大河ドラマ『豊臣兄弟』第32回で描かれ、話題になった中川清秀の裏切り描写。
賤ヶ岳の戦いで秀吉を見限り柴田軍へ走った様子が描かれましたが、実は「ホンモノの裏切り者は他にいた」のをご存知でしょうか。
山路正国(やまじ まさくに)です。

山路正国(落合芳幾作)/wikimedia commons
この正国が柴田軍へ寝返ったからこそ佐久間盛政が羽柴軍を奇襲して、その結果、中川清秀が討たれたのです。
史実における清秀は奮戦の末に討死しており、その戦闘を招いたのは正国だったんですね。
それだけにタダでは済まされません。
人質として残された7人の家族は、その後どうなったのか……。
天正十一年(1583年)4月、賤ヶ岳で起きた知られざる悲劇を振り返ってみましょう。
もともと柴田方の武将だった正国
いったい山路正国とは何者なのか?
初めてその名を聞いた方も多いかもしれません。
研究者・和田裕弘氏の著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』によると、正国はもともと柴田勝豊の与力。
勝豊とは、柴田勝家の養子ですから、当初は柴田方の人物だったのですね。

柴田勝家/wikipediaより引用
しかも『余呉庄合戦覚書』によると、この正国はもともと佐久間盛政の配下であり、勝家の命で勝豊のもとに配置されたばかりでした。
そして迎えた天正十年(1582年)12月。
その勝豊が羽柴軍の攻撃を受けて降伏すると、かつて秀吉の拠点だった長浜城は将兵と共に羽柴方へ降ることになります。
主君が秀吉方に降ったのですから、家臣たちはとりあえずは共に行動して他家へ移るしかない。
正国はこうして自分の意思とは関係なく、秀吉方の武将になったという経緯があったため、羽柴軍としても降伏組の将兵たちには警戒心を持っていました。
特にわかりやすいのが、賤ヶ岳の戦いにおける配置でしょう。
正国は同僚の大鐘藤八と共に、越前との国境に近い片岡天神山へ砦を築いていましたが、敵陣に突出しすぎているとして堂木山砦まで後退。
このとき妙な話が流れます。
堂木山砦に、勝家方から調略の手が伸びている——。
秀吉はすぐに動きました。堂木山砦にいた「大鐘藤八・木下一元・山路正国」の三人を外構えへ移し、代わりに自分の家臣である木村定重(通称・小隼人)を砦の守りに入れたのです。
外構えとは、砦の外側にある陣地のこと。
つまり元柴田方の武将たちを防御の中枢から外したわけですね。
秀吉に疑われている――そのことは正国にも伝わったでしょう。
彼は長浜で妻子を人質にとられており、にわかには動き難い状況へ追い込まれていきました。
佐久間盛政が敵陣に撒いた刷り物
一方その頃、柴田方には焦りがありました。
美濃で再挙兵した織田信孝から、救援を求める書状が届いていたのです。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
城がもつうちに助けてほしい――。
柴田勝家が佐久間盛政に相談すると、力ずくの救援ではなく敵陣の守将を引き抜いてしまえ、というではありませんか。
工作は、すでに始まっていました。
盛政は敵陣へ忍びを送り込み、刷り物を何枚も置いていたのです。
長浜城を乗っ取り、勝家に渡す者には金子100枚、知行7000石を与えよう
その効果は大きく、
「あの者はきっと柴田方に走る」
という囁きが飛び交い、公然と名前を挙げられる武将まで出てくる始末。
疑心暗鬼が広がったところで、盛政は次の一手を打ちます。
丸岡十二万石で決まった正国の心
佐久間盛政が狙いを定めたのは、山路正国でした。
理由は明快。
正国はもともと自分の家人であり、勝豊のもとへ移ってまだ日は浅く、まだ自分に親しみを感じているはずだ――そんな盛政の読みは当たっていました。

