徳川家康や前田利家らの「五大老」。
石田三成や浅野長政らの「五奉行」。
豊臣政権の重鎮といえば、まずこの顔ぶれが挙がり、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも繰り返し登場しています。
では「豊臣三中老」をご存知でしょうか?
・生駒親正
・堀尾吉晴
・中村一氏
上記の三名であり、豊臣政権下では揃って大出世を遂げながら、なぜか陽の当たらない三人組です。
このうち堀尾吉晴と中村一氏は、豊臣秀次(三好信吉)の宿老を務めた人物ですので、となれば当然、豊臣兄弟とも縁があるのですが、ドラマでの出番は今のところ皆無。
しかも「三中老」が正式な役職として実在したのかどうかは、現在も疑問視されています。
このままでは寂しかろう、ということで今回は豊臣三中老に注目してみましょう。
豊臣三中老の略歴
三中老とされた3名は、それぞれどんな経歴の持ち主だったのか。
まずは簡単に押さえておきましょう。
◆生駒親正(いこま ちかまさ)
信長の時代は不遇でしたが、秀吉に見出されて讃岐一国を任される国持大名にまで出世。

生駒親正/wikipediaより引用
◆堀尾吉晴(ほりお よしはる)
尾張の土豪出身で若い頃から信長に仕え、山崎の戦いでは天王山の争奪戦で活躍しました。武功を重ねながらも、最終的には古参の実務家として重用され続けた武将です。

堀尾吉晴/wikipediaより引用
◆中村一氏(なかむら かずうじ)
出自は不詳ながら、早くから秀吉に仕えた子飼いの一人。
天正十二年(1584年)に岸和田城主、天正十八年(1590年)の小田原征伐後は駿府十四万五千石を任されました。豊臣政権にとって東国の要となる城を預けられたことになります。

中村一氏/wikipediaより引用
彼らはいずれも、合戦での武功と、領国統治や後方支援の実務、その両方を長く任され続けた古参大名でした。
派手さより、政権の成立過程を支え続けた経験の深さが共通点だといえるでしょう。
では、秀吉のもとで彼らはどんな存在だったのか。
豊臣政権下でどんな立場?
出自も経歴もバラバラな豊臣三中老。
彼らの共通点は、長く豊臣政権を支えてきた古参の大名という点であり、うち2人は秀吉の甥・豊臣秀次と密接な関係がありました。

豊臣秀次/wikimedia commons
例えば中村一氏は、天正十三年(1585年)に近江水口六万石を与えられた際、秀次の「宿老」(後見役の重臣)に付けられています。
堀尾吉晴も同じ頃、秀次の宿老に加わりました。
秀次の宿老には、この中村と堀尾のほか、田中吉政や一柳直末、山内一豊らも名を連ねており、いずれも戦国ファンには知られたラインナップとなっていますね。
一方、生駒親正だけは秀次の宿老だったことを確認できません。
信長の時代には知行1000石ほどの下位の家臣に過ぎませんでしたが、秀吉に見出されると近江と伊勢で加増を重ね、天正十五年(1587年)には讃岐一国十七万石余りを与えられて国持大名にまで大出世しています。
文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)では、中村一氏と堀尾吉晴が国内に残りました。
中村は伏見城(京都市伏見区)の普請を、堀尾は渡海用の大安宅船建造を命じられるなど、後方支援を担当。
戦場での武功だけでなく、政権運営を支える実務も任されていました。
しかし文禄四年(1595年)、事態は急変します。
五大老と五奉行を調整したとされ
関白の豊臣秀次が、秀吉から謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれたのです。
妻子も処刑され、秀次に近しかった武将たちも次々と処分を受けるという、かなりの異常事態。
秀次の宿老だった中村一氏と堀尾吉晴も、無事では済まないであろう。
と、思いきや2人が連座することはありませんでした。
中村と堀尾は、秀次個人が直接取り立てた家臣ではなく、もともと秀吉から秀次に付けられた古参家臣ですから、処分を免れたのかもしれません。

