毛利元就の肖像画

毛利元就/wikimedia commons

毛利家

厳島の戦いで陶晴賢はなぜ敗れた?毛利元就「囮の城」は後世の物語か

弘治元年(1555年)10月1日は厳島の戦いが起きた日です。

兵数4000ほどしかない毛利元就が2万もの大軍を率いる陶晴賢を破り、中国地方の趨勢を決めたとされるこの合戦。

日本三大奇襲の一つにも数えられるほど有名な合戦であり、元就が偽情報を流し、囮の城を築き、まんまと陶軍を小さな島へおびき寄せた――そんな痛快な物語として語られてきました。

しかし近年の研究によって、この通説は大幅な見直しを迫られ、『歴史研究 第737号』で詳細が報告されています。

陶軍は元就に誘い込まれたわけではなく、語られてきたほどの兵力差もなかったとされるのです。

いったい、この日、厳島では何が起きていたのか?

毛利元就の肖像画

毛利元就/wikipediaより引用

最新研究をもとに振り返ってみましょう。

 


通説はどこから来たのか

そもそも厳島の戦いとは?

これまでの通説ですと、

陶軍2万vs毛利軍4,000余

という状況だったところ、元就は厳島に囮の城を築いて陶をおびき寄せ、10月1日の未明に急襲して全滅させたというものです。

上記の説を決定づけたのは昭和五十四年(1979年)に刊行された『国史大辞典』でしょう。

「厳島の戦」の項目には、2万の陶軍を4,000余の軍勢で急襲して全滅させた戦いと記されており、現在のジャパンナレッジ(国史大辞典)でも以下のように記されています。

安芸の厳島に進駐した二万の陶軍を四千余の軍勢で急襲して全滅させた戦いで、これから毛利氏の中国地方制覇の道がひらける。

根拠となったのは、昭和四十一年(1966年)に発表された論文。

以来、半世紀近くにわたって、学界でもこの理解が通説として受け入れられ、平成に入ってから見直しが始まりました。

それまで厳島合戦の研究では注目されてこなかった「西郷文書」の弘中隆兼書状が紹介されると、にわかに研究の対象となったのです。

それは一体どんな内容だったのでしょう?

 

陶軍は2万もいなかった

まずは陶軍の兵力に注目します。

研究者の秋山伸隆氏によると、陶軍の兵力は大幅に下方修正され、1万未満だったのでは?と指摘されています。

理由は参加者の顔ぶれです。

杉家や内藤家といった大内家の有力家臣が、この戦いに参戦していなかったのです。

◆厳島合戦の兵力

通説:陶軍2万vs毛利軍4,000余

近年の推定:陶軍1万未満vs毛利軍7〜8,000

毛利軍の兵力は過小評価され、いっぽうで陶軍の兵力は過大に見積もられてきたと『歴史研究 第737号』の中で指摘。

寡兵が大軍を破ったという「物語」は江戸時代の軍記物によって作られ、近代以降の研究でも十分な検討がされないまま通説になってしまいました。

こうした状況を踏まえ、最も注目したいのがこの疑問です。

なぜ陶晴賢は厳島へ渡ったのか?

 


誘い込まれたのではなく進路を塞がれた

陶軍が周防から安芸の毛利軍へ攻め込むルートは、もともと3つありました。

◆周防から安芸へ進攻する3ルート

①岩国から海沿いに大竹・大野・廿日市へ進む

②山間地域で防芸国境を越える

③岩国から厳島へ渡海する

陶が当初選んだのは②の山間ルートでした。

弘治元年(1555年)6月から8月にかけて、この方面からの進攻を目指しています。

しかし毛利方の防衛線を突破できず、山里と呼ばれる山間部を制圧できなかったため、海路と狭い沿岸部からしか進めなくなってしまいました。

そこで陶晴賢は弘治元年(1555年)9月21日、岩国から厳島へ渡海することを決定。

重要なのは、厳島への渡海が特別な行動ではなかったという点でしょう。

大内氏はこれまでの安芸遠征でも厳島を経由しており、そのルートは決して奇策などではなく、元就におびき寄せられたわけではないのです。

そもそも毛利元就とその長男の毛利隆元は、合戦1か月前の9月1日時点で、決戦の場は山里になると考えていました。

元就が陶軍を厳島へ誘い込もうとしていたとは考えにくい。

そこで次に問題となってくるのが囮の城――毛利元就が陶晴賢をおびき寄せるため、弘治元年(1555年)春、厳島に城を築いたという話です。

 

囮の城に史料的根拠はない

まことしやかに語られてきた囮の城について、同誌では史料的な根拠は全くないと断じています。

確かに、宮島桟橋の広場前には標高27メートルほどの丘があり、そこに城跡(要害山)は残っています。

要害山の宮尾城

要害山の宮尾城本丸跡/wikimedia commons

しかし、この合戦のために囮として築かれた証拠はありません。

むしろ逆で、以前から大内氏の城がそこにあり、元就はそれを改修して使ったことが明らかになっています。

合戦当時の史料では「宮之城」「宮之要害」などと呼ばれており、宮尾城というのは後世の呼び方。

毛利方が城番を置いたのは合戦の1年以上前、天文二十三年(1554年)のことでした。

以来、厳島はたびたび陶方の警固船に攻撃されていましたが、そのたびに城番衆が撃退しています。

上陸を許したのは弘治元年(1555年)5月13日の一度だけであり、囮どころか、厳島の町と港を守り切ってきた実戦的な城だったのです。

そうなると気になってくるのが、

誰が、陶晴賢に厳島への渡海を勧めたのか?

