10月に始まったテレ朝ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』で、
「これぞイメージ通りのキャラクター!」
と思わず唸ってしまうのが霧隠才蔵ではないでしょうか。
ワイルド陽キャな猿飛佐助に対し、クールでイケメン、幸村に忠節を尽くす――。
『真田十勇士』の中でも佐助と並ぶ人気キャラクターであり、今や時代劇には欠かせない中川大志さんが演じるのも合点がいきます。
そんな霧隠才蔵には、果たしてモデルとなる忍者などはいたのか。
物語の中では、どんな活躍を見せていたのか。

霧隠才蔵イメージイラスト
十勇士・二枚看板の一人でもある霧隠才蔵の原点を振り返ってみましょう。
霧隠才蔵も明治の講談から生まれた
江戸時代に真田幸村の活躍が描かれた『難波戦記』や『真田三代記』に猿飛佐助の名はなかった――。
昨日、公開した猿飛佐助の記事でもそう記しましたが、
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猿飛佐助はどんな忍者だった?信濃で白雲斎に忍術を学んだ十勇士のエース
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霧隠才蔵も同様、江戸時代には登場しておりません。
『真田三代記』に「霧隠鹿右衛門」という武士の名が一度だけ見えていますが、それは才蔵ではなく、後の明治時代に発売された立川文庫で「霧隠」の姓だけ取ったと見られています。
では霧隠才蔵の初登場はいつだったのか?
佐助と同じ明治四十四年(1911年)、立川文庫の『智謀真田幸村』でした。

出典:雪花山人『智謀真田幸村』(立川文明堂, 1918)国立国会図書館蔵
ただし同作では「霧隠れ才蔵」と書かれ、のちの作品には「霧隠れの才助」という表記まであります。
登場した当初は、名前の表記すら定まっていなかったのです。
モデルとなる実在の人物も確認されていません。
そんな才蔵に詳しい生い立ちが与えられたのは、大正三年(1914年)に発売された『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』でした。
一体どんな家に生まれたことになっているのか?見てみましょう。
浅井家臣の遺児で伊賀流忍術を学んだ
同作によると、霧隠才蔵は近江の戦国大名・浅井長政に仕えた霧隠弾正左衛門の嫡男でした。
浅井長政は実在の大名ですが、弾正左衛門は物語の人物。

浅井長政/wikimedia commons
天正元年(1573年)、浅井家が織田信長に滅ぼされると父は自刃し、このとき才蔵はまだ2歳でした。
母もすでに亡く、才蔵は父の家来・芦原団蔵に連れられ、伊賀の名張へ。
そこで武術を仕込まれて育ち、15歳で団蔵を失った才蔵の前に現れたのが、立川文庫では伊賀流忍術の名人とされる百々地三太夫(ももちさんだゆう)でした。
才蔵は三太夫のもとで2年間修行。
すべての教えを極めて屋敷を出て振り返ると、建物が炎に包まれているではありませんか!
三太夫が火を放ったのか?
という場面で少しも慌てないのが才蔵です。
「先生が腕前を試すつもりだ」と見抜いて九字を切ると、大雨を降らせて火を消します。
これが卒業試験で、才蔵は伊賀流忍術の巻物を授かり、霧隠才蔵宗連(むねつら)と名乗って諸国へ旅立っていくのです。
同作では、身の丈六尺(約182センチ)を超え、眼光の鋭い若者として描かれている才蔵。
なぜ、真田幸村に仕えることになったのか?
佐助との空中戦に敗れて真田家へ
旅の途中、越前にある両親の墓へ参ると、見知らぬ男が墓石に腰掛けて弁当を食べていました。
猿飛佐助です。
その刹那、忍術合戦が始まります。
大鷲を呼び出し、その背に乗って、空中で手裏剣を投げ合う二人。
佐助が才蔵の手裏剣を受け止めたことで、才蔵は「受け止められなかった分だけ負けた」と潔く敗北を認めます。
そして佐助に誘われ真田家へ向かった才蔵は、十人目の勇士となりました。

