真田十勇士由利鎌之助のイメージイラスト

真田家

由利鎌之助は女忍者だったのか?槍と水中戦を得意とした真田十勇士の豪傑

真田十勇士の由利鎌之助(ゆり かまのすけ)といえば、鎖鎌の遣い手――。

何と言っても名前に「鎌」の字が入ってるじゃん!

と思いきや、真田十勇士の人気を広めた「立川文庫」の鎌之助が得意としたのは槍でした。

鎖鎌の話は、後から付け加えられた設定であり、すべては物語での話。

いくらでも自由に描けるわけで、現在テレビ朝日で放映中の『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』でも、女優の伊原六花さんが女忍者として演じていますが、本来の由利鎌之助とはどんなキャラクターだったのか?

鎌之助はなぜ幸村に仕え、最後にどんな戦いを見せたのか?

真田十勇士由利鎌之助のイメージイラスト

真田十勇士由利鎌之助のイメージイラスト

かつては槍と水練の名人として知られた由利鎌之助を振り返ってみましょう。

 


鎌之助の得物は鎖鎌だったのか?

由利鎌之助は、猿飛佐助や霧隠才蔵と同じく、『真田十勇士』の物語に登場する架空の武士です。

現在放送中のドラマのような女忍者ではありません。

しかし鎌之助は、実は佐助や才蔵よりもずっと古いキャラクターです。

江戸時代の寛文十二年(1672年)に成立した『難波戦記』に登場しており、その後の『真田三代記』では早くも大きな存在感を示していました。

この二冊が講釈で語られて人気の土台となり、明治時代の立川文庫へと受け継がれていきます。

歴史作家の山村竜也氏は著書『真田幸村と十勇士』の中で、立川文庫における鎌之助の武器はあくまで槍であり、鎖鎌は名前にちなんで後世に付け加えられた設定だと指摘。

大正三年(1914年)には、鎌之助を主人公とする『真田三勇士 由利鎌之助』まで刊行されました。

『豪傑由利鎌之助漫遊記』

『豪傑由利鎌之助漫遊記』より(凝香園著、博多成象堂、1915年)/国立国会図書館蔵

立川文庫の十勇士で、その名がタイトルとして独立した書籍は、佐助、才蔵、三好清海入道、そして鎌之助の4人だけだったといいます。

当時の読者にも特別愛された存在だったんですね。

では、物語の鎌之助は、どんな経緯で真田の仲間になったのか?

 

鈴鹿峠で佐助と何があった?

大正二年(1913年)『真田三勇士忍術名人 猿飛佐助』を参考に見てみましょう。

同作の由利鎌之助は越前朝倉家の残党という設定。

織田信長に滅ぼされた、あの朝倉義景の家ですね。

朝倉義景の肖像画

朝倉義景/wikimedia commons

鎌之助は、そんな主家の再興軍用金と仲間を集めるため、伊勢の鈴鹿峠で山賊の頭領になっていました。

「力五十人に敵し、槍は無双の名人」

そんな噂が立つほどの武人であり、退治に向かった武士たちは誰一人無事に帰れなかったほど。

そこへ通りかかったのが、諸国を漫遊していた猿飛佐助と三好清海入道でした。

激しい戦いの末に鎌之助をねじ伏せたのは佐助で、決め手は得意の忍術ではなく、なんと腕力です。

佐助は相手を地面に押さえつけたまま、主家再興を口実に山賊を続けていても志など果たせるわけがない、本心に立ち返って仲間になれ、と諭します。

締めの一言はこれ。

「否と云へば只一刺しだぞッ」

結局は脅しているのですが、なぜだか心を動かされた鎌之助は一味を解散し、佐助と清海の弟分として義兄弟の契りを結びました。

ただし、これはあくまで一つのストーリー。

他の物語では全く異なる展開で十勇士に加わっています。

 


もう一つの物語では誰に敗れた?

