織田信長の孫といえば?
清須会議で秀吉に抱えられるシーンでお馴染み、三法師を真っ先に思い浮かべる方が圧倒的に多いでしょう。
では、その他に思い当たる人物はおりませんか?
信長には20人を超える子がいましたから、孫だって相応の人数がいるのですが、ざっと並べると敗者ならではの特徴が見えてきます。
織田姓を継いだ男系の孫が、大名としてほとんど残っていないのです。
娘たちが産んだ孫たちが大藩や名門武家などで血脈を繋ぐ一方、信長と信忠が本能寺の変で亡くなったため織田家の勢力が急速に萎み、男系の家はそう多く残りませんでした。
それでも信長の血は繋がれたわけで、実際、どんな孫たちがいたのか?

織田信長/wikimedia commons
振り返ってみましょう。
嫡流は孫の代で途絶えた
まずは嫡男・織田信忠の子(信長の孫)に注目してみましょう。
長男の三法師こと織田秀信は天正八年(1580年)生まれで、母は摂津の領主・塩川長満の娘とされます。
清須会議を経て、わずか3才にして織田家の家督を継ぎ、その後は岐阜13万3000石の城主として、権中納言までの昇格を許されました。
しかし慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍につくと、岐阜城はわずか1日で落城。
戦後は出家して高野山へ向かい、慶長十年(1605年)5月8日、26才で亡くなります。
子供はおらず、信長の嫡流は早くもここで途絶えました。
では、三法師の弟はどうなったのか。

三法師が成長して織田秀信となる/wikipediaより引用
秀信には天正九年(1581年)生まれの弟・織田秀則(忠信)がいました。
兄と同じくキリシタンで、洗礼名はパウロ。
宣教師からは「たいへん優れた天分をもつ」と評された少年ですが、その行き先がなかなか意外でして。
関ヶ原のあと、秀則は津田左衛門尉と名を改め、越前の結城秀康に召し抱えられるのです。
そして寛永二年(1625年)10月27日に京都で死去。
二女一男がいましたが、男子の子孫は続きませんでした。
結城秀康といえば徳川家康の次男であり、信長の嫡孫の弟は、最後に徳川親藩の一家臣として世を去りました。
※秀則は系図類では秀信と同じ塩川氏の子とされますが、宣教師の記録をもとに異母弟とみる研究もあります
信孝の娘は磔にされ息子は尾張の僧に
三男・織田信孝の子については救いがありません。
天正十年(1582年)12月、秀吉に岐阜城を囲まれて降伏した信孝は、人質を差し出します。
それが生母の坂氏と、幼い娘でした。
翌天正十一年(1583年)、柴田勝家の挙兵に呼応して信孝が再び兵を挙げると、人質は秀吉の手で処刑。
磔にされたと伝わります(『北畠物語』など)。
※ただし、この人質については「信孝の娘」ではなく「妹」とする説もあります(楠戸義昭『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』)
信孝自身も同年5月2日、尾張の野間で26才にして切腹していますが、

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
このとき他に男子はいなかったのか?
研究者の和田裕弘氏は著書『織田信長の家臣団』の中で、尾張で僧侶になった信孝の息子・頓翁の話を紹介していますが、他に主だった系図や人名事典に記載はありません。
家を継ぐでもなく、大名になるでもなく、僧として尾張に残った頓翁は、果たして子を残していたのか?
残念ながら、この先は謎であります。
明治まで残った織田家は2家だけ
暗愚とされがちな信長の次男・織田信雄は73才まで生きました。
この織田家は明治まで大名として続いており、信長の男系で唯一の成功例と言えるでしょう。

織田信雄/wikipediaより引用
ただし、決して華やかな大藩ではなく、家の継続にしても厳しい状況に追い込まれています。
【織田信雄の血筋】
◆長男・織田秀雄(1583〜1610年)……越前大野4万5000石・参議。関ヶ原で西軍について改易となり、父に先立ち28才で死去。嗣子なし
◆次男と三男……早世
◆四男・織田信良(1584〜1626年)……上野小幡2万石を継ぎ、子孫は出羽天童藩2万石で明治を迎える
◆五男・織田高長(1590〜1674年)……大和松山3万1200石を継ぎ、子孫は丹波柏原藩2万石で明治を迎える
残ったのは2万石が2家であり、尾張にも美濃にも織田の名は戻っておりません。
しかも、この織田家にも注意が必要です。
系図研究の菊地浩之氏は『織田家臣団の系図』で、天童藩・柏原藩ともに江戸期の途中で他家から養子が入り、父系でたどると信長の血は繋がっていないと指摘。
柏原藩にいたっては、養子の実家をさかのぼると賤ヶ岳七本槍の平野長泰にたどり着くのだとか。
血筋を追っていたら、途中で別の武家に入れ替わる、養子あるあるな展開ですね。

