大河ドラマ『豊臣兄弟』で、宮崎あおいさんが演じていたお市の方。
北庄城で柴田勝家と最期を迎える場面が話題になりましたが、そもそも彼女が注目されるのは信長の妹ということだけでなく「秀吉と勝家が奪い合った戦国一の美女」というイメージも根強いからでしょう。
そんな彼女の経歴には、妙な空白があります。
天正元年(1573年)に浅井家が滅んでから天正十年(1582年)に清須会議が開催されるまで、およそ10年間、お市の方は再婚をしていません。
信長の妹ならば、すぐに政略結婚へ出されてもおかしくなさそうなのに、一体なぜなのか?
戦国一の美女という噂が本当ならば、引く手あまただったのでは?

お市の方/wikimedia commons
最終的に勝家と結ばれ、すぐに死を迎えた、お市の方の10年を見てみましょう。
浅井家滅亡から清須会議までの10年
お市の方が織田家の庇護下で過ごした10年とは一体どんな期間だったのか?
一大転機となったのは、やはり天正元年(1573年)9月のこと。
夫・浅井長政が小谷城落城と共に自害し、彼女は浅井三姉妹こと三人の娘と共に城を出ると、その後は実家の織田家に引き取られました。

浅井長政/wikimedia commons
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証でもある黒田基樹氏は著書『お市の方の生涯』の中で、彼女は浅井長政後室として実家・織田家の庇護を受け続けていたと記しています。
本能寺の変で信長が敗死するまで約10年。
その期間、兄・信長の命によって他者に再嫁することはなかったのです。
天正期といえば、織田家が急拡大した時期でもあり、各地の諸勢力に対して同盟や調略などを展開していた時期だけに、政略結婚は非常に重要な一手だったはず。
なのになぜ、お市の方は実家にいたのか。
お市の方の生年は天文十九年頃か
彼女が実家にいた一つの理由は年齢かもしれません。
兄の織田信長に夫の浅井長政が死に追いやられ、実家で落ち着くまで一定の期間を過ごし、気がついたら彼女の年齢も30歳前後になっていた。

織田信長/wikimedia commons
30歳にもなれば、よほどの事情がない限り再婚は考えられなかったと黒田氏は指摘します。
戦国大名家の女性が政略結婚で結ばれる年齢は通常18〜19歳で、第一子の出産は20〜21歳あたりが標準的。
そこから逆算すると、お市の方の生まれは天文十九年(1550年)頃と見られます。
『柴田勝家公始末記』では天文十六年(1547年)生まれとしていますが、それだと初婚21歳・初産23歳となって当時としては遅く、現在は天文十九年頃という見方が有力です。
つまり浅井家が滅んだのは23〜24歳頃となり、本能寺の変を迎えたときには32〜33歳になっていた計算。
政略結婚の目的の一つは両家をつなぐ子を産むことですから、その見込みが薄くなれば再婚の機会が減るのも自然な話でしょう。
冷たい話でも、現実にそういう時代でした。
しかし、です。
浅井家が滅んだ時点では、まだ20代半ばの計算になりますから、再婚してもおかしくない年齢です。
「天下一の美人」はいつ生まれた評判か
ここで気になるのが、お市の方とセットで語られる「天下一の美人」という評判でしょう。
美貌にそれほどの評判があったのなら、年齢に関係なく申し込み多数——そんな下衆の勘ぐりもしてしまいますが、この「天下一」という評判、実は典拠が一つしかありません。
『祖父物語』という書物で、尾張在住、柿屋喜左衛門の祖父が語った話をまとめたもの。
そこに「天下一の美人の聞こえ有りければ」と記されているのです。
ただ、問題は同書の成立時期でして。
かつては慶長年間(1596〜1615年)頃と見られていましたが、文中に「淀殿」という呼称が使われている点がおかしい、と指摘されるようになりました。
なぜなら、この呼び方が広まるのは17世紀の後半以降ですから、『祖父物語』が書かれたのはお市の死から100年以上後になります。
「天下一」とまで言えるかは、かなり怪しいですね。
しかし、他にも彼女を美人とする記録はあります。
『渓心院文』という文書です。
浅井三姉妹の次女・お初(常高院)お付きの女性が書いたもので、北庄城で羽柴軍に娘たちを引き渡すお市の方を見て、こう記しています。
【意訳】たいそう美しい方で、年齢は22〜23歳に見えるぐらいでした
【原文】ことの外御うつくしく御とし頃より御若かに御廿二、三にもみえさせられ候
当時、お市の方は34歳ほどですから、一回りほど若く見えた計算ですね。