佐久間盛政(鬼玄蕃)を描いた『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』作:楊斎延一/wikipediaより引用
正国は最前線へ送られ、敵とも思っていない柴田勢と真っ先に戦えと命じられ、その立場に苦しんでいたのです。
さらに秀吉方でも「真っ先に裏切るならば将監だろう」と見ている者が少なくありませんでした。
そこで盛政が送り込んだのが、正国と懇意だった宇野忠三郎です。
忠三郎は夜陰に乗じて堂木山砦へ入ると、腰のものを部下に預けて敵意のないことを示し、正国と差しで向き合いました。
内応を勧められた正国は、なかなか首を縦には振れません。
しかし懐かしさに心がほぐれたところで、忠三郎は勝家の言葉を伝えます。
貴殿が味方してくれるなら、勝豊のかつての知行地・丸岡十二万石を遣わす
正国の心は、決まりました。
なお、ここでひとつお断りさせていただきます。
次段以降の細かな経緯は、江戸時代の軍記物や覚書に記されたもので、そのまま史実とは言い切れません。
ただ、後世の人々がこの寝返りをどう語り伝えてきたのか、ハッキリ見えてきますので、参考までにご覧ください。
茶会に誘い出す計画が漏洩
柴田軍への寝返りを決意した山路正国。
ここで余計なことを考えてしまいます。
砦をこっそり脱け出すのは姑息であるため、正々堂々と裏切り、手土産を持って柴田軍へ馳せ参じたい――その手土産として狙いを定めたのが、監視役である木村小隼人の首でした。
ついでに、最前線で苦労を共にする同僚の大鐘藤八や木下一元も誘って一緒に脱出しよう!
そう決意した正国は小隼人を茶に招くことにします。
我々も長陣で退屈しております。
幸い鱒が一本手に入りましたので、これを肴に明朝ぜひお茶を献じたい。
しばし気晴らしをして、お互い心を慰め合おうではありませんか
4月13日夜、正国が小隼人へ書状を送ると、相手は素直に喜び、茶の席へ出向くことを約束。
小隼人殺害の実行役として正国が選んだのは、与力の今井角右衛門と野村荘次郎でした。
二人は誓紙まで差し出して忠誠を誓います。
しかし、早くもその深夜、野村荘次郎は正国を裏切って小隼人のもとを訪ね、計画を密告してしまうのです。
そんなことは露知らず、なかなか眠れない正国が二人の様子を見に行くと、今井はいるのに野村だけが不在で、しばらく待っても戻らない。
もしや、これは……?
家族を残して敵陣へ走り去った
事ここに至り野村の裏切りを察した正国は、長浜にいる家族を逃がすための手配を始めます。
甥を叩き起こし、家臣二人をつけて長浜へ。
「母と妻子を舟に乗せ、琵琶湖を渡って京都へ逃がせ!」
そして自分は、配下を叩き起こして堂木山砦を捨てると、行市山砦を目指して佐久間盛政の陣へ駆け込みました。
「よく参った」と出迎える盛政。

