山名豊国の肖像画

山名豊国/wikimedia commons

戦国諸家

鳥取の渇え殺しの前に城を追われた山名豊国|79才まで生き延びた元城主

寛永三年(1626年)10月7日は山名豊国(やまな とよくに)の命日です。

元号からして江戸時代の人物?と思われるかもしれませんが、実は秀吉とも深い関係にある戦国武将。

「鳥取の飢え殺し」で知られる鳥取城の元城主で、秀吉に攻め込まれる前年「家臣に追い出される」という不名誉な経歴を持つ人物です。

山名氏と言えば、山名宗全に代表されるように、西国の名門武家です。

それがなぜ追放などという恥辱に遭ったのか。

城を追い出された後はどうなったのか。

山名豊国の肖像画

山名豊国/wikimedia commons

山名豊国の生涯を振り返ってみましょう。

 


応仁の乱の名門に生まれた

山名豊国を輩出した山名氏は、前述の通り、応仁の乱で西軍を率いた山名宗全の流れを汲む名門です。

豊国は天文十七年(1548年)、因幡(鳥取県東部)で生まれ、母は管領・細川高国の娘というバリバリの武家血統でした。

細川高国の肖像画

細川高国/wikipediaより引用

もっとも、当時の山名にかつての力はありません。

因幡では家臣の武田高信が台頭し、兄の山名豊数が鳥取城を奪われるなど、苦しい戦いが続いていました。

転機が訪れたのは元亀四年(1573年)の春です。

武田高信が急死すると、尼子家再興をめざす山中幸盛らが因幡に攻め込み、同年9月、高信の旧臣の寝返りで鳥取城が尼子方の手に落ち、そこへ豊国が入城したのです。

豊国は間もなく毛利家に従い、人質を差し出して傘下に入ります。

尼子の力で城に入りながら、すぐに毛利へ乗り換える――見方によっては、したたかな人物といえるかもしれませんが、すぐにまた別のピンチがやってきました。

毛利家と織田信長の対立が避けられなくなったのです。

 

秀吉・秀長軍に攻められた鳥取城

もともと仲が悪くなかった織田家と毛利家がなぜ対立したのか?

その詳細は以下の関連記事に譲りまして、

小早川隆景・毛利輝元・織田信長・吉川元春の肖像画
なぜ織田と毛利は敵対したのか?友好関係だった両者が全面戦争へ突入するまで

続きを見る

山名豊国の立場を見ますと、両家に挟まれた途端にグラグラと揺れ始めます。

毛利も怖いが織田はもっと恐ろしい。

そう考えたのか、豊国が羽柴秀吉への服属を考えていたことは、天正八年(1580年)の宇喜多直家書状から確認できます。

そして天正八年(1580年)5月、秀吉が因幡攻めに取り掛かります。

このとき別働隊を率いて但馬を平定し、そのまま鳥取城へ迫ったのが、秀吉の弟・小一郎、のちの豊臣秀長でした。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

周りの城が次々に落ち、人質を置いていた鹿野城まで開城すると、人質は秀吉の手に渡ってしまいます。

もはや抗う術はない……。

豊国は降伏して、秀吉から鳥取城を安堵されました。

 


家臣に城を追われた

これで山名豊国は安泰かと思いきや、話はここで終わりません。

秀吉は1万の援軍を送ると表明していましたが、実際には鹿野城へ亀井新十郎を置いただけで、大軍は送られませんでした。

そこへ吉川元春の軍勢が伯耆・因幡国境まで迫ります。

吉川元春の肖像画

吉川元春/wikipediaより引用

豊国はそこでどう対応したのか?

籠城で秀吉の援軍を待つことにした――そんな腹の据わった対応ができていれば情けないことにはならなかったでしょう。

家臣たちに追い出されてしまったのです。

研究者の光成準治氏は編書『戦国武将列伝9 中国編』の中で、天正八年(1580年)9月21日に家臣の中村春続や森下道誉たちが、豊国を鳥取城から追い出して毛利方についたと記しています。

豊国は、十数人の小姓だけを連れて城を出奔。

鳥取城は再び毛利方となりました。

翌年には吉川経家が入城し、羽柴軍に包囲されると、凄惨な籠城戦となったことは以下の関連記事に詳細がございます。

鳥取城の古絵図
秀吉による「鳥取の飢え殺し」とは?城内が地獄と化した鳥取城の戦い

続きを見る

同年10月、経家は城兵の命と引き換えに自刃し、城を離れた豊国はその後も生き延びました。

果たして鳥取城へ戻ったりしたのでしょうか。

 

79才まで生き延びた城主

結論から言えば、鳥取城主に戻ることはありませんでした。

山名豊国はその後、出家します。

「禅高」と名乗って秀吉の話し相手を務める「お咄衆」に加わると、文禄元年(1592年)には朝鮮出兵の拠点・名護屋にも従ったといいます。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

秀吉の死後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いで家康に従った功で、但馬の七美郡(しつみぐん)に6,700石を与えられました。

晩年の家康のもとでも、お伽衆として仕えたといいます。

そして寛永三年(1626年)10月7日、79才で亡くなりました。

一度は城を追われた豊国でしたが、七美の領地は幕末まで受け継がれ、豊国の家は山名家の本家として扱われ続けました。

家臣に城を追われながら、名門武家を残したからには、武将としてまずまず及第点なのかもしれません。

今川氏真を彷彿とさせる生き方でもあります。

なお、鳥取城の兵糧攻めや吉川経家、秀長の但馬攻めについては、以下の関連記事で詳しく扱っていますのでよろしければ併せてご覧ください。

鳥取城の古絵図
秀吉による「鳥取の飢え殺し」とは?城内が地獄と化した鳥取城の戦い

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吉川経家
吉川経家の手紙|秀吉に包囲され籠城戦の末に自害 残された子供たちへの想いとは?

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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