豊臣秀吉/wikimedia commons
慶長三年(1598年)、秀吉は死後の政権運営を見据え、後世に「五大老」「五奉行」と呼ばれる有力大名と奉行衆を政権の中核に据えました。
後世の記録では、このとき生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏の3人が、五大老と五奉行の間を調整する役目を与えられたとされています。
これが、俗に「豊臣三中老」と呼ばれるゆえんです。
鈴木将典氏は『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』所収の堀尾吉晴・中村一氏の項目で、2人が三中老に任命されたと紹介。
同時に、当時の史料からは「三中老」という職制や、3人が一組として活動した事実は確認できず、実在には疑問が残るとも指摘しています。
なんせ三中老は成立時期も定まっておりません。
慶長三年(1598年)に置かれたとする説のほか、天正十五年(1587年)と見る考えもあるのです。
正式に確定した制度というより、最古参の武将たちが信任されていた証と捉えるべきかもしれません。
秀吉死後はどうなった?
慶長三年(1598年)8月、秀吉が世を去ります。
その直後から、徳川家康と他の大老・奉行との間に対立が表面化していきますが、果たして三中老はこの激動をどう乗り切ったのか。
堀尾吉晴は、この頃から家康に接近します。
慶長四年(1599年)には家督を嫡男・忠氏に譲って隠居し、家康から越前府中で五万石を与えられました。
翌年、越前へ向かう途中の三河池鯉鮒(ちりゅう)で、旧知の水野忠重から饗応を受けていたところ、同席していた加賀井秀望が突如、忠重を斬殺するという事件が起こります。

水野忠重/wikipediaより引用
吉晴も襲われて重傷を負いながら、その場で秀望を斬っています。
戦国武将らしいというか、なかなか凄まじい経歴ですよね。
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水野忠重の生涯|関ヶ原の直前に殺された家康の叔父 一体何が起きていた?
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生駒親正は、関ヶ原の際にすでに家督を子の生駒一正に譲り、自身は病床にありましたが、それでも生駒の家臣団は、毛利・石田方として田辺城攻めに動員されています。
一方、家督を継いでいた一正は東軍に属し、家康の陣営に加わっていました。
合戦後、親正は隠居に追い込まれたものの、一正が東軍側だったことで生駒家そのものは咎めを受けず、讃岐高松の所領を保っています。
真田家のように父子で東西に分かれたことが、かえって家を救った形ですね。
中村一氏は、関ヶ原の戦いを目前にして病に倒れ、慶長五年(1600年)7月25日、開戦のわずか2ヶ月ほど前に世を去ります。
跡を継いだ嫡男の中村一忠はまだ11歳。
叔父の中村一栄が代わって陣代を務め、東軍として参陣しました。
戦後、一忠は伯耆一国十七万五千石を与えられるも、慶長十四年(1609年)にわずか20歳で病没し、跡継ぎがなく改易となっています。
3人のうち、関ヶ原の戦いを迎えた時点で存命だったのは堀尾吉晴と生駒親正の2人でした。
もっとも、親正は病床にあり、自らの目で戦況を見届けたとまではいえません。
結局、三中老とされた3人が調整役としてどこまで機能したのかは、最後まで判然としません。
豊臣三中老は実在したのか
生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏。
3人はいずれも、秀吉政権の成立を武功と実務の両面から支えた古参大名でした。
ただし、秀次の宿老だったことが確認できるのは中村一氏と堀尾吉晴であり、生駒親正は含まれません。
また、3人が「三中老」という正式な役職に就き、五大老と五奉行を仲裁していたのかも確定していないのです。
三中老とは、豊臣政権に実在した明確な職制というより、後世になって3人をひとまとめにした呼び方の可能性もあります。
それでも、この目立たない3人が政権の土台を長く支え続けていたこと自体は、確かな事実でしょう。
なお、生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏それぞれの生涯については、以下の記事で詳しく紹介していますので、よろしければあわせてご覧ください。
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参考文献
- 黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(2026年7月 戎光祥出版)
- 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(2019年11月 KADOKAWA)




