賤ヶ岳の七本槍と言えば?
天正十一年(1583年)、羽柴秀吉が柴田勝家に勝利した戦いで武功を挙げた若武者たちで、
・福島正則
・加藤清正
・加藤嘉明
・脇坂安治
・片桐且元
・平野長泰
・糟屋武則(かすやたけのり)
の7名となります。
いずれも戦時は20代前後の若者。
ここから天下人の家臣として駆け上がっていくわけですが、この中で最も出世したのは誰なのか?

豊臣秀吉/wikimedia commons
後の知名度や活躍からして加藤清正か福島正則か――いずれも人気の高い二人に集中しそうですが7人の行方を最後まで追いかけると、石高だけでは見えてこない結末が待っていました。
それはいったい何なのか。さっそく確認して参りましょう!
出発点は、ほぼ横一線だった
まず最初に賤ヶ岳での恩賞を見ておきます。
◆賤ヶ岳の戦いの恩賞
福島正則:5,000石
その他6人:3,000石
※糟屋武則は加古川郡内に2,000石、河内郡内に1,000石
実は福島正則だけが5,000石で、残りは全員3,000石でした。

福島正則/wikipediaより引用
福尾猛市郎氏の著書『福島正則』によると、正則が挙げた首級はこの合戦における一番首であったとされます。
柴田方の宿老・拝郷五左衛門(はいごうござえもん)を討ち取ったという伝承もあり、現場での働きが2,000石の差になって表れたのかもしれません。
とはいえ大差がついたわけでもない。
7人ともほぼ横一線であり、後の所領高がどれほどになるか、この時点では当人たちもまるで予測はついていなかったでしょう。
次に、約20年後の文禄四年(1595年)を見てみます。
石高で最も出世したのは加藤清正
秀吉の関白就任から約10年後。
すでに豊臣政権も安定期に入ったとも言えるこの時期には、トップとビリで実に40倍もの差がつきます。
それは以下の通り。
◆文禄四年(1595年)頃の石高
福島正則:尾張清洲20万石
加藤清正:肥後半国19万5千石
加藤嘉明:伊予松前6万石
脇坂安治:淡路洲本3万石
糟屋武則:播磨加古川1万2千石
片桐且元:摂津茨木1万石
平野長泰:大和田原本など5,000石
福島正則の大出世20万石に対して、平野長泰は5,000石とほぼ変わらず。
同じ日に同じ戦場で槍を振るった者同士でありながら、これだけ離れてしまったのです。

平野長泰の浮世絵/wikimedia commons
福島正則や加藤清正が秀吉と姻戚関係にあったことも無縁ではないでしょう。
そして関ヶ原を経ると、差はさらに開きます。
◆7人が到達した最高石高
加藤清正:肥後一国54万石
福島正則:安芸・備後49万8千石
加藤嘉明:伊予松山20万石を経て、会津40万石
脇坂安治:伊予大洲5万3千石
片桐且元:摂津・大和2万8千石
糟屋武則:播磨加古川1万2千石
平野長泰:5,000石のまま
今度は加藤清正がトップで54万石となり、やはり5,000石のままの平野長泰から見て100倍以上の差となりました。

加藤清正/wikimedia commons
となると数字だけを見れば、七本槍の出世頭は加藤清正となりましょう。
しかし悲しいかな、話はここで終わりません。
50万石級まで昇った2人の家は大名の座を失った
先に結末を書いてしまいます。
加藤家も福島家も、江戸時代の前半に大大名の座を失っていくのです。
◆2つの大大名家の末路
福島家:元和五年(1619年)に広島城の無断修築を咎められ、49万8千石を没収されて信濃・越後へ減封
加藤家:寛永九年(1632年)に謀叛の疑いをかけられて改易
とりわけ加藤家の改易は、いかにも気の毒な経緯でした。
清正の子・加藤忠広の嗣子である光正が、家臣の広瀬庄兵衛を驚かせてやろうと「江戸城を攻撃せよ」という戯れ言を口にします。

