大河ドラマ『豊臣兄弟』でも話題になった柴田勝家と賤ヶ岳の戦い。
史実においては、勝家の敗北が最初から決まっていたも同然――なんて言うと、一見、語弊がありますが、否定しきれない部分もあると思います。
長浜城です。
もともとは秀吉の本拠地だった北近江の重要拠点。
清須会議で勝家の支配下となりますが、そのわずか6ヶ月後、長浜城主がアッサリと秀吉方に寝返ってしまうのです。
しかもその城主とは、勝家の甥であり養子でもある柴田勝豊でした。
身内で跡取り候補でもあった人物が秀吉方へ降ってしまうのですから、どう見ても勝家の大失態であり、長浜城のすぐ北で行われた賤ヶ岳の戦いで負けても当然と思いませんか?
同時に、気になるのは柴田勝豊です。
ドラマには一切でてこなかったこの武将が、実は秀吉と勝家の覇権争いに大きく影響していたのですから、無視しておくわけにもいかない。

本記事で柴田勝豊の事績を振り返ってみましょう。
柴田勝豊は勝家の後継者だった
柴田勝豊とは、そもそも何者なのか。
系図研究者の菊地浩之氏によると、柴田勝家の姉とその夫・吉田次兵衛との間に生まれた子で、勝家にとっては甥であり、後に養子となった人物でした。
注目したいのが、当初の立ち位置です。
柴田家の家督は勝豊が継ぐ予定だった、というのが菊地氏の見解。
実際、天正三年(1575年)9月11日の越前平定にともなって、勝豊は、織田信長から豊原城を与えられ、後に丸岡城へ移りました。
研究者の谷口克広氏も著書『織田信長家臣人名辞典』の中で、勝豊と佐久間盛政について以下のような見解を述べています。
佐久間盛政と比べ、戦場での活躍は目立たない。
しかし柴田勝豊は勝家の養子となっているだけに、織田信長や織田信忠からは相応の扱いを受けている。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用
後継者ではある。
ただし、戦場での実績は薄い。
そんな状況だった勝豊は、ある時から柴田家内で徐々に厳しい状況へと追いやられていきます。
いったい何があったのか?
実子・権六と佐久間盛政の台頭
まず一つ目は、柴田勝家の実子・権六が育ってきたことです。
このままでは甥で養子の自分は跡継ぎにはなれない。
かといって戦場では鬼玄蕃・佐久間盛政のようには動けない。

佐久間盛政(鬼玄蕃)を描いた『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』作:楊斎延一/wikipediaより引用
勝豊の居場所がじりじりと削られていきます。
研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で、こうした状況のもと勝豊の心は自然と勝家から離れていったのでは?と指摘しています。
宣教師ルイス・フロイスも、書簡の中で勝豊のことを「勝家に対して不満を抱いていたので反旗を翻した」とストレートに表現。
和田氏は同時に、勝豊が死病に侵されていたことも大きな要因だったと補足しています。
そして柴田勝豊と佐久間盛政の対立については、江戸時代の『武家事紀』にも印象的な場面が残っています。
元旦の盃をめぐる逸話
柴田家では、毎年元旦の祝いの席で、初献の盃をまず柴田勝家から柴田勝豊に差していました。
ところが天正十年(1582年)の元旦、勝家は佐久間盛政に初献を与えようとします。
すると勝豊が「初献は例年の通り」と言って座を立ち、自ら土器を取ると、悠然と飲み干して退出した——。

