永禄十二年(1569年)10月6日は、三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)が起きた日です。
小田原城を囲んだ武田信玄が、撤退と見せかけて北条軍をおびき出し、山岳戦で鮮やかに叩きのめす――。
信玄の戦上手を示し、後の三方ヶ原につながる戦法だとも語られたりしますが、果たしてそれは本当なのか。
実際の信玄は帰国の途についており、三増峠で待ち構えたのは北条軍だったという指摘があります。
いったい現地では何が起きていたのか。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
三増峠の戦いを振り返ってみましょう。
小田原城での攻城戦は2日間だった
武田信玄は本気で北条氏康と戦うつもりだったのか?
三増峠の戦いが起きる前、武田軍は小田原城を包囲していました。
言うまでもなく北条の本拠地であり、上杉謙信が取り囲んで撤退したこともある、関東きっての堅城です。
その小田原城包囲について、研究者の村田精悦氏は『戦国史研究 86』の中で、小山田信茂の願文と諏訪神社の棟札を手がかりに、武田軍の行程を以下のように記しています。
◆武田軍の小田原攻め日程
・9月29日〜10月3日……包囲5日間
・10月1日〜2日……攻城戦2日間
・10月4日……包囲を解いて撤退
攻城戦はたったの2日です。
北条氏康が徹底した籠城策をとったため、

北条氏康/wikimedia commons
信玄は4日に攻囲網を解いて帰ることに決めました――研究者の柴辻俊六氏も著書『武田信玄合戦録』の中でそう説明していますが、武田軍があまりにもヤル気がありませんよね。
いったい信玄は何しにきたのでしょうか?
狙いは城ではなく越相同盟だった?
注目すべきは、小田原までの武田軍の進軍状況です。
甲府を発した武田軍は、まず上野(群馬県)方面に出ると、ある強烈な意図を持って北条方の支城を取り囲みながら、小田原城へ向かって南下しています。
※左の赤い拠点が躑躅ヶ崎館(武田)で、黄色が北条方の各支城と小田原城(一番下)
北条方の各支城は、小田原城から北へ連なるように並び、信玄にとって無視できない共通点がありました。
北条と上杉の間で結ばれようとしていた越相同盟(えっそうどうめい)に関わる城だったのです。
・御嶽城(みたけじょう)
・鉢形城……北条氏邦の居城→同盟交渉の担当者
・金山城……由良成繁の城→北条方の取次
・松山城……太田資正父子の旧領
・滝山城……北条氏照の居城→同盟交渉の担当者
・小田原城……北条氏康・氏政父子の居城
御嶽城は境目(国境付近)の城であり、残る5つはいずれも交渉の当事者か、その縁の土地。
果たして信玄が、偶然そんな攻め方をするでしょうか?
本気で攻める気ないやろ?
さすがにこの並びは偶然ではありませんね。
武田にとっては長年の宿敵である上杉と、甲相駿三国同盟が崩れて不仲になった北条が、大国同士で手を組もうとしたわけです。
そもそもは信玄が駿河侵攻を強行して北条氏康を激怒させたのがいけないのですが、ともかく北条と上杉に手を組まれでもしたら、武田にとっては挟撃リスクが凄まじいことになる。

上杉謙信/wikimedia commons
そこで、同盟の交渉に関わった北条方の城を片端から叩いて回り、同盟への異議と威嚇を突きつけたのだろう、と研究者の村田氏も見ています。
信玄は、進軍の仕方も徹底していました。
例えば北条氏照の滝山城。
攻めたのは9月23日と24日の2日間だけで、3日目の25日夜にはもう離れており、『甲陽軍鑑』が合戦記として膨らませた可能性が指摘されるほど実際の滞在が短い。
さらには相模川の渡河には丸一日を費やすなど、北条領の中心部へ踏み込むことに慎重で、どの城も1日か2日の焼き働きで通り過ぎています。
本気で攻める気がないんですよね。
やはり北条と上杉の同盟に警告を発するのが目的だったのでしょうか。
武田軍は、8月24日の出陣から10月7日の帰国まで実に43日間、城を落とした形跡がまるでありませんでした。
だからこそ気になってくるのが「三増峠の戦い」です。
こんな状況で、果たして信玄は、本当に北条軍を待ち構えていたのでしょうか?
信玄は本当に帰るところだった
武田軍は、少なくとも三増峠で北条軍との決戦を予定していなかった可能性があります。
その根拠となるのが「諏訪神社棟札銘写」です。
【意訳】
5日は大神に宿陣し、6日には都留郡(つるごおり)へ旗を納める予定であった。
ところが帰り道を妨げようと、北条氏照・氏邦らが津久井衆や大道寺と相談し、小田原と示し合わせて数万の軍勢を三増峠に差し向け、先鋒を配して、今か今かと待ち構えていたという
出典:「諏訪神社棟札銘写」
信玄は6日に甲斐へ帰り着く予定でした。
撤退を装って北条を安堵させてから襲撃しようとか、そういった話ではなく、本当に帰るための日程であり、待ち構えていたのはむしろ北条軍だったのです。