『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』/wikipediaより引用
一方、長浜の家族は?
老いた母、妻、そして子供が5人、あわせて7人が身支度をして浜へ出ます。
母と妻は先祖の位牌と念持仏、わずかな金子を懐に入れ、霧の中を舟で沖へ出ようとした、そのときでした。
櫓が、水面下の縄に触れてしまいます。
秀吉が鳥取城攻めなどで使った、逃亡防止の仕掛けでした。
水中に縄を張り、その端を竹棹の鳴子につないでおき、何かが触れれば音が鳴る――人質同然だった勝豊家臣の家族が逃げないよう、トラップが仕掛けられていたのです。
カラカラと鳴子が鳴り、飛び起きる秀吉の家臣たち。
数隻の舟が、霧の中にいた一艘の舟を囲みます。
正国の家族7人は、あえなく捕らえられてしまうのでした。
4月16日に7本の磔柱が立った
正国の家族7人は天神山の木村小隼人のもとへ送られ、この一件は田上山の秀吉へ報告されます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
秀吉はこんな指示を下します。
将監によく見えるよう、逆さ磔にして見せしめにせよ
4月16日、急ごしらえの刑場に白い死装束をまとった7人が引き出されると、一人ずつ柱に逆さまに括りつけられていきます。
羽柴方の陣からは鬨の声が上がる。
山路よ、これを見よ。よぉく見るのだ——。
大声が、風に乗って行市山へ駆け上ると、正国は身を震わせながら手を握りしめ、じっと耐えるしかありません。
最期に言い残すことはないか?
刑場でそう問われた妻が答えます。
この期に及んで何も申し上げることはございません。
ただ将監殿(山路正国のこと)の武運長久を草葉の陰から祈っておりますと、お伝え願えれば嬉しゅうございます。
老母と妻、5人の子供たち計7人は、雑兵の槍に突かれて絶命しました。
正国が指し示した地図の一点
話は、正国が柴田軍へ駆け込んだ日に戻ります。
佐久間盛政は山路正国の勇気を讃えると、そのうえで羽柴軍の砦の状況を詳しく聞き出しました。
まず攻めても無駄なところは?
堀秀政の東野山砦から北国街道を横切って続く砦の列、そして堂木山砦と神明山砦は備えが万全である。
神明山には蜂須賀家政の軍勢が入り、守りはさらに厚い。
このままでは、攻めどころがない――そう思ったところで正国が、地図の一点を扇の先端で指し示します。
余呉湖の東岸から南岸にかけて、秀吉が築かせた後ろ側の砦群です。
この三つは、柴田軍が国境の山に長期戦の構えで陣地を築いたのを見て、秀吉が慌てて造らせたものでした。
ゆえにまだ完成していない。
特に大岩山の工事は遅れていて、空堀を掘ったばかりで土塁もまだできておらず、壁も乾いていない。しかも三砦の兵力は、それぞれ1000ほど……。
直前まで羽柴軍にいた武将ならではの貴重な情報がもたらされます。
そこへ、もう一つの報せが入りました。
秀吉が2万の軍を率いて美濃へ向かった――。
一説に柴田軍3万5000に対し、羽柴軍は6万。
この差があるからこそ、勝家は山に籠もって長期戦を選んでいましたが、秀吉の2万が抜ければ4万で互角になる。
そして、どこを狙えば良いかも分かっている!

大岩山砦を守備していたのは中川清秀/wikipediaより引用
正国の証言どおりに崩された大岩山砦
4月20日の早朝、佐久間盛政が余呉湖を大きく迂回し、中川清秀の守る大岩山砦を急襲します。
果たして正国の証言は正確でした。
大岩山の土塁は乾ききっておらず、高さも1mほどしかない。
それでも中川勢はその土塁の内側に張り付き、登ってくる盛政軍へ激しく銃弾を浴びせ、攻め手はバタバタと倒れました。
盛政軍は、兵に従っていた雑人に鍬と鋤、丸太を持たせると、乾いていない土塁に穴を開けさせます。
穴は簡単にあきました。
砦の内側が覗けるようになると、一番乗りを狙う武者たちが旗指物を投げ込んで突入。
中川軍の鉄砲は、たちまち沈黙してしまいます。
やはり大岩山砦は、籠城できるような状態ではなかったんですね。
清秀が「退くな」と命じて打って出たのは、そうするしかなかったからでもあるのでしょう。
かくして佐久間軍と正面から激突することになった中川軍は4時間ほどの激闘となり、清秀もついに討たれてしまうのでした。
繰り返しますが、清秀は裏切ってなどいません。
そのあたりは以下の記事に記しましたので、よろしければ併せてご覧ください。
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中川清秀は裏切り者なんかじゃない!秀吉に義兄弟と認められた実力者の最期
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清水谷で加藤清正に討たれた最期
正国の最期は、その翌日に訪れます。
4月21日、賤ヶ岳の本戦。
家族を殺され、もはや帰る場所のない山路正国は、ここを死に場所と定めたかのように戦いました。
清水谷で向き合ったのが、賤ヶ岳の七本槍でも知られる猛将・加藤清正です。
正国と槍を合わせて突き合いになると、やがて清正がスキを見て正国に組みつきます。
二人はもつれたまま山の斜面を上になり下になりして、20〜30間(約30〜50m)も転がり落ちました。