喜多川歌麿の描いた柴田勝家とお市の方/wikipediaより引用
もう一つ『亀田大隅守一世之内働のおぼえがき之覚書』にも似た話があります。書き残した亀田大隅高綱は、勝豊に仕えたともいわれる人物です。
勝家が越前へ入国した際に一揆が蜂起し、盛政に先陣を命じたところ、勝豊も対抗心を燃やして先陣を望んだというもの。
いずれも成立時期や物語の性質から史実とは断定できませんが、勝豊が盛政に対抗心を燃やしたことはあり得ると考えられ、それが妥当ゆえ後世へ伝えられたのでしょう。
そんな勝豊に、思いもよらぬ“機会”が降りかかってきます。
秀吉が勝豊を長浜城主に望んだのか
天正十年(1582年)6月に本能寺の変が勃発。
その後の清須会議で柴田勝家は、近江の長浜城を自身の支配下に置くこととなりました。
会議で獲得した唯一の所領であり、同時に北陸から畿内へ出るための足がかりとして非常に重要な地点と言えます。
東へ向かえばすぐに岐阜ですから、織田政権全体にとっても影響力のある地でした。
ところが一歩目の段階で勝家は、早くも危うい決断を下してしまいます。
長浜城を勝豊に任せたのです。
いったい何を考えていたのか?
柴田家にとって長浜城は、最前線にある境目の城であり、最も信頼できる重臣しか置けない拠点。
特に、羽柴秀吉との関係が危うい時期であれば、いつも以上に城主選びを慎重にする必要があったでしょう。
それを、見るからに不満そうな状況の勝豊に任せてしまう……。
あるいは勝家には、その点が一切見えなかったのか?

現在の長浜城
実は、勝豊の配置については「秀吉が絡んでいた」という話も伝わっておりまして。
『賤嶽合戦記』によると、勝家が上洛の中宿にするため長浜城が欲しいと要求したところ、秀吉は渋りつつ条件を付けたといいます。
「玄蕃殿(佐久間盛政)を嫌っているわけではないが、ここはご子息の柴田勝豊殿に渡したい」
『武家事紀』にも「勝家は長浜城を佐久間盛政に与えるつもりだったが、秀吉が古くからの親友である勝豊に与えるように希望した」という似た話があります。
いずれも江戸時代の書物ですから鵜呑みにはできませんが、秀吉が新たな長浜城主として柴田勝豊を指名していたことはあり得そうな話です。
逆に佐久間盛政であれば、陥落させるのが非常に困難となったでしょう。
いずれにせよ勝豊が長浜城主になったのは史実。
秀吉にとっては千載一遇のチャンスでした。
越前一国と北国の総大将
長浜城を柴田方に明け渡してからの秀吉の動きは実に素早いものでした。
『余呉庄合戦覚書』によれば、同年11月中旬に湯浅甚助を長浜城へ派遣。
家老の徳永石見守、与力の大鐘藤八郎、疋田左近、山路将監(正国)、木下半右衛門、神谷越中守といった勝豊の家臣たちに会い、条件を提示します。
※「大鐘藤八」は史料により「大金藤八」とも表記されます
【意訳】今度、味方にきてくれるなら、大名に取立てよう。
特に柴田勝豊殿とは、内々に親しく話し合うつもりであり、今より少しも疎遠にはしない。
皆が秀吉に協力してくれるなら、まず越前国、ひいては北国の総大将になっていただきたい。
越前一国と、北国の総大将——柴田勝家が有するものをそのまま差し出すという条件ですから、かなり大胆な話というか、ホラ話では?とも思えますよね。
しかし、勝家に疎んじられていた(と感じていた)勝豊や家臣団にとっては、強く響く条件だった可能性があります。
天正十年(1582年)12月。
秀吉が五万の兵を率いて近江へ進軍し、長浜城を遠巻きに包囲すると、勝豊は抵抗することもなく人質を差し出し、降伏しました(『兼見卿記』)。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
越前は雪に閉ざされ、勝家は救援に動けない。
雪で援軍を出せない以上、勝家としても降伏は認めていたという指摘もあります(『小早川家文書』『鎌田善弘氏所蔵文書』)。
ただ、その後の勝豊の動きについては、勝家にとって想定外だったでしょう。
勝豊方の与力が秀吉軍に加わる
秀吉は、降伏後の勝豊に寛大な措置を取ります。
長浜城主の座にそのまま留め置き、人質を取った程度で済ませている。
しかし、勝豊が差し出したのは城だけでなく、与力の大金藤八と山路将監を代理として秀吉に加勢させました。
こうなると単に秀吉に降ったという話では済まず、叔父であり養父でもある勝家を裏切ったことになる。
ただし、この話は慎重に見るべき部分もあります。
まず翌年、天正十一年(1583年)閏1月29日付で、勝家から勝豊に対して書状が送られます。
中には、秀吉に差し出された勝豊の人質が脱出し、それに対して「上出来である」と喜ぶ文言が記されていました。
つまりこの時点での勝家は、勝豊がまだ味方だったと考えていたことになる。

