妹のあさひを正室に送り込んでも一向に上洛してこない――。
大河ドラマ『豊臣兄弟』第41回では、徳川家康に対してしびれを切らした秀吉が、ついに母・なか(大政所)まで岡崎へ送り出しました。
天正十四年(1586年)当時の秀吉は、すでに関白となり、四国も北陸も平定済み。
誰が見ても勢いの差は明らかです。
なのになぜ、家康は臣従を嫌がるような態度を取り続けたのか?
「秀吉が嫌いだったから?」とか「北条と手を組んでいたから?」とか考えたくなるところですが、こと史実においてはそれだけで説明がつくものではありません。
小牧・長久手の戦いから大坂での対面まで。
執拗に秀吉を避け続けていた家康を中心に振り返ってみましょう。

徳川家康イメージイラスト
【三行あらすじ】
あさひの輿入れから3か月が過ぎても家康は上洛せず、大坂から取り寄せた豊臣風の羽織にも袖を通そうとしない。
九州の島津を鎮めるためにも徳川の臣従を急ぐ秀吉と秀長が、母・なかのもとを訪れると、彼女は自ら徳川へ行くと申し出る。
岡崎になかが入ると、家康はついに大坂へ。秀長の屋敷での宴を経て、ついに大坂城で秀吉に平伏するのだった。
小牧・長久手後も家康は潰されない
2年前に起きた天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いでは、秀吉が優位を保ったまま講和で幕を閉じました。
確かに長久手では徳川軍が羽柴勢に快勝しています。
しかし、それはあくまで局地戦の勝利。
家康の同盟相手・織田信雄は、秀吉に南伊勢と伊賀を差し出し、翌天正十三年(1585年)2月22日には大坂城へ出向いて臣従しました。

織田信雄/wikimedia commons
徳川家康にしても、次男の義伊(ぎい・のちの結城秀康)と、重臣・石川数正の子を秀吉のもとへ送っています。
既に臣従したも同然のように見えますが、徳川家中では、義伊を「養子」として差し出しただけと受け止めていました。
人質を出しただけで家来になったつもりはない――というわけですね。
なぜそこまで強気だったのか?
家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃にまたがる領国を保っており、関東の雄・北条氏とも同盟関係にあります。
秀吉が家康を武力で屈服させるには、徳川だけでなく、東国の大勢力まで視野に入れる必要がありました。

北条氏政/wikimedia commons
秀吉の側にも、強気になりきれない事情があります。
天正十三年(1585年)7月に関白となり、8月に四国を平定すると、その先には九州があります。
同年10月には豊後の大友氏と薩摩の島津氏に停戦を命じており、もしも東海で全面戦争を始めれば、九州への手当てが後回しになってしまう。
家康とその後ろに控える北条は、秀吉にとって「潰したい相手」であると同時に「できれば戦わずに従えたい相手」でもあったのです。
一方の家康は、実は同年後半から足元が次々と崩れ始めていました。
第41回では描かれなかったトラブルの連続――いったい何が起きていたのでしょう?
真田・小笠原・石川数正が家康から離れた
最初のきっかけは、信濃の真田昌幸でした。
同盟相手の北条氏から上野の沼田・吾妻領の引き渡しを求められた徳川家康は、一応は傘下にいた真田昌幸に対して明け渡しを命じました。
しかし昌幸はこれを拒み、天正十三年(1585年)6月に徳川を離れると、越後の上杉景勝に身を寄せます。

