川窪清俊イメージイラスト

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豊臣兄弟感想あらすじ

奈良の豪商・川窪清俊や筆屋の才蔵は実在した?豊臣兄弟第38回史実解説

大河ドラマ『豊臣兄弟』第38回で、羽柴秀長のことを正面から小馬鹿にする商人が登場しました。

カトウシンスケさんが演じる奈良の豪商・川窪清俊(かわくぼきよとし)です。

「大和に国主などおりませぬ!」

そんな刺激的なセリフに続いて、この国を動かしているのは我ら商人だと言い放ち、郡山の城下へ来てくれという秀長の求めを鼻であしらっていましたね。

川窪清俊イメージイラスト

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秀吉の弟にして、すでに相当な権力者である秀長までもこき下ろす。

果たして、あのような商人が実在したのか。

大和を動かしていたという話は、どこまで本当なのか?

大河ドラマ『豊臣兄弟』の第38回史実解説は、秀長と奈良商人に注目してみたいと思います。

【三行あらすじ】

大和郡山城の整備を進める羽柴秀長の次なる課題は、郡山城下町の整備であった。

そこで奈良の商人を郡山へ移動させる計画を進めるが、猛反発を受けて話は進まず、筆屋の才蔵に全てを託す秀長。

才蔵は狩野永徳に気に入られた筆を作り上げ、その商売繁盛を機に、郡山の城下町は急速に発展していく。

 


川窪清俊は実在したのか?

そもそも川窪清俊という商人は実在するのか?

残念ながら、手元の複数書籍を確認しても、それらしき人物の名は見当たりません。

『豊臣兄弟』公式サイトでも「奈良の豪商」とだけ紹介されており、現時点ではモデルとなった特定の商人を確認できない。

前回放送で話題になった興福寺の僧侶・磐覚も完全な創作キャラと思われますが、

磐覚イメージイラスト
秀長を脅す興福寺の僧侶・磐覚は実在したのか?豊臣兄弟第37回史実解説

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彼と同じく「大和で秀長に対抗する旧勢力の代表」として配置された人物なのでしょう。

では史実における奈良商人は、秀長とどんな関係だったのか。

あのように天下人の弟を鼻であしらうような強大な権力の持ち主だったのでしょうか?

 

座の背後には「本所」がいた

ドラマで注目されたのは、やはり「座」ですね。

劇中では、あたかも新参者を締め出す同業者組合のように描かれ、商人たちが自力で築きあげた砦のように見えました。

しかし中世の商人が、すべて権力から独立して活動していたわけではありません。

研究者の川戸貴史氏は著書『商人の戦国時代』の中で、中世商人の典型的な出自として、権門神社に仕える「神人」と呼ばれた人々を挙げています。

◆中世商人

・神人(じにん)……有力神社に仕える代わりに、営業の特権を認められた者

・供御人(くごにん)……朝廷へ食料などを納める代わりに、特権を得た者

市や座には「本所(ほんじょ)」として利権を束ねる領主がいるのが一般的で、商人は権益を守ってもらう見返りに定期的な上納を求められました。

現代風にいえば「みかじめ料」のようなものであり、領主たちにとっては重要な資金源。

つまり「座」とは、商人が自力で築いた砦ではなく、寺社や公家に守ってもらう代わりに、その寺社や公家へ金を納める仕組みだったのです。

そして奈良の商業を支配した本所の代表格が、興福寺でした。

興福寺五重塔

興福寺五重塔

では実際に興福寺の下で、誰が商いを握っていたのか?

 


奈良の塩を握っていたのは奈良の商人ではない

例えば奈良における塩の売買は、興福寺の庇護下にあった山城国木津(現在の京都府木津川市)の商人などが特権を有していました。

木津は、木津川から荷揚げした物資が奈良へ入る川港として発達した、材木の集散地。

いわば奈良の外港にあたる土地です。

生活に欠かせない塩の特権は、奈良の町人ではなく、川を下ってきた外の商人が持っていたのですね。

物流の入口も同様でした。

畿内の海の玄関だった兵庫津には関が二つ置かれており、北関は東大寺領、南関は興福寺領だったのです。

東大寺大仏殿

東大寺大仏殿

この点からも、大和を動かしていたのは商人ではなく、商人の上にいた寺だとわかりますね。

では、こうした旧勢力に対して羽柴秀長はどう対処したのか?