加藤清正の子・加藤忠広/wikipediaより引用
それが幕閣の耳に入ってしまい、謀叛の疑いをかけられてしまったのです。
忠広は出羽庄内藩へお預けとなり、光正は護送の途中で自害。享年17。
ただし加藤家では、清正没後から家臣団の対立が続いていました。
元和四年(1618年)には将軍・徳川秀忠臨席のもと江戸城西の丸で評定が開かれ、家老の加藤美作守が失脚しています。
光正の戯れ言は、そこへ加わった最後の一押しだったのでしょう。
いずれにせよ、天下人の子飼いとして最も高く昇った2人の家が、江戸時代の前半で大名の座を失ってしまうのです。
これに対して、なんとも不思議なのが平野長泰でして……。
5,000石で止まった男・平野長泰
平野長泰は賤ヶ岳後に3,000石を獲得。
その後、2,000石を加増され5,000になると、秀吉のもとでは5,000石のままでした。
なぜ、こんな調子だったのか?
研究者の菊地浩之氏は著書『豊臣家臣団の系図』の中で、長泰は尾張の出身でありながら、父子二代で織田家の家臣であり、秀吉の与力だったからでは?と指摘しています。
秀吉自らの手で引き上げた身内ではなく、もともと織田家にいたからこそ、七本槍でもさほど重視されなかったのですね。
平野家は尾張津島の「津島七党」に数えられる名家で、父の右京進長治も信長と秀吉の双方に仕えています。
秀吉の死後は徳川家康に仕えて家禄は現状維持5,000石のまま。

徳川家康/wikimedia commons
子孫は交代寄合(こうたいよりあい)という、参勤交代を行う旗本の最高格に位置づけられました。
しかし平野家はここで終わりではありません。
一体その後は?
最後の最後で大名になった平野家
平野家は江戸時代を通じて5,000石の交代寄合でした。
しかし、明治維新後の高直しで、実高1万石あることが認められ、大和田原本藩を立藩。
明治になって、ようやく大名になったのです。
秀吉から5,000石しか与えられず、家康に仕えて家禄は据え置きでも、家を潰さずに約260年を過ごし、最後の最後で藩主の座へ滑り込んだ。
なお、幕末時点における他の者たちは以下の通りとなります。
◆加藤嘉明の加藤家
会津40万石は子の加藤明成の代で失われたが、孫の明友が石見吉永1万石を経て、天和二年(1682年)に近江水口2万石へ。以後は一時期を除いて加藤家が藩主を務める
◆片桐且元の片桐家
且元の系統は絶え、弟・片桐貞隆の家が大和小泉藩として幕末まで続く
◆脇坂安治の脇坂家
子の脇坂安元に実子がなく堀田家から養子を迎え、幕末は播磨龍野藩5万1千石
◆糟屋武則の糟屋家
七本槍のうち唯一関ヶ原で西軍につき、戦後に改易されて断絶
大名の座を失ったまま終わったのは、清正流の加藤家、福島家、そして糟屋家の三家。
いっぽう嘉明流の加藤家、貞隆流の片桐家、脇坂家は、いずれも江戸時代のうちに大名家として落ち着いています。
そのなかで平野家だけが、最後の最後に滑り込んで大名となっただけに、なんだか持ち上げたくなりますね。おめでとう、平野長泰!

平野長泰の浮世絵/wikimedia commons
最後に一応、結果をまとめておきます。
◆賤ヶ岳の七本槍
最も出世したで賞:加藤清正
幕末で最も石高が高かったで賞:脇坂家
最後の最後で見せ場を作ったで賞:平野長泰
なお、七本槍のそれぞれの生涯については以下の記事で扱っていますので、よろしければ併せてご覧ください。
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なぜ加藤嘉明は賤ヶ岳七本槍の一人なのに無名なのか|水軍にも長けた名将の生涯
続きを見る
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賤ヶ岳七本槍に数えられた戦国武将・脇坂安治の生涯|関ヶ原の裏切者か功労者か
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秀吉子飼いの戦国大名・福島正則の生涯|徳川政権で喰らった転封改易の悲劇
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参考文献
- 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(2019年11月 KADOKAWA)
- 福尾猛市郎『福島正則』
- 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳』
- 長浜市『戦国を攻略せよ 賤ヶ岳七本槍』
- 甲賀市『水口藩加藤家文書』
- 兵庫県『幕末の大名領』
- 大和郡山市『片桐貞篤』



