清治『伊達政宗 人物叢書』(1985年 吉川弘文館・新装版)
- 佐藤憲一『伊達政宗 謎解き散歩』新人物文庫(2014年3月 KADOKAWA)
- 佐藤貴浩『「奥州の竜」伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』角川新書(2022年12月 KADOKAWA)
- 遠藤ゆり子・竹井英文編『戦国武将列伝1 東北編』(2023年4月 戎光祥出版)