 

奈良中の商売を止めて郡山へ集めた

ドラマの秀長は、奈良の商いを握る座を崩し、郡山に新しい町を開こうと動いていました。

これは史実です。

順を追って見ていきますと、大和へ入った直後の天正十三年(1585年)10月14日、秀長は奈良での商売を止め、売買を郡山へ集めようとしました。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

ドラマの時代考証者でもある黒田基樹氏の著書『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長』でも、奈良の政治・経済機能を本拠の郡山へ移す政策であったと説明しています。

【意訳】奈良では一切の商売を止めよ

【原文】ナラ中ハ一切ノ万ノ商売被止之

出典:『多聞院日記』天正十三年十月十五日条

同書では、味噌・酒・柴木・菜・海苔といった生活必需品まで対象になったと指摘。

しかも河内将芳氏の著書『図説 豊臣秀長』によると、商品だけではなく「質の取り遣り」、つまり銭の貸し借りまで止められたのだとか。

買い物をしたければ郡山まで来い、という話ですね。

ちなみに「海苔」については「ノリ」と表記されていて、「海苔」なのか「糊」なのか判断がつかないとしています。

禁令は一度では終わりません。

天正十五年(1587年)8月21日には味噌・酒・材木の商売があらためて禁じられ、9月9日にも繰り返し命令されています。

何度も命令がだされたことから、郡山で商売を限定する政策は容易に守られず、最終的に実現したかどうかも確認できないとされています。

命令を出せば人と商売が一斉に動くほど、単純な話ではなかったのです。

そこで秀長は、奈良の商売を止めてから約1年3か月後、さらに踏み込みました。

 

秀長は本当に座を壊した

秀長は天正十五年(1587年)1月16日、奈良と郡山で諸公事(しょくじ)の座を廃止しました。

いわゆる「楽座」ですね。

ところが同年4月1日、鉄・魚・塩を別扱いとする命令が出されています。

この記録をどう読むか――。

黒田氏の解釈では、復活したのは鉄・魚・塩の座だけであり、内陸の大和では確保しにくい三品目を、安定して供給するためだったと指摘しています。

これに対して、河内将芳氏の見解は異なり、鉄・魚・塩以外の座が復活し、三品目については奈良での座を認めなかったとしています。

同じ『多聞院日記』の記事でも、研究者によって解釈が分かれているのです。

確実に言えるのは、1月に座を全面的に廃止したあと、わずか三か月足らずで鉄・魚・塩を別扱いとする修正が加えられたことでしょう。

ただし、これで独占そのものが消えたわけではありません。

従来の本所に代わって秀長が座公事を徴収する立場へ入ったとも指摘され、興福寺の座を秀長が奪ったことが考えられます。

なお、番組終わりの紀行で紹介された紺屋町の他に、朱印箱を各町で持ち回る「箱本制度」があり、この政策に関連する郡山城下の自治の話は別の記事にまとめたいと思います。

いずれにせよ一筋縄ではいかなかった奈良の商人。

ドラマでは、そんな彼らを動かすため、筆屋の才蔵が登場しましたが、果たして彼は実在したのでしょうか?

筆屋の才蔵イメージイラスト

筆屋の才蔵イメージイラスト

 

筆屋の才蔵は?

間宮祥太朗さんが演じた筆屋の店主・才蔵(さいぞう)。

座に入らなければ仕入れも商売もできなかったと語り、郡山なら誰でも商売できると聞いてやってきた――そんな設定でしたが、この才蔵についても実在が確認できません。

ただし、奈良の筆づくりそのものは本物であり、千年を超えて今日まで続いている産業です。

奈良県公式サイトでは、奈良の筆作りの歴史について、1200年ほど前に空海が唐で筆作りの方法を極め、帰国後にその技法を大和国の住人へ伝えたことに始まると説明しています。

弘法大師空海

弘法大師空海/wikipediaより引用

もっとも、これは奈良筆に伝わる由緒であり、空海が技法を伝えたことが史実として確認できてはいません。

奈良県の公式サイトでは、良質な獣毛を厳選して組み合わせる点も特徴に挙げています。

鹿や馬、狸などの毛を手当たり次第に試していた、ドラマでの実験場面はそれを再現したのでしょう。

 

三河でも使われていた奈良の筆

空海が伝えたとされるのは、芯毛の腰を紙で巻きかためて穂をつくる「巻筆(まきふで)」で、芯のない筆がつくられるのは江戸時代の元禄期からだとされます。

ただし、秀長の時代にも、奈良の筆が名産品として知られていたことを示す記録はあります。

盛本昌広氏の著書『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ』によると、天正十四年(1586年)4月に高野聖が三河の松平家忠へ持参した筆と墨について、奈良の名産品だったと説明。

つまり、秀長が大和を治めていた時期に、三河まで運ばれていたんですね。

もうひとつ、いかにも奈良らしい筆の話があります。

小林祥次郎氏の著書『日本古典博物事典 動物篇』によると、鹿の毛で穂をつくり、色糸で軸を巻いた「鹿の巻き筆」は奈良の名産でした。

『延喜式』の中に「鹿毛筆一管」という記述があり、鹿の毛は堅いので罫線を引くのに使われたそうです。

時期によって夏毛と冬毛があり、柔らかいのは冬毛。

『枕草子』にも「筆は冬毛。使ふも見目もよし」とあり、南北朝期の『入木抄』では、檀紙(だんし)には冬毛、杉原紙(すぎはらがみ)には夏毛を用いると書き分けられています。

名産としての「鹿の巻き筆」が文献に現れるのは江戸初期からですが、鹿毛の筆そのものは古代から使われていた。

つまり、才蔵の存在自体は創作でも、産業自体は本物だったわけですね。

では、川窪清俊も才蔵も史料に見当たらないとなれば、実在した奈良商人はどのような姿で記録に残っているのでしょうか?