喜多川歌麿の描いた柴田勝家とお市の方(浅井家を示す小谷の方と記されている)/wikipediaより引用
お肌ツヤツヤだったのか。
顔立ちが美しくて輝いて見えたのか。
いずれにせよ美人だったこと自体は当時から認識されていたようですが、天下一かどうかまでは分からないというのが現在の見方です。
ならば余計に、浅井長政と死別した直後に再婚の機会があってもよさそうです。
実際、そうなっていないのは、長政を自害へ追い込んだ信長が、これ以上余計な心労をかけさせたくないと考えたのか。
あるいはお市の方のもとで浅井三姉妹の成長を待ち、彼女たちを政略結婚にと考えていたのか。
信長の真意は不明であり、結局、動きがあったのは本能寺の変直後となりました。
勝家との再婚は清須会議で決まっていた
天正十年(1582年)6月27日の清須会議。
羽柴秀吉や柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興らの宿老によって新たな織田体制が話し合われたこの席で、お市の方と勝家の結婚が取り決められました。

清須会議四宿老の肖像画/wikimedia commons
根拠となるのが、同年10月6日付で勝家が堀秀政に宛てた覚書です。
【意訳】一つ、羽柴秀吉と申し合わせた話に相違はない。ちなみに(自身とお市の方の)縁組も進んでいる。
【原文】一つ、羽筑と申し合わす筋目、相違無き事、付けたり、縁辺の儀、弥其の分に候
清須会議での申し合わせがどこまで実行されたか。
勝家が堀秀政に向けて報告した文書であり、その一条目は「秀吉との取り決めに変更なし」でした。
お市の方の縁談は、その付け足しとして記されていますので、この結婚は勝家と秀吉の間で交わされたことがわかります。
なお、結婚は7月中だった可能性が高いと目されています。
清須会議での決まり事が実行に移り始めたのが8月上旬であり、そして次にポイントとなる日が9月11日でした。
この日、お市の方は何をしていたのか?
お市の方が信長の百日忌を営んだ意味
天正十年(1582年)9月11日は、信長の法要でした。
京都の妙心寺でお市の方が百日忌を主催。
実はそれまで信長の葬儀は行われておらず、百日忌を営んだ記録が残っているのは、信長の乳母だった養徳院(池田恒興の実母)と、お市の方の2人だけです。
信長には母や正妻、信雄、信孝という息子たちがいましたが、彼らが法要を営んだ記録は残っていません。
逆にお市の方が、法要を主催できるだけの立場だったということになります。
それは一体どんな立場なのか?
あくまで推測ながら、彼女が信長の母・報春院と養子縁組していたか、あるいは信長の養女とされていたか、いずれにせよ織田家嫡流にいた可能性を匂わせます。
同時に見逃せないのが、お市の方がすでに越前北庄城に住んでいたという点でしょう。

現在は福井城として知られる北庄城(北ノ庄城)
わざわざ京都まで上って、法要を営んでいるんですね。
当時の織田家は、信雄と信孝の国境紛争、三法師をめぐる主導権争いで揺れていて、勝家も9月3日、丹羽長秀への書状で羽柴秀吉の動きに警戒を示しています。
そんな混沌とする状況の最中に行われた百日忌です。
勝家陣営が、織田体制における主導権争いで優位に立つための一手と考えるほうが自然でしょう。
実際、その1か月後、10月中旬には秀吉も信長の葬儀を大々的に行っています。
信長の五男・御次秀勝を喪主として、京都大徳寺で派手な葬儀を強行するなどして、織田家のトップ争いを演じているのですね。
秀吉と勝家が奪い合った史料はあるのか
ここで思い出されるのが、例の有名な話ではないでしょうか。
秀吉と勝家がお市の方を取り合った——。

柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画/wikimedia commons
ドラマや小説では必ずと言っていいほど描かれる場面ですが、同時代史料では確認できません。
そのような史料はどこにもないと黒田氏も指摘しており、では、あの話はどこから来たのか?というと、出どころは2つあります。
『村井重頼覚書』
まずは前田利家の家老・村井長頼の子である村井重頼が、晩年に書いた覚書です。
そこにはこうあります。
秀吉と勝家は、共にお市の方との結婚を望んでいた。
ところが織田信孝が、秀吉にはすでに妻がいるとして、こう言い放った——。
【意訳】もう馴染みの女がいるというのに、信長さまの妹を腰元(女中)扱いにするつもりか
【原文】なじみの女をもち申し候に、信長のいもとをこしもとつかいに仕るべしとの事か
なかなか強烈な断り文句ですね。
そのうえで信孝は、勝家には妻がおらず若い頃から織田家に忠功を尽くしてきたと主張し、お市の方自身もこれを支持して勝家と結ばれたという筋書きです。
『祖父物語』
もう一つは、先ほど「天下一の美人」と記されていたと紹介した書物ですね。
『祖父物語』での話はこう。
お市の方は天下一の美人と評判だったため秀吉が望んだ。ところが勝家が岐阜城へ出向き、城主の織田信孝と手を組んで、お市の方を自分の妻にした——。
どちらも織田信孝の働きかけで勝家に決まったという構図です。
話の流れが共通しているので、元になる話があったようにも思えてしまいます。
『村井重頼覚書』と『祖父物語』の問題点
では、この話は事実なのかというと、評価はなかなか厳しいものでした。
後世の人々による「低俗な憶測」の可能性が高いと指摘されるのです。
理由は3つ挙げられています。
◆どちらの史料も成立が江戸時代前期の後半以降である
◆元の話があったとしても結局は伝聞の可能性が高い
◆秀吉と勝家の間で起きた「権力抗争の理由」を見いだそうとする中で、こじつけで生まれた話のようだ
決定的なのが、時系列が合わないという指摘です。
『祖父物語』は「清須会議によって岐阜城主となった信孝のもとに勝家が訪れて、結婚を実現した」と記しています。
ところが結婚は、その清須会議の席で取り決められていた。
信孝が岐阜城に入る前に、話は決まっていたわけです。
要は、そんな出来事は起こりようがないんですね。
なぜ再婚相手は柴田勝家だったのか
お市の方がなぜ10年も経ってから再婚したのか。
理由を示す史料がない以上、ここからは推測になりますが、候補として考えられるのが織田家内の姻戚関係でしょう。
清須会議を主導した四宿老を並べてみると、こうなります。
◆羽柴秀吉……信長五男の御次秀勝を養嗣子に迎えていた
◆丹羽長秀……信長の庶兄・織田信広の娘を妻とし、嫡男の丹羽長重には信長の娘が嫁いでいる
◆池田恒興……信長とは結びつきが強い乳兄弟の間柄
◆柴田勝家……織田家一族との姻戚関係がない
勝家だけが、織田家と血縁などの強い関係で結ばれていなかったのですね。