真田昌幸/wikimedia commons
怒った家康は真田の上田城へ軍勢を送り込みますが、閏8月の第一次上田合戦で徳川軍は大敗。
真田信幸の書状によれば、討ち取った徳川兵は1300人余りにのぼるほどの敗北となりました。
さらに10月になると、松本の小笠原貞慶まで徳川を離れ、秀吉に従う始末です。
この時点で、徳川方が押さえていた信濃エリアは佐久・諏訪・伊那の3郡だけになりますが、同時期に徳川家中で行われた話し合いでは「秀吉に新たな人質は出さない」という結論に達します。
ただ一人、秀吉との融和を説いていたのが、交渉役の石川数正でした。
その数正が11月13日、家族と小笠原貞慶の人質を連れて、秀吉のもとへ出奔してしまいます。
出奔理由については、以下の関連記事をご覧ください。
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石川数正はなぜ秀吉のもとへ走ったのか?豊臣兄弟第39回史実解説
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数正の真意がどうであれ、出奔は出奔。
動揺が隠しきれない徳川家に対して、秀吉はどんな対応をしたのでしょうか?
天正地震
秀吉にしてみれば、人質を拒まれ、さらには交渉役が寝返ってきている。
話し合いのパイプが途絶えており、もはやこれ以上の猶予は与えられない状況となっていました。
「家康成敗」
秀吉は兵を出すと表明し、一方の家康も三河で城の普請を急ぎます。
しかし、まさに一触即発の状況となった天正十三年(1585年)11月29日の夜、巨大地震が東海から近畿を襲いました。
いわゆる天正地震です。
秀吉が徳川攻めのために兵糧や弾薬を蓄えていた美濃の大垣城は全壊焼失し、秀吉方の多くの大名も被災したことはドラマでも描かれましたね。

天正地震イメージイラスト
一方、徳川領の被害は軽かったとされ、秀吉は出陣を見送って融和路線へ切り替えます。
地震がなければ、そのまま戦争になっていた可能性は高いでしょう。
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秀吉の家康潰しを阻んだ天正地震とは?頓挫した侵攻計画と崩れた城
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ただし、家康が助かったのはあくまで偶然です。
信濃の大半を失い、宿老にまで逃げられた徳川家に、余裕などありません。
ならばなぜ家康は、地震のあとも上洛を見合わせたのでしょうか?
実は家康は2月に臣従を受け入れていた
史実では、地震から約2ヶ月後の天正十四年(1586年)1月27日に織田信雄が岡崎城を訪れています。
徳川家康と対面して秀吉との和睦を取り持ったのです。
あさひが嫁入りする前のことであり、家康もこの調停を受け入れました。

徳川家康/wikimedia commons
研究者の柴裕之氏は著書『徳川家康 境界の領主から天下人へ』の中で、秀吉との和睦と臣従の受け入れは、相次ぐ離反に揺れる徳川が事態を打開するための政治対応だったと指摘しています。
2月になると秀吉は家康を「赦免した」と諸将に知らせ、2月30日付で真田昌幸ら反徳川勢力に停戦を命じました。
このとき秀吉は真田に対して「家康が人質を出し“如何様にも秀吉次第”と頼み込んできたので許した」と勢いよく伝えています。
いかにも秀吉が勝って、家康が頭を下げたような書きぶりですね。
しかし実際はどうか。
研究者の藤井讓治氏は著書『徳川家康 人物叢書』の中で、妹を家康の正室として三河へ送ることを決め、甲斐・信濃の支配も家康に任せたことから、秀吉優位の一方的な和睦ではなかったと指摘しています。
家康にしても、背後にいた北条氏政と伊豆の三島、駿河の沼津で2度も会見し、同盟関係を確認し合っていました。
合戦になることも念頭に入れながら「従うことは決めている」ような状況であり、「臣従を拒み続けた」というのは厳密に言えば正確ではありません。
家康はあくまで、十分な保証がないまま大坂へ出向くことを懸念していたのです。
では、あさひとの縁組でその状況はどう変わっていったのでしょう?
あさひとの婚姻でも家康は上洛しなかった
徳川家康は臣従にあたり、縁組みを求めました。
これを受けて天正十四年(1586年)4月、秀吉の妹・あさひの輿入れが決まりました。
ここで一悶着。
家康がお礼の使者として天野景能(のちの天野康景)を送ると、秀吉は「知らない者をよこすんじゃない」と激怒!
さらには「酒井忠次か本多忠勝か榊原康政にしろ」と求め、輿入れは延期されてしまいました。
秀吉、どんだけミーハーなの?と思われるかもしれませんが、一応の事情があったことは、以下の記事をご参考にしてください。
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秀吉に「徳川四天王を遣わせい!」と叱られた家康|徳川内と世間の家格ギャップよ
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最終的に本多忠勝が遣わされ、5月14日、あさひは浜松城へ輿入れしました。
このとき家康は45歳、あさひは44歳です。