柴田勝家/wikipediaより引用
しかし、秀吉の2月7日付・9日付の書状を見ると、勝豊の宿老らが「人質七人」を差し出してきたとも記しています。
一体どういうことか?順番としてはこうなりましょう。
・最初に差し出した人質は確かに脱出したのかもしれない
・しかしあらためて家老衆が七人の人質を提出してきた
・勝豊の意思とは無関係に、長浜城全体が秀吉方になっていた可能性がある
もはや勝豊関係なく、長浜城は秀吉のものになっていた――と読み取れるんですね。
実際、丹羽長秀の2月27日付書状には、たとえ勝家軍が進軍してきても「勝豊や堀秀政を配置しているので安心してほしい」とまでありました。
このとき勝豊はどうしていたのか?
賤ヶ岳決戦の直前に京都で病没する
先ほどルイス・フロイスの言葉に「死病」とあったように、柴田勝豊は病床にいました。
それだけに「勝豊の周囲は秀吉方で固められ、当人の意向がどこまで反映できていたのか不明」とまで評されるほど。
操り人形と化していた可能性も指摘されています。

興味深いのが、秀吉の対応です。
天正十一年(1583年)3月21日付で当代の名医・曲直瀬玄朔に対して「大病を患っている柴田勝豊が上洛するので治療に専念するよう」申し付けているのです。
療養中の勝豊のもとには、秀吉方の丹羽長秀も見舞いに訪れました。
そして天正十一年(1583年)4月16日、京都で病没。
秀吉が2万の兵を率いて岐阜の織田信孝を攻めるべく美濃大垣へ向かった日ですね。
賤ヶ岳の決戦はその5日後、4月21日でした。
山路正国の寝返りが大岩山奇襲につながる
先に触れたとおり、勝豊の降伏によって、その家臣団はすでに羽柴軍へ組み込まれていました。
賤ヶ岳では秀吉軍の第二陣に配置され、病床の勝豊に代わって家臣が堂木山砦を守っています。
ただし元は柴田方ですから、内応を疑われてる者がいて、いざ戦いが始まると、実際に羽柴軍から飛び出して再び柴田方へ出戻る将兵が現れます。
その代表例が山路正国(やまじ まさくに)です。
-

賤ヶ岳の本当の裏切り者は山路正国だった?家族7人逆さ磔と伝わる壮絶な結末
続きを見る
元々は佐久間盛政の配下だった正国は、秀吉方の弱点が大岩山砦であることを報告。
それを聞いた盛政が突撃して中川清秀を討ち、戦局は大きく動きました。
-

中川清秀は裏切り者なんかじゃない!秀吉に義兄弟と認められた実力者の最期
続きを見る
盛政は勝利のあとも大岩山に留まり、そこへ美濃から秀吉が戻ってきたり、前田利家が退陣するなどして、柴田軍は無念の敗北——というのが賤ヶ岳の結末ですね。
長浜城の明け渡しから、実に4か月後の出来事。
自分が明け渡した城が拠点となり、自分が差し出した与力が寝返りを起こし、養父が滅びていく。
その一部始終を、勝豊は見ることなく世を去ったわけです。
★
柴田勝家を窮地に追い込んだのは勝豊だったのか。
勝豊本人が積極的に養父を売ったとまでは断定できません。
病床にあり、周囲を秀吉方に固められ、家臣団の意向も絡んでいた可能性があります。
しかし、長浜城が秀吉方に押さえられ、山路正国ら勝豊方の与力が賤ヶ岳の局面に関わったことは動かせません。
本人の意思とは別に、勝豊をめぐる処遇と長浜城の喪失が、勝家を窮地に追い込んだ大きな要因だったと見るべきでしょう。
なお、以下は柴田勝家の家臣団をまとめた記事となりますので、よろしければ併せてご覧ください。
-

柴田勝家の家臣団はなぜ崩れた?利家や成政は「直属の武将」ではなかった
続きを見る
【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年 吉川弘文館)
- 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳』(2015年3月 洋泉社)
- 菊地浩之『織田家臣団の系図』(2019年9月 KADOKAWA)