『猿飛霧隠忍術競 竜驤虎搏』(武士道文庫)(凝香園著、博多成象堂、大正6年)国立国会図書館蔵
ただし、佐助が主人公の作品では、二人が出会う場所が備前岡山で、才蔵は九人目の勇士とされています。
そもそも二人とも架空のキャラクターですから、立川文庫の中でも設定は巻ごとにバラバラです。
では、真田家に入った才蔵は、どんな手柄を立てたのでしょう?
家康を雪隠まで追い詰めた
真田家に入った才蔵は、徳川方の大名をこらしめる旅にも出ています。
仙台では、徳川に媚びる伊達政宗を懲らしめるため、伊達家の武士225人の髷を忍術で切り落としました。
その髷を政宗に見せて千両で買い取らせたというのですから、ちょっと意味がわからないというかなんというか……恐喝ですやん!
最大の見せ場は、大正四年(1915年)の『忍術名人難波合戦 霧隠才蔵大活動』で描かれた大坂夏の陣でしょう。
同作の才蔵は、徳川方へ寝返ったふりをして家康のそばに入り込み、正体を現して家康に襲いかかります。

徳川家康(猿飛佐助 : 真田三勇士)国立国会図書館蔵
家康は大久保彦左衛門に守られて逃げ出し、辻堂に隠れても才蔵に床板を突き破られ、ついには道ばたの雪隠(せっちん・便所)へ転がり込みました。
天下人が臭いに耐えて息を潜める――。
読者はそれを想像して、ニヤニヤしたのでしょう。
才蔵は雪隠の裏から大きな槍で壁ごと突き通しますが、穂先はわずかに外れ、家康の顔の前に突き出ただけでした。
しかも槍が抜けなくなり、もたついている間に彦左衛門が立ちふさがって、家康は逃げ切ってしまいます。
鼠に化けることも、雨を降らせることもできるのに、最後は槍が抜けずに大魚を逃したってのがなんとも……。
歴史作家の山村竜也氏は著書『真田幸村と十勇士』の中で、得意の忍術を使えばこんな不覚はとらなかったはずだと、至極真っ当なツッコミを入れています。
まぁ、そういう理不尽な展開こそが創作や忍術の魅力でもあるわけですが。
淀殿と侍女たちを武器庫ごと吹き飛ばす
その後の霧隠才蔵は、幸村の命令で秀頼の子・国松を大坂城から救い出す大役も果たしました。
最後は大坂城で、なんとも物騒な仕事をしています。
決戦前夜、淀殿が大野治長と降参の相談をしていると知った才蔵は、淀殿と侍女たちを城内の武器庫に押し込めました。

淀殿(茶々)/wikipediaより引用
そして翌朝、幸村が作った大砲「張抜筒(はりぬきづつ)」を蔵の中へ撃ち込み、武器庫ごと吹き飛ばしてしまうのです。
山村氏も、立川文庫の十勇士の物語の中で「最高に痛快な場面」と評していますが……いやいや滅茶苦茶すぎるって!
家康への執念も消えていません。
大坂城に入った家康を、広庭に仕掛けた地雷火で吹き飛ばそうとしたところ、家康は庭の池に落ちて助かってしまいました。
便所に続いて、またしても取り逃がしたのです。
その後、才蔵は幸村の子・真田大助を守って薩摩へ下り、先に着いていた秀頼・幸村・佐助と再会。
豊臣家の再興に向けて動き出すところで、物語は幕を閉じます。
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実は、立川文庫の初期作品での才蔵は、生き延びることができませんでした。
明治四十四年(1911年)の『智謀真田幸村』や大正二年(1913年)の『大阪城夏之陣』では、徳川秀忠に斬りかかったものの、刀は兜に傷をつけただけ。
秀忠の側近・本多出雲守に討たれる最期を迎えています。
その結末が、大正三年(1914年)『霧隠才蔵』以降に書き改められ、才蔵は佐助と共に生き残ることになったのです。
読者たちの切なる願望がそうさせたのでしょう。
なお、猿飛佐助の詳細や真田十勇士10人の顔ぶれについては、以下の記事に詳細がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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真田十勇士の10人とは一体誰のことだ? 忍者は猿飛佐助と霧隠才蔵の2人
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参考文献
- 山村竜也『真田幸村と十勇士』(2016年1月 幻冬舎)