朝日姫(旭姫)/wikimedia commons
※あさひと前夫・副田吉成の離縁については、前回の史実解説で取り上げています
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あさひと副田吉成夫妻は本当に秀吉が離縁させたのか?豊臣兄弟第40回史実解説
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婚儀から10日後の5月24日、家康は遠江の二俣城に集めていた三河衆の人質を返し、秀吉に備えて築いた三河の東部城(とうべじょう)の破却を命じます。
徳川軍はもう臨戦態勢を解いていたんですね。
6月になると、上杉景勝や木曾義昌も相次いで上洛しており、家康の周辺でも、秀吉との関係を深める動きが進んでいました。
それでも家康は動きません。
実はこの夏には、話が二転三転する出来事もありました。
秀吉は、上洛してこない真田昌幸を見限り、家康に「真田成敗」を許可します。
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真田家臣団40人超を一気に整理|幸綱・昌幸・信之・信繁は誰を従えた?
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家康は7月に駿府まで出陣しましたが、上杉景勝の取りなしを受けた秀吉が仲介に入り、8月には出陣を取りやめることになりました。
真田への攻撃を許すと言っておきながら、一転、直前で止める――これが不信の原因となって、上洛を渋ったとまでは言えません。
しかし、上洛中の身の安全や領国の扱いを、家康が慎重に見極めようとしたのは不自然ではないでしょう。
では家康が最後に求めた条件とは、いったい何だったのか?
家康が求めたのは上洛中の安全保証
天正十四年(1586年)11月に迎える正親町天皇の譲位式。
秀吉はその前に徳川家康を上洛させ、どうしても臣従の姿を天下に示したかった。
一刻の猶予もならない状況です。
そこで9月26日、秀吉の使者・浅野長吉(のちの長政)らが岡崎城へ出向いて話し合い、上洛の話が決められました。
家康はその際、自身の身に危害が及ばぬよう安全の保証を求めます。
これに応えて秀吉が差し出したのが、母の大政所だったのです。

大政所(なか)/wikipediaより引用
表向きは、娘のあさひを訪ねるという名目だったとされます。
ドラマでは大政所自身が「私が徳川に行けば」と申し出ていましたが、大政所が自ら申し出たことは確認できません。
いずれにせよ大政所の三河入りが決まり、家康の上洛はいよいよ動き出します。
当時の状況を日付で整理するとこうなります。
◆大政所の岡崎入りと家康の上洛(天正十四年)
10月13日:大政所が大坂城を出発
10月14日:家康が浜松城を出発
10月18日:大政所が岡崎城に到着
10月20日:家康が岡崎城を出発
10月24日:家康が京都に到着
10月26日:家康が大坂に到着し、秀長の屋敷に入る
10月27日:家康が大坂城で秀吉と対面
研究者の福田千鶴氏は著書『江の生涯 徳川将軍家御台所の役割』の中で、大政所が岡崎に着いたのを確認してから家康が上洛したと記しています。
人質が三河に入ったのを見届けて、ようやく岡崎を発ったのです。
家康は6万もの大軍を引き連れようとした?
ドラマでは家康が6万もの大軍を引き連れていくと書状に記していました。
実は出どころがあります。
奈良の興福寺の僧が記した『多聞院日記』に、家康の供が「六万騎程」とあるのです。
しかし藤井氏はこれをかなり過大としており、大坂へ下ったときの人数は3000ほどだったと見積もっています。
臣従は決まっていて、大政所を人質に押さえており、6万もの大軍は必要ありません。
10月26日の夜、秀吉は家康の宿所である秀長の屋敷を自ら訪れました。