という点でしょう。

 

渡海を進言したのは誰だったのか

そこで注目されるのが、先に紹介した「西郷文書」に含まれる弘中隆兼(ひろなかたかかね)の書状なのです。

弘中隆兼は、大内氏の重臣一族に生まれました。

東西条代官・西条守護として大内氏の安芸支配を長く担っており、毛利元就との付き合いも深い人物でした。

合戦2日前の9月29日、隆兼は妻に宛ててこう書いています。

【意訳】神領衆、警固衆、三浦越中守などが陶殿に進言して、このようなことになってしまった。口惜しいことだ。

出典:「西郷文書」弘中隆兼書状

神領衆とは厳島神社の社領を管理する領主たちのことで、警固衆とは水軍のことです。

彼らは毛利方に厳島を占領され、所領や権益を失っていた。

そこで、自分たちの土地を毛利から取り戻すため陶晴賢に渡海を主張し、さらに陶家臣の三浦越中守(房清)が後押しをして、渡海が決定されたというのです。

陶晴賢像

陶晴賢像『続英雄百人一首』「陶尾張入道全薑」/wikimedia commons

一方の隆兼は、島に渡って毛利軍と戦うことに反対でした。

元就とは長く向き合ってきて、手の内を知り尽くしていたからでしょう。

たとえ厳島の戦いが元就の仕掛けた罠でなかったとしても、その戦術の巧みさを知っていたからこそ隆兼は強く警戒していたのです。

しかし晴賢は、そんな腹心の反対を押し切って海を渡ってしまいました。

 

討死を覚悟した男の手紙

弘中隆兼が残した書状は、もう1通あります。

合戦3日前の9月28日、岩国の家臣たちに宛てたもので、非常に悲痛なものでした。

陶軍の軍船が足りず、毛利方援軍の動きを止められず、もはや「自身と長男の討死を覚悟していること」が記されているのです。

なんだか戸次川の戦いで、仙石秀久に無謀な戦いを強いられた長宗我部元親・信親父子の話を彷彿とさせますね。

隆兼の死の予感は本気だったのでしょう。

所領の安堵や恩賞の取り計らいを頼んだり、娘の婚儀についても懇願しており、さらに妻宛の書状では遺品の取り扱いを説明した上で最後にこう書き残しています。

「口惜候(悔しい……)」です。

毛利軍に対して無茶な戦いを仕掛ける陶晴賢に心の底から無念を感じていたのでしょう。

元就は、そっけない手紙の例として弘中隆兼の書状を挙げていたそうですが、この2通ばかりは、無念さと家族への配慮にあふれています。

 

一矢も射ずに退いた

弘治元年(1555年)9月29日の夜、毛利方の援軍である来島村上氏が到着します。

軍記物では能島村上氏も毛利方として参戦したことになっていますが、厳島の戦いに来援した記録は確認されていません。

実際に戦ったと考えられるのは、来島村上氏の村上通康だけでした。

村上通康の肖像

村上通康/wikimedia commons

そして元就率いる毛利軍も、厳島東端の包ヶ浦へ上陸しました。

明けて10月1日未明、急峻な尾根を越えた毛利軍が、陶晴賢の本陣に襲いかかります。

同時に小早川隆景と来島村上氏も上陸し、一斉に攻め寄ると、陶晴賢は一矢も射ずに西山を目指して引き退き、結局、大江浦での自害に追い込まれました。

その後、晴賢の首は桜尾城で首実検にかけられ、洞雲寺(広島県廿日市市)に葬られたと伝わります。

では渡海に反対していた弘中隆兼は、どうなったのか?

奇跡的に助かる……という物語のような展開はなく、子の源太郎や家臣2〜300人と共に駒ヶ林へ立て籠もり、10月3日に討死しています。

渡海に反対しながらも主君に従い、負けを見通しても2日間戦い抜いたんですね。

最後に通説と新説をまとめておきましょう。

◆厳島の戦い 通説と新説

陶軍2万:実際は1万未満とみられる

毛利軍4,000:実際は7〜8,000と見られる

元就の誘い込み:山間ルートを塞がれた陶晴賢の判断

囮の城:以前からあった大内氏の城を毛利方が改修して使用

能島村上氏の参戦:確認されていない

2万の大軍が謀略に引っかかり全滅したという物語は、確かに痛快で鮮烈ではあります。

しかし記録に残る厳島の戦いは、山間部の進路を阻まれた陶軍が厳島へ渡り、船が足りずに制海権を失ったところへ、毛利軍の急襲を受けた戦いでした。

こちらのほうが、かえって生々しい。

なにより弘中隆兼の息遣いまで聞こえてくるような緊張感、臨場感もあるではないですか。

なお、何かと話題になりがちな陶晴賢と大内義隆の二人については以下の関連記事をご覧ください。

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参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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