大正三年(1914年)『真田家豪傑 三好清海入道』での由利鎌之助は、由利村の百姓の子でした。

子どもの頃から大人をしのぐ力持ちで、両親すら持て余すほど。

通りかかった野武士に見込まれて養われ、19歳になる頃には五十人力と称されるまでになりました。

そして野武士の死後、村の名である由利を名字として旅に出たところで出会ったのが三好清海入道です。

ドラマ真田十勇士三好清海入道イメージイラスト

三好清海入道イメージイラスト

二人は力くらべを始め、清海が100貫(約375キロ)の大石を空高く放り投げたことで決着。

鎌之助は1歳年下の清海を兄として、兄弟の契りを結びます。

年齢ではなく、力が上のほうが兄という謎の設定……。

その後、清海と喧嘩別れした鎌之助は信州野田の菅沼家に仕え、真田家と戦うことになり、ここから『真田三代記』のストーリーへ繋がったと目されています。

『真田三代記』での由利鎌之助は、真田の勇将・穴山小助に生け捕りにされます。

二君に仕えるつもりはない!

早く殺せ!

そう言い張る鎌之助に対し、真田幸村が持ちかけます。

「私に仕えてくれるなら一緒に捕らえた百人余りの捕虜を全員釈放しよう」(意訳)

鎌之助は幸村への忠誠を誓い、以後は無二の忠臣となりました。

かくして真田十勇士の一人になった鎌之助は、どのような戦い方を得意としたのか?

実は思わぬ戦国武将とも戦っていまして……それが福島正則です。

 

槍と水練の腕前はいかほどか?

大正八年(1919年)の『真田郎党忍術名人 猿飛佐助』での由利鎌之助は、広島城主だった福島正則と槍で立ち合いました。

ご存知、福島正則は、賤ヶ岳の七本槍で知られる秀吉子飼いの勇将。

福島正則の肖像画

福島正則/wikipediaより引用

そんな強敵を相手に、鎌之助がめちゃくちゃにカマします。

「槍を取っては後藤又兵衛基次、本多平八郎忠勝と並び称せられた由利鎌之助である!」(意訳)

随分と大きく出たもんだ……と思いきや、その実力は口だけではありませんでした。

鎌之助は飛ぶ鳥のように正則の手元へ飛び込んで槍を打ち落とすと、降参させてしまうのです。

言うまでもなく物語における武勇談であり、実際の正則とも全く関係ありませんが、これだけで「強い!」ということは伝わってくるでしょう。

同時に、本多忠勝を打ち負かしたわけじゃないからまぁ許せるか、という戦国ファンの心情ギリギリのところで展開されていて、作者の文才まで感じさせますね。

もう一つの特長が水中戦です。

『真田三勇士 由利鎌之助』では河童と競争できるほどの水練の名人とされていました。

同作では、近藤無手之助という豪傑を水の中へ持ち込んで捕らえ、真田方に引き入れる場面もあります。

では、そんな鎌之助は、『真田十勇士』のクライマックスとなる大坂の陣で、どんな戦い方をしたのでしょうか?

 

幸村が二人現れた最後の戦い

大正四年(1915年)の『忍術名人難波合戦 霧隠才蔵大活動』で、大坂夏の陣を迎えた由利鎌之助は、幸村の影武者として戦っていました。

影武者に扮したのは実に七人。

そのうちの一人が鎌之助であり、幸村が西尾久作と戦っているところへ、横から飛び込んでいきました。

「乃公の死ぬときが来た」

そう叫ぶと、西尾に突きかかり「幸村これにあり!」と名乗ります。

敵の前に、突然、幸村が二人。

驚いた西尾が鎌之助と渡り合うと、本物の幸村は素早く姿を消します。

それを見届けた鎌之助は、わざと西尾の槍を受け損じたふりをしながら脇腹を突かれ、その場に倒れました。

「真田幸村を討ち取った!」(意訳)

殊勲の首を取り、歓喜に震える西尾。

こうして鎌之助は、主君を逃がすために自らの命を差し出したのです。

一方、生き延びる設定の鎌之助もいます。

『真田三勇士 由利鎌之助』では、幸村と共に薩摩へ落ちた顔ぶれの中に鎌之助の名があるのです。

同作の主人公は鎌之助自身ですから、五十人力で槍の名手という看板キャラクターを、さすがに死なせるわけにはいかなかったのでしょう。

なお、真田十勇士の二枚看板である猿飛佐助と霧隠才蔵については、以下の関連記事に詳細がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連からエンタメ書籍まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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