確かに『甲陽軍鑑』では、武田信玄が最初から三増峠の戦いを想定していたような描かれ方になっています。
「誘い出して叩く」という筋立てもそこから来たのでしょう。
しかし、北条軍が三増峠へ出て来なければ、そもそも合戦は起きません。
村田氏は、三増峠での野戦という形を選んだのは北条軍だったと見ています。
研究者の平山優氏も著書『武田信玄』の中で、北条氏照や北条氏邦をはじめとする関東の諸将が三増峠に集結して武田軍を待ち伏せていたという見解を記しています。
北条の先衆は4日以前から各支城を出て三増峠へ集合していました。
北条氏政は間に合わなかった
それでも北条側の布陣は、万全どころではありませんでした。
北条氏政が小田原城を出陣したのは5日で、武田軍が平塚市域から動き出したのと同日ですから、行程が丸一日ぶん遅れていた。
迎えた6日の早朝、その氏政の到着を待たないまま、先衆の混乱から合戦が始まってしまうのです。

北条氏政/wikimedia commons
武田方は小荷駄隊を切り捨てて後退。
かなり激しい戦いになりますが、信玄の用兵に翻弄された北条の先衆が敗走したため、結局、氏政の本隊はこの合戦に間に合いませんでした。
武田と北条という強者同士の戦いにしては、なんだか常にチグハグした展開です。
とても信玄が仕組んだ山岳戦とは思えないでしょう。
要するに、三増峠の戦いとは、北条方が待ち構えた場所で、氏政本隊の到着前に始まってしまった――なんだかドタバタな合戦というほうが実態に近いのかもしれません。
通説では、武田の一方的な勝利とされてきましたが決して無傷ではなく、浅利信種(あさり のぶたね)が討死しています。
浅利信種は譜代家老の一人であり、上野の箕輪城(みのわじょう)を拠点として、箕輪領の支配を担っていた人物でした。
信種が討たれたあとは、同じく譜代家老の内藤昌秀が箕輪領を引き継ぎました。
武田軍は、西上野支配の拠点を任せていた重臣を帰り道で失ったのです。
一方的な勝利と呼ぶには、代償が小さくありません。
首実検は戦場の外でおこなわれた
もうひとつ、奇妙な点を挙げておきましょう。
合戦が起きた6日夜、武田軍は道志川を越えた「そりばたけ」(相模原市の若柳・反畑)まで下がり、首実検をおこなって夜営しました。
なぜ戦場で首実検をしなかったのか。
村田氏はこの動きから、武田軍には北条勢を徹底的に撃滅する意図がなく、帰国を優先した可能性を指摘しています。
確かに武田軍は北条の先衆を撃破しましたが、戦場には留まらず、道志川を越えて甲斐方面へ向かいました。
北条は城も領土も失っていない
北条側はどうなったのか。
北条氏政はその後、滝山城や津久井城に手を入れ、11月6日に小田原へ戻るまで、およそ1か月にわたって甲斐・武蔵・相模の国境周辺に滞在し続けています。
それだけ信玄のことを警戒していたのでしょう。
結果として北条軍は三増峠で先衆を破られたものの、城も領土も失わず、武田軍を相模から退去させました。
村田氏はこの点から、三増峠の戦いを単純な武田方の勝利とする評価には再検討が必要だと指摘しています。
実際の信玄は10月7日、甲斐上野原へ到着。
このとき上野原の諏訪神社が「薪が足りなかったから」という理由で将兵に壊されるという事件が起きました。
なぜそんなことがわかるのか?
というと、後に建て直しされたときの棟札(むなふだ・建物の造営や修理の由来、年月などを記した札)が残っていて、その記述が三増峠の戦いの史料にもなっているのです。
『甲陽軍鑑』では描ききれない、生々しい歴史がそこにはあったのでした。
なお、信玄が小田原城を包囲した詳細については、以下の関連記事を併せてご覧ください。
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参考文献
- 戦国史研究会編『戦国史研究 86』(2023年11月 吉川弘文館)所収 村田精悦「武田信玄の小田原城攻め―その行程について」
- 平山優『武田信玄』歴史文化ライブラリー221(2006年12月 吉川弘文館。2021年11月オンデマンド版)
- 柴辻俊六『武田信玄合戦録』角川選書403(2006年10月 角川書店)