柴田勝家/wikipediaより引用
確かに、勝家の実子・権六には信長の息女が嫁いでいたとする史料もありますが、実際は不明ですし、何か一つ縁を作ったほうがよい状況であることは間違いない。
新体制の双璧が秀吉と勝家である以上、勝家も同等の関係を持たなければ釣り合いません。
当時の信長の男子で秀勝より下の者はまだ元服前で、娘たちも結婚には年少すぎる。
そこで残された選択肢が、信長の妹だったのですね。
なお、当時、後室として存在していた信長の姉妹は4人いました。
犬山殿と乃夫殿には男子がいて母という立場ですし、小林殿は信長とあまり変わらない年齢と見られる。
対するお市の方は33歳ほど。
当時としては高齢となりますが出産も不可能ではなく、男子がいないため婚家の存続を気にする立場にもない。
※さらにお市の方は、信長の母・報春院と養子縁組したか信長の養女とされたか、信長の嫡流筋に位置づけられていたと推定されています
条件が合いやすかったわけです。
そしてもう一つ、この結婚と同時に、秀吉の領国だった長浜が勝家に引き渡されています。
長浜とは、かつての浅井家の旧領。
お市の方は北庄へ移ったあとも「北庄の御方」ではなく、「小谷の御方」と呼ばれ続けました。
旧浅井領を名目上受け継ぐ存在として認識されていたとすれば、結婚と領地の移動は一体のものだったことになります。
お市の方は再婚を拒めたのか
この話を持ちかけられたお市の方は、どう思ったのでしょうか。
史料にはありませんが、置かれた立場からある程度は見えてきます。
本能寺の変までは、織田家当主・織田信忠の庇護を受けていました。
その信忠が死に、新当主となった三法師はまだ3歳で、

『絵本太閤記』に描かれた豊臣秀吉と三法師/wikipediaより引用
実質的な庇護者は勝家・秀吉・丹羽長秀・池田恒興の四家老ということになります。
彼らがお市の方と勝家との結婚を取り決めたのだから、もはやお市の方に否やをいう権利はありません。
どうしても嫌なら出家という道はありましたが、その場合はまだ年少の三人の娘を養育できなくなってしまいます。
そこが決定的だったのではないでしょうか。
娘たちを育てることが最優先だったとすれば、清須会議の取り決めを受け入れるしかありません。
とはいえ相手は家老筆頭ですから、話としては決して悪くないでしょう。
そうして結婚に至ったというのが自然な流れでしょう。
お市の方と柴田勝家の再婚まとめ
浅井滅亡から約10年間、実家にいたお市の方。
信長の真意は不明ですが、再婚しないことを許されていたのは、あくまで信長が生きていた時までです。
清須会議で織田家が四宿老体制になってから柴田勝家に嫁いだのは、織田体制でバランスを取るためだったのでしょう。
戦国一の美女ゆえに、秀吉と勝家が奪い合ったというのは創作。
いざ再婚してから先のことは、創作なんかよりはるかに劇的で、勝家とお市の方は北庄城で最期を迎えました。
浅井家が滅んだとき、城を出されたことが悔しい——お市の方が後年そう語っていたと、先ほどの『渓心院文』は記しています。原文では「御くやしく候」。

お市の方/wikimedia commons
それゆえ北庄城で娘たちを送り出したあと、柴田勝家に殉じたのは本望だったのではないでしょうか。
北庄城でどんな最期を迎えたのか、その詳細は以下の記事にまとめてあります。
また、清須会議後に呆気なく秀吉軍に敗れてしまった柴田勝家の家臣団については、以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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【参考文献】
- 黒田基樹『お市の方の生涯』(2023年1月 朝日新聞出版)
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)

