羽柴秀長イメージイラスト

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寺社・一揆

秀長が来る前の大和は誰が支配者だったのか|興福寺が実質守護だった?

大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目されている羽柴秀長の大和入り。

興福寺が庶民を搾取する悪者のように描かれていますが、実際のところ秀長が来る以前の大和は誰が治めていたのでしょう?

例えば秀長以前の大和と言えば松永久秀を思い浮かべます。

筒井順慶と激しい抗争を繰り広げていましたが、あのときは誰が支配者だったのか。

竹中直人さん演じる松永久秀の自爆シーンイメージ

松永久秀と信貴山城炎上のイメージ

ドラマでは興福寺が最大の権力者であるかのように描かれていますが、あの表現はどこまでリアリティがあるのか。

武家と寺院勢力の関係がいまいちわからない。

大和支配者の系譜を史実面から振り返ってみましょう。

 


中世大和に守護は置かれず

中世の大和はやはり特殊と言えます。

他国のように「守護」が置かれなかったからです。

守護とは国内の有力武家が任命されるものであり、例えば室町時代初期に「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれた山名氏が有名ですね。

日本全国約66か国のうち11〜12か国(6分の1)の守護に任ぜられたためそう呼ばれ、他にも有名どころでは後に戦国大名となった今川氏や武田氏などがいます。

織田信長のいた尾張では斯波氏が守護であり、織田氏は現地で守護の実務を支える守護代の家でした。

では、大和に守護がいなくて問題はなかったのか?

というと、やはりそこは必要だったのでしょう。

研究者の金松誠氏は著書『筒井順慶』の中で、大和で実質的に権限を行使していたのは奈良の興福寺だったと指摘しています。

興福寺

興福寺

藤原氏の氏寺として大きな力を持っていた興福寺は、大和の有力な武士たちを「衆徒(しゅと)」として配下に組み込んでいました。

筒井氏も、元々はその衆徒の一つ。

衆徒の代表20人でつくる「官符衆徒(かんぷしゅと)」の座にいて、大和郡山市にある筒井城を拠点に、大和北部の武士たちをまとめていました。

つまり興福寺が守護権限を担い、その配下に組み込まれた武士たちが勢力をふるう――それが中世大和の大きな特徴だったのです。

 

松永久秀が大和へ侵攻した

興福寺が君臨する大和の国。

この特殊エリアに外部の武家が初めて侵攻したのが松永久秀……ではありません。

明応末から永正初年にかけて細川政元の家臣・赤沢朝経と長経が侵攻し、天文期には木沢長政が軍事的な支配を進めました。

一方、筒井順慶の父・筒井順昭も有力国衆を降し、大和の国中と東山内周辺を実質的にまとめています。

本格的な戦乱期に突入し、もはや寺院の武力だけでは治めきれない。

他国からの侵攻にも対抗できない。

そんな状況になっていた永禄二年(1559年)8月、三好長慶を背後に大和へ攻め込んできたのが松永久秀でした。

松永久秀の肖像画(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons

筒井城を落とした久秀は、やがて大和をほぼ手中に収めます。

大和と河内の境にそびえる信貴山城を居城とし、永禄四年(1561年)には奈良の中心に多聞山城も築き、本格的な大和支配に乗り出しました。

大河ドラマ『豊臣兄弟』にせよ『麒麟がくる』にせよ、松永久秀が大和に対して尋常ならざる執着心を見せていましたが、それだけ特殊なエリアだったんですね。

むろん、筒井順慶とて故郷である地を簡単に手放すわけにはいかない。

両者の間では、互いに一歩も引けない戦いが続きました。

しかし永禄十一年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀は三好義継らと共に織田家に従い、義昭から大和の支配を認められます。

筒井勢はそれでも一歩も引かず、松永勢と抗争を続けたため、国全体は一向に安定せず。

その間に権力を急拡大させていた信長は天正三年(1575年)3月、ついに決断します。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

 