楊洲周延筆「賤ヶ嶽合戦 加藤虎之助 山路將監」/wikimedia commons
そして最後は清正が馬乗りになって首を絞め、とどめを刺して首を奪う。
清正22才、正国38才。
家族を人質に取られた男が、磔で殺されるところを見せられ、しかも討たれる。
寝返りの代償は、あまりに辛い最期でした。
本記事の史実・創作解説
いったいどこからが史実でどこまでが創作なのか。
本記事をご覧いただき、混乱されたかもしれません。
山路正国を描いた軍記物がよくできていたため、その辺のご理解をお願いすると同時に、最後に「史実」と「創作」を分類しておきたいと思います。
【史実】
◆山路正国が柴田勝豊の与力だった
◆堂木山砦に調略の風説が流れ、外構えへ移された
◆妻子が長浜で人質にとられていた
◆謀反が露見したため敵陣へ走った
◆勝家が正国の情報をもとに佐久間盛政を動かした
◆4月20日に大岩山砦が襲われ、中川清秀が討死した
このうち外構えへの配置換えと、妻子を捨てて敵陣へ走ったことは、同時代の記録である大村由己『柴田合戦記』に見えます。
中川清秀の討死については『兼見卿記』や『多聞院日記』など、同時代の日記にも残されました。
一方、以下の部分は、江戸時代に成立した軍記や覚書に記された内容です。
【軍記物等の描写】
◆正国がもともと佐久間盛政の家人だったこと
◆刷り物による調略と、金子100枚・知行7000石という懸賞の話
◆宇野忠三郎の説得と、丸岡十二万石という恩賞
◆茶会に誘い出す計略と野村荘次郎の密告
◆家族7人が脱出するとき鳴子にかかって捕らえられたこと
◆4月16日の逆さ磔と、妻が最期に遺した言葉
◆盛政の前で地図の一点を指し示した場面
◆大岩山砦の土塁に穴が開いた場面
◆清水谷での加藤清正との組み討ちと正国の討死
元ネタは『余呉庄合戦覚書』『賤嶽合戦記』『佐久間軍記』『柴田勝家公始末記』、そして『太閤記』といったあたり。
つまり、史実における正国家族の最期は不明ということになりますが、軍記が伝えるような磔の可能性も否定できません。
天正五年(1577年)の上月城攻め。
秀吉はそこで降伏してきた城内の者たちを播磨・備前・美作の国境で磔にして、織田家に敵対する恐ろしさを見せつけ、しかも書状の中で得意げに書き残しています。
女子供200余人のうち、子供は串刺しにし、女性は磔に懸けて見せしめとした
こうした事実を踏まえれば、山路正国の家族に同じことをしても不思議ではないでしょう。
ただし、注意しておきたいのは、秀吉だけが特別残酷だったというわけではないということです。
例えば前田利家もそう。

前田利家/wikipediaより引用
越前府中で一揆勢1000人余りを生け捕りにして、磔と釜ゆでに処しており、その事実は小丸城跡から出土した瓦に「はりつけ、かまこいられ」と刻まれていました。
利家だけでなく、柴田勝家も佐々成政も……つまり賤ヶ岳に登場する武将たちの多くが残酷な処刑を行っています。
なお、前田利家と柴田勝家の関係については以下に詳細記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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前田利家は柴田勝家を「おやじ殿」と呼んだのか?知られざる2人の複雑な関係
続きを見る
※賤ヶ岳では他にも磔にされた者たちがいて、後日あらためて記事にします
【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社・中公新書)
- 和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級史料』(2018年9月 中央公論新社・中公新書)
- 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳』(2015年3月 洋泉社・歴史新書)
- 楠戸義昭『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』(2002年6月 毎日新聞社)
- 花ケ前盛明『佐々成政のすべて』(2002年2月 新人物往来社)
【TOP画像】山路正国(落合芳幾作)/wikimedia commons


