秀吉子飼いの代表格である福島正則(ふくしま まさのり)。
大河ドラマ『豊臣兄弟』にも登場する賤ヶ岳の七本槍であり、関ヶ原では石田三成と対立してその後約50万石の大大名にまで上り詰めています。
しかし、晩年はどうだったか?
というと、広島の領地を取り上げられたのは有名ですが、なぜそんな事態へ追い込まれたのか、どんな最期を迎えたのか?という点についてはあまり注目されてないようにも思われます。

福島正則/wikipediaより引用
秀吉のもとでの出世から改易まで、福島正則の歩みを振り返ってみましょう。
秀吉のもとで何をつかんだ?
福島正則は永禄四年(1561年)に尾張で生まれ、幼名を市松といいました。
母は、秀吉の叔母(父の妹)とされ、従兄弟という関係。

豊臣秀吉/wikimedia commons
幼い頃から羽柴秀吉に仕えたと伝わり、その名が大きく上がったのは、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでした。
柴田勝家の軍勢に攻めかかって一番槍の手柄を立て、5000石を与えられたのです。
いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の一人ですが、ほかの面々が3000石だったのに対し、正則だけが5000石という別格の扱いだったのはなぜか?
研究者の黒田基樹氏は編書『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、この差は正則が秀吉の父方の親族だったためと見ています。
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その後、伊予の大名を経て、文禄四年(1595年)には尾張清須20万石の領主となり、秀吉の近習から出た者としては、ほぼ最大クラスの石高を得ました。
朝鮮出兵(文禄の役)では、戦うだけでなく、兵糧米を各陣所へ配って回る城米奉行も務めており、槍働きだけの武将ではなかったんですね。
では秀吉が亡くなった後、正則は誰を頼ったのか?
秀吉が死ぬと誰を選んだ?
慶長三年(1598年)8月に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権の内部では対立が深まっていきます。
その中で福島正則が選んだのは、徳川家康でした。

徳川家康/wikimedia commons
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康方の有力大名として美濃の岐阜城攻めから働き、戦後は大坂城の受け取りまで家康方の軍政を担っています。
このとき、正則の嫡男が家康の養女を妻に迎えており、その縁で家康についた――という話を聞いた方もいるかもしれません。
しかし黒田氏によると、この結婚は家康が征夷大将軍になった後のことで、関ヶ原の時点ではまだ成立していなかったと見られます。
戦後は、関ヶ原での一連の功績により、旧毛利領の安芸・備後二か国を与えられ、広島城に入りました。
入った時点で40万2000石、その後の検地によって元和三年(1617年)には49万8000石余に増えています。
清須時代の倍以上であり、秀吉の子飼いが二か国を治める国持大名になったわけです。
家康方の大大名となった正則は、その後、豊臣家との関係はどうなったのか?
豊臣家が滅ぶ間、どこにいた?
慶長十九年(1614年)に始まった大坂の陣。
福島正則が大坂城を攻めたのか――というと、そうではありません。
秀吉恩顧の大名であることから、黒田長政や加藤嘉明と共に江戸に留め置かれました。

加藤嘉明/wikipediaより引用
翌年の夏の陣では、広島にいた子の忠勝が将軍・徳川秀忠の命で軍勢を率いて大坂へ向かいましたが、戦闘には間に合いませんでした。
元和元年(1615年)に豊臣家が滅んでも、正則がすぐに冷遇されたわけではありません。
元和三年(1617年)には参議に昇進。
しかし、徳川の世で参議となった大名には「松平」の名字が与えられていたのに、正則にだけは与えられませんでした。
尊重されながらも、どこか一線を引かれていたのでしょう。
そして、ここまで徳川の世でうまくやりながら、正則は広島から追い出されてしまいます。
一体何が起きたのでしょうか?
広島城の修復で何が起きた?
発端は元和三年(1617年)の洪水でした。
春の長雨で太田川があふれ、夏にも大水が出て、福島正則の居城・広島城は三の丸まで浸水、石垣や櫓があちこちで崩れました。

広島城
正則は急いで修復にとりかかりますが、これが「将軍の許可を得ていない」として罪に問われてしまいました。
福尾猛市郎氏と藤本篤氏の共著『福島正則 最後の戦国武将』によると、処分までの流れは次のようなものでした。
◆広島城をめぐる処分の流れ
洪水で傷んだ広島城を修復する
↓
無断の増築として咎められる
↓
正則が詫び、本丸を残してほかは壊すよう命じられる
↓
上の石を取り除いただけで、取り壊しを先延ばしにする
↓
将軍の命令に背いた「重科」として、安芸と備後を没収される
元和五年(1619年)に改易を申し渡したのは2代将軍の徳川秀忠で、家康はその3年前、元和二年(1616年)にすでに亡くなっています。

徳川秀忠/wikipediaより引用
しかも正則は、帰国の許しを待っている間に領国を失ったのです。
当初の命令は陸奥の津軽への国替えでしたが、遠すぎるとして越後と信濃で計4万5000石に改められ、信濃国高井郡の高井野村(長野県高山村)へ移されます。
約50万石から4万5000石へ。
十分の一以下への転落は、関ヶ原後に120万石から30万石へ減らされた上杉家よりも厳しい措置かもしれません。
実際、この一件はよほど堪えたのでしょう。
翌年には出家して「高斎」と名乗った正則は、寛永元年(1624年)7月13日、高井野で64歳の生涯を閉じました。
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福島家は正則の死後、残領も没収され、子の正利に3000石が与えられただけで、大名ではなくなりました。
盟友ともされる加藤清正の家も寛永九年(1632年)、子の加藤忠広の代で肥後54万石(52万石とも)を没収されています。

加藤清正/wikimedia commons
秀吉子飼いの代表格だった二人は、結局どちらも大名として家を残せなかったのです。
なお、七本槍の各武将のその後と、盟友・加藤清正については、以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(2026年7月 戎光祥出版)
- 福尾猛市郎・藤本篤『福島正則 最後の戦国武将』(1999年8月 中央公論新社)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成【増補第3版】』(2024年10月 思文閣出版)