「先代未聞」と嘆いた興福寺

織田信長は家臣の塙直政(ばん なおまさ)に大和の支配を任せることにしました。

これを伝え聞いた興福寺の僧は、日記にこう書き残しています。

【意訳】塙九郎左衛門尉(直政)がこの国の守護に定められたという。前代未聞のことだ。国はもちろん、寺社も滅びてしまうに違いない

【原文】先代未聞ノ儀、惣ハ一国、別ハ寺社滅亡

出典:『多聞院日記』天正三年3月25日条

中世を通じて守護のいなかった大和に、とうとう「守護」がやって来た。

実質的に守護権限を担ってきた興福寺にとっては、大きな衝撃だったでしょう。

翌天正四年(1576年)、直政は石山本願寺との戦いで討死してしまいます。

ここへ来て信長も、大和の支配には特別なはからいが必要だと感じたのか、次に任せたのは、あろうことか筒井順慶でした。

筒井順慶の肖像画

筒井順慶/wikimedia commons

順慶が選ばれた背景には、大和国衆の筆頭格として現地に精通していたことや、織田家臣としての働きがあったと考えられます。

一方、順慶に大和支配を任せたことで、長年対立してきた松永父子の立場は後退しました。

そして翌天正五年(1577年)、久秀は再び信長に背くことになります。

 

筒井家は伊賀へ移された

天正五年(1577年)、再び信長に背いた久秀は信貴山城で自害に追い込まれ、貴重な茶器も共に消えてしまったとされます。

ついに宿敵を排除した筒井順慶。

天正八年(1580年)、大和の城をほとんど壊す「一国破城」を経て郡山城を与えられ、名実ともに大和をまとめる立場となりました。

しかし喜びも束の間、天正十二年(1584年)8月に36才で病死を迎えてしまうのです。

筒井家にとっては最悪のタイミングでした。

前年に柴田勝家を倒して天下人へとまっしぐらの秀吉には誰も逆らえず、大和を出ていけと言われたら、抵抗活動などは一切できず、命令を全て呑み込むしかない。

結果、順慶の跡を継いだ筒井定次は、翌天正十三年(1585年)閏8月、秀吉の命で大和から伊賀へと移されてしまいました。

筒井定次の挿絵

筒井定次『義烈百人一首』/wikimedia commons

大和の領国を失った定次は、伊賀で秀長の麾下に置かれました。

『多聞院日記』の著者である英俊は「大和の国衆は一人残らず、国中から追い出されてしまった」と書き留めています。

むろん、すべての国衆が大和を離れたわけではありません。

研究者の和田裕弘氏によると、筒井配下の多くが定次と共に伊賀へ移り、箸尾・十市・窪田氏らの一族は大和に残って秀長に仕えたとみられます。

 

なぜ秀吉は秀長に大和を任せたのか

そもそも秀吉はなぜ弟の羽柴秀長に大和の支配を任せたのか。

ポイントは、大坂を中心とする畿内支配の再編でした。

金松誠氏によれば、秀吉は大坂周辺を羽柴一門と近臣で固める方針を取り、筒井氏と興福寺・大和国衆の結び付きを断って、豊臣政権の領国に再編しようとしたとみられます。

そこで大和と紀伊を最も信頼する弟の秀長に任せ、伊賀へ移した定次も秀長の麾下に置きました。

豊臣秀吉(左)と豊臣秀長の肖像画

豊臣秀吉(左)と豊臣秀長/wikipediaより引用

秀長と興福寺が衝突する構図には史実上の背景がありますが、興福寺だけを一方的な悪役とみなすと、武家・寺社・国衆が重なり合った大和の実態を見失います。

なお、筒井順慶や筒井定次、松永久秀については、以下の関連記事をよろしければ併せてご覧ください。

筒井定次の挿絵
秀吉に大和を追われ徳川に切腹させられた筒井定次|東軍についたのになぜ?

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筒井順慶の生涯|松永と戦い秀吉と光秀に挟まれた大和の戦国武将

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なぜ筒井順慶と松永久秀は激しく対立したのか?大和支配をめぐる宿敵の二人

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◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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