豊臣秀吉/wikimedia commons
徳川家臣の『家忠日記』によると、秀吉は家康の手を取って奥の座敷へ招き、思いを語ったうえで酒盛りとなったそうです。
秀吉がまず家康に酌をし、次に家康が秀吉に返す。
ドラマで秀長が大坂城の弱点を明かしたり、戦への本音を語ったりしていた場面は創作であり、刺客に矢を放たせたのも演出でしょう。
あんなことしたら、さすがに秀吉もブチ切れて、仮に秀長が殺されていたら家康も生きて大坂を出られないはず。
「豊臣秀長が政権を支える超重要人物であった」
そんな設定を劇中であらためて大袈裟に描いたと言えそうです。
ともかく史実では翌27日、家康が大坂城に登り、秀吉への臣従を公の場で示しました。
二人の有名なエピソードでもある、陣羽織のシーンも描かれましたね。
『家忠日記』には「唐の羽織」を贈った記録がありますが、劇中の具体的なやり取りまで史実とは言えないでしょう。
こうして家康は秀吉の家臣になったわけですが、それは心からの降参だったのでしょうか?
臣従によって家康は何を得たのか
11月5日、徳川家康は秀吉に従って参内し、秀長と同じ正三位権中納言に任じられました。
柴氏は、秀吉が義弟となった家康を、羽柴一門に匹敵する親類として扱っていたと見ています。
しかも秀吉は、家康から離れた真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌を、再び家康のもとへ付けると約束しました。
もっとも真田はすぐには従いません。
家康のもとへ出頭するのは翌天正十五年(1587年)3月のことでしたが、徳川にとっては信濃で失いかけた勢力圏を秀吉の権威で取り戻せる条件でした。
その代わりに家康が任されたのが、関東と奥羽の大名たちの争いを止め、豊臣政権に従わせる「関東・奥両国惣無事」の役目です。

北条と同盟し、北関東の大名ともつながりの深い家康は、東国を任せるのにうってつけの人物。
家康はそこで、12月4日に本拠を浜松から駿府へ移しました。
一方の大政所は、家康が11月11日に尾張の大高まで戻ったのを受けて、翌12日に上方へ帰っています。
人質の役目は、家康が無事に戻った時点で終わったわけです。
秀吉はこの関係を「入魂」と表現しており、藤井氏は、そこには両者の対等な要素がなお残っていたと見ています。
◆家康が臣従で得たもの
・5カ国の領国の保証
・秀長と並ぶ正三位権中納言の地位
・離反した信濃国衆を再び付けるという約束
・関東と奥羽を取りまとめる役目
なお、あさひはその後、母の病で上京し、一度は岡崎へ戻ったものの、再び上洛して京都で過ごし、天正十八年(1590年)1月14日に聚楽で亡くなっています。
まとめ
徳川家康は、秀吉との力の差が分からずに意地を張っていたわけではありません。
秀吉に従うこと自体は、天正十四年(1586年)2月の時点で受け入れましたが、それでも上洛には慎重で、最終的に求めたのが、身の安全の保証でした。
大政所の岡崎入りは、その交渉を決着させる最後の条件。
結果として家康は5カ国の領国を保ったまま、豊臣政権の中で秀長と並ぶ親類格へ入りました。
「負けを認めなかった8ヶ月」ではなく、「徳川家を残す条件を整えた8ヶ月」と言えるでしょう。
ドラマの最後に、出奔した石川数正と再会して酒を酌み交わすシーンがありました。
そこで家康が「長生きしてやる」と語っていた決意は、後に徳川政権を見据えてのことのようにも見えました。

石川数正と徳川家康のイメージイラスト
ただし、後の展開を知る私たちの受け止め方と、この時点の家康の内心は分けて考える必要があります。
江戸幕府を開いた人物だけに、野心を心に秘めていたと思ってしまうところですが、家康が本心から秀吉に屈服していた可能性も否定はできません。
今後の家康は秀吉に従い、小田原合戦から奥州仕置きへと向かっていきます。
その相手となる北条氏政・北条氏直の父子や、同合戦については以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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参考文献
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書』(2020年1月 吉川弘文館)
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 平山優執筆・監修『豊臣秀長 秀吉を支えた生涯』(2026年1月 サンニチ印刷)
- 福田千鶴『江の生涯 徳川将軍家御台所の役割』(2010年11月 中央公論新社)