 

奈良商人は集団や業種としても記録に現れる

中世の奈良商人は、個人名だけでなく「酒屋」や「土倉」といった集団や業種として記録に現れることが多くあります。

なかでも、物騒な事件に絡んだ記録は強い印象を残します。

古いところでは正長元年(1428年)、徳政を求める有名な一揆(正長の土一揆)を、興福寺の僧・尋尊(じんそん)が残しています。

【意訳】

天下の土民が蜂起し、徳政令と号して酒屋、土倉・寺院などを破却し、物をほしいままに取る。

借銭もことごとく破る。およそ亡国のもととしてこれに過ぎるものはない。

日本開白以来の土民蜂起は、これがはじめである

出典:『大乗院日記目録』正長元年九月条(川戸貴史『商人の戦国時代』)

襲われたのは酒屋と土倉(どそう)でした。

どちらも実質的な金融業者であり、権力と癒着して暴利を貪る彼らへの怨恨から、奈良では特に酒屋が標的になったとされます。

商人の名前までは記されておらず、「酒屋」「土倉」という業種だけが残りました。

川窪清俊が創作された理由は不明ですが、ドラマでは奈良商人と旧勢力を象徴する一人の豪商として配置したのでしょう。

なんせ上記の事件から160年あまりが過ぎた秀長の時代でも、この構図は変わっていません。

天正十九年(1591年)正月に秀長が亡くなると、その半年後、奈良で商人がらみの事件が続きました。

 

秀長没後に商人をめぐる事件が続いた

天正十九年(1591年)6月22日に子守郷の町人が京都で金商人を殺害。

7月4日には寺林の良心という者が金につまって腹を切り、そして7月23日にはこんなことが起きました。

【意訳】今井与介とやらが、女房と子を刺し殺し、腹を切り、家に火をかけて死んでしまった

【原文】女房・子を指し殺し、腹切り、家に火をかけ

出典:『多聞院日記』天正十九年七月二十三日条

金商人とは、金と銀をやりとりして差益を得る両替業者です。

彼らから金を借りながら利息を払えず、責めたてられて行き詰まる人びとが少なからずいたんですね。

今井与介と寺林の良心。

ここで名前が挙がる奈良の町人は、借金で一家心中した者と、腹を切った者でした。

やりきれない話でしょう。

この一件は「奈良借(ならかし)」と呼ばれる豊臣政権の高利貸しへと話が広がりますので、後日、あらためて別記事にまとめたいと思います。

一言で説明すれば、暴利による金貸しが行われ、秀長の死後、自宅から大量の金銭が出てきたというもので、ドラマのような好人物像だけでは説明しきれない問題があるのです。

第38回放送でも、秀長は「銭を生む者に銭を貸すのじゃ」と言っていましたが、非常に取扱が難しいものでして……。

 

総評

最後に今回放送の内容をまとめておきましょう。

・川窪清俊の名は見当たらない

川窪清俊イメージイラスト

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・中世の商人は寺社や公家を「本所」とし、上納する立場にあった

・例えば奈良の塩の特権は奈良の町人ではなく、興福寺の庇護を受けた木津の商人が握っていた

・秀長は奈良での商売を禁じ、売買を郡山へ集めようとしたが、命令は何度も繰り返された

・天正十五年に座を全廃したが、三か月後に鉄・魚・塩をめぐる命令が出されている(研究者によって解釈は分かれる)

・筆屋の才蔵も確認できないが、奈良の筆は秀長の時代にも名産品として知られていた

筆屋の才蔵イメージイラスト

筆屋の才蔵イメージイラスト

・奈良の町人で名が残る例には、一家心中した今井与介や、腹を切った寺林の良心がいる

こうして見ますと、「大和に国主などおりませぬ」というセリフは、かなりの勇み足にも思えます。

史実の奈良商人は寺社などの本所に権益を守られ、その見返りを納め、天下人の弟からは商売そのものを止められていました。

国を動かすどころか、動かされる側にいたのです。

それでも彼らが命令通りに動かなかったのも事実。商売禁止は何度も出し直され、座の全廃も三か月で修正されています。

豪商ひとりが国を動かしていたわけではなく、古い権益を背負った商人と町の衆が、秀長の政策とせめぎ合っていたのでしょう。

前述の通り、秀長による紺屋町や箱本制度については、後日あらためて別記事にまとめます。

なお、秀長の大和入りを支えた家臣団については以下の関連記事を併せてご覧ください。

羽柴秀長家臣団イメージイラスト
羽柴秀長の大和入りを最も支えた武将は誰だ?高虎ではなかった真の功労者

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秀長を脅す興福寺の僧侶・磐覚は実在したのか?豊臣兄弟第37回史実解説

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◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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