秀吉と信長の肖像画

豊臣家

信長の家臣時代は不遇だったのに秀吉に仕えて大出世したのは誰だ?

仰木監督に見出されて世界一のバッターになったイチロー。

野村監督に起用されてID野球の申し子と呼ばれた古田敦也。

指導者が替われば人生が一変する者がいるのは実は戦国時代も同じで、織田家ではひっそりと地味だったのに豊臣政権では一転、大出世を果たした者がいます。

それは一体誰なのか?

今回は三名の例を見て参りましょう。

 


生駒親正:千石の武将が17万石へ

まずは生駒親正(いこま ちかまさ)です。

永禄九年(1566年)に信長へ属したと伝わる武将であり、そこから数年は特に目立った記録もなく、元亀元年(1570年)金ヶ崎の退き口から秀吉の与力にされました。

与力とは、織田信長の家臣のまま、秀吉のもとで働くことです。

生駒親正の肖像画

生駒親正/wikipediaより引用

秀吉には気に入られたのでしょう。

天正六年(1578年)には260石を加増されて合計1000石となりますが、この加増を与えたのは信長ではなく秀吉。

結局、このまま月日は流れ、親正の立場が一変するのは天正十年(1582年)6月になってからでした。

そう、本能寺の変が起きたのです。

主君だった織田信長が亡くなり、正式に秀吉の配下となった生駒親正。

賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに従軍すると、天正十三年(1585年)には近江高島郡で2万3500石を与えられ、一気に大名クラスの実入りとなります。

そして天正十五年(1587年)8月、親正は讃岐へ入りました。

前領主の尾藤知宣(びとう とものぶ)が秀吉の不興を買って御家取り潰しとなり、親正が新領主となったのです。

讃岐にある豊臣家直轄地の代官も任され、のちに所領は17万石余りという、かなりの大身となりました。

もしも織田信長が生きていたら、そのまま1000〜2000石規模の武将だった可能性も考えると、やはり親正にとっては大きな転機でしたね。

次に注目したいのは、戦国時代の京都市政を担った前田玄以(げんい)です。

豊臣五奉行としても知られるこの玄以もまた、実は信長家臣でした。

 

前田玄以:織田家の実務家が京都の顔へ

前田玄以は信長に仕えたのち、嫡男の織田信忠に付けられた人物です。

前田玄以の浮世絵

月岡芳年の描いた前田玄以/wikimedia commons

天正七年(1579年)には寺の土地の売買を調べて掟書を定めるなど、行政仕事で名前が登場しており、知行は7000石ほどと伝わりますから決して悪くはない。

ただし、1万石には届かない、微妙なポジションでした。

本能寺の変後は、織田信忠の遺児・三法師の傅役(もりやく)となり、天正十一年(1583年)5月には織田信雄から「京都奉行職」に任じられます。

もっとも任命の文書には、自分で判断できない案件は秀吉に尋ね、その指示どおりに決めよ、と添えられていました。

研究者の伊藤真昭氏は『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、任命者は信雄でも直接の上司は秀吉だった、と述べています。

織田家を離れて秀吉のもとへ移り、徐々に信頼を得ていくようになりました。

そんな玄以のことを、京都の人々は「所司代」と呼びました。

信長のもと所司代として京都を治めた村井貞勝の娘婿でもあり、その後継者と見られたのでしょう。

堀と天主を備えた玄以の屋敷は、秀吉が京都にいるときの宿所にもなっています。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

朝廷との交渉や寺社の訴訟も担い、天正十三年(1585年)に秀吉が関白になると、豊臣家中では最も早く朝廷の御殿に上がる昇殿を許されました。

一方、小牧・長久手の戦いなどで戦地へ向かったのは陣中見舞いのためで、戦闘に加わったわけではありません。

それでも丹波亀山城を与えられて5万石の大名とされ、五奉行の一人に数えられるようになるのです。

次もまた五奉行の一人を見て参りましょう。

 


長束正家:丹羽家の家臣が五奉行へ

長束正家(なつか まさいえ)は信長の直臣ではなく、織田家の重臣・丹羽長秀の家臣です。

信長から見れば、家臣の家臣にあたります。

信長の在世中から賀茂社の記録に丹羽の家来として名前が見え、そこには『信長公記』の著者として知られる太田牛一も同僚として並んでいました。

長束正家イメージイラスト

長束正家イメージイラスト

長秀が若狭を領有すると、長束は荘園の領主たちとの折衝を担当。

そんな長束は、財務の才を買われ、長秀が亡くなった天正十三年(1585年)に秀吉へ引き抜かれたと語られてきました。

しかし研究者の藤田恒春氏は『織豊期主要人物居所集成』の中で、そうした説は後世の編纂物によるものだと指摘し、実際は、丹羽家の減封を機に主家を去ったのではないかと見ています。

秀吉の家臣として確かな史料に現れるのは、天正十五年(1587年)の九州攻めで、兵糧米の出納を担当していました。

研究者の谷徹也氏は同じく『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、地位が上がるキッカケは秀吉の朱印状などを扱う「物書衆(ものかきしゅう)」としての活動だったと見ています。

いわゆる右筆(ゆうひつ)のことで、日頃から秀吉の近くで文書を取り扱っていたのです。

そこで直々に能力を認められたのでしょう。

天正十六年(1588年)には、上洛した毛利輝元が長束を訪ね、太刀や銀子を贈るほどの存在になっていました。

毛利輝元の肖像画

毛利輝元/wikipediaより引用

天正十八年(1590年)には豊臣家の直轄地の決算文書を増田長盛と連署で出し、文禄二年(1593年)には肥前の検地について秀吉から条目を与えられています。

こうして長束は近江の水口城主となり、のちに五奉行と呼ばれる奉行衆の一人となりました。

では秀吉は、こうした人たちに何を期待していたのでしょうか?

 

秀吉は何を必要としていた?

領国を預かる生駒親正、京都と朝廷をつなぐ前田玄以、検地と収納を回す長束正家。

三人がそれぞれ任された仕事は、まるで内容が異なります。

親正は戦場でも働きましたが、玄以と長束に求められたのは、わかりやすい“武力”ではありません。

政権が大きくなるに従い、合戦以外の仕事も増えていったのです。

信長が見落とした才能を秀吉が見抜いた、という単純な話ではないでしょう。

なお、生駒親正は「豊臣三中老」の一人に数えられ、以下の記事に詳細がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

豊臣三中老
豊臣三中老とは誰のこと?五大老でも五奉行でもない3人の役職は実在したのか

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◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連からエンタメ書籍まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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