平野長泰の浮世絵/wikimedia commons
なお、信雄の子(信長の孫)には女子もいます。
小姫(1585〜1591年)は秀吉の養女となり、徳川秀忠の最初の妻になりましたが7才で早世し、代わりに秀忠へ嫁いだのが、浅井三姉妹の江でした。
ほかに、信長七男・織田信高の子である織田高重は、江戸幕府で旗本2000石。
本能寺で討死した織田信房(勝長)の遺児にいたっては、母方の縁で池田家に仕えたとも加賀藩へ入ったともいわれ、詳細はハッキリしていません。
こうして沈んでいった男系の血筋に対し、女系では一転、華やかなものとなります。
まずは徳姫(五徳)から見て参りましょう。
女系の孫は名門大名のド真ん中へ
家康の嫡男・松平信康に嫁ぎ、天正七年(1579年)の築山事件で夫を失った、信長の娘・徳姫。
彼女が産んだ2人の娘は、織田信長と徳川家康の孫でもあり、その生まれに相応しい名門武家へ嫁いでいます。
◆長女・福子(1576〜1607年)……松本城主・小笠原秀政の妻となり、六男二女を産む
◆次女・国子(1577〜1626年)……本多忠勝の嫡男・本多忠政の妻となり、5子を産んで姫路城で死去
この娘2人は家康に養育され、婚姻は秀吉の命という、三英傑の結晶とも言える存在でした。
彼女らと同等に名を成した信長の孫が蒲生秀行(1583〜1612年)でしょうか。
信長の娘・冬姫と蒲生氏郷の間に生まれた嫡男であり、秀行は、父の死後に会津92万石を相続。

蒲生氏郷/wikipediaより引用
その後は秀吉に宇都宮18万石まで減らされますが、関ヶ原の戦いでは東軍について会津へ戻りました。
蒲生秀行の妻は家康の三女・振姫ですから、その子たちは信長の曾孫であり同時に家康の外孫となり、秀行の妹は前田利家の二男・前田利政に嫁いでいます。
徳川政権ではトップクラスの血脈ではないでしょうか。
女系の孫は、まだいます。
◆報恩院(信長の娘・丹羽長重室)の娘……老中・酒井忠世の末弟である酒井忠正の妻となる
◆於振(水野忠胤の妻)の一男二女……長男は水野勝成の養子、娘のひとりは丹羽氏信の妻、もうひとりは千姫に仕える
◆万里小路孝房(1592〜1617年)……従三位参議
◆徳大寺公信(1606年生)……清華家・徳大寺家の嫡子
大名家だけでなく、公家にも信長の孫がいたのですね。
もっとも女系のすべてが上手くいったわけではありません。
前田利長に嫁いだ永姫(1574〜1623年)は、ついに子を産まないまま生涯を終えました。
分かれ目は関ヶ原
なぜ男系だけがこうも落ちていったのか。
織田信長と織田信忠が同時に死んだのだから、そりゃそうなるだろう!
と言いたいところですが、他にも節目があります。
関ヶ原の戦いです。
大名だった男系の孫、織田秀信と織田秀雄のふたりがいずれも西軍につき、どちらも改易されてしまいました。

関ヶ原合戦図屏風/wikipediaより引用
信長の子世代でも、織田信吉は西軍で所領没収、織田長次は西軍で討死しています。
対する蒲生秀行は、東軍で会津へ復帰し、福子と国子の嫁ぎ先である小笠原家・本多家も当然ながら東軍です。
織田秀信も織田秀雄も、秀吉から羽柴の名字と豊臣姓を与えられ、豊臣政権の一員として厚遇されていた以上、西軍に立つのは自然な流れ。
織田の名を背負った者ほど豊臣に組み込まれてしまったのです。
それが関ヶ原の戦いでもマイナス方向へと働いたのでしょう。
まとめ
信長の孫を一通り並べてみると、織田を名乗った側ほど早く消えています。
嫡流は26才で断絶。
三男の家は娘が磔にされ、息子は尾張で出家。
明治まで残ったのは2万石が2家だけで、その2家も途中で他家の養子に入れ替わっています。
一方、娘たちの嫁ぎ先では、孫が会津92万石を継ぎ、姫路や松本の奥向きに入り、公家の参議にまでなっていました。
三法師の名前しか出てこないのは、なかなかもったいない話です。
なお、秀吉や信孝に振り回されている三法師はマトモな武将になれたのか?という記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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三法師はどんな武将に育った?秀吉と信孝に翻弄された織田秀信のその後
続きを見る
参考文献
- 柴裕之編著『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)
- 柴裕之編『徳川家康』シリーズ・織豊大名の研究10(2021年12月 戎光祥出版)
- 和田裕弘『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』(2017年2月 中央公論新社)
- 菊地浩之『織田家臣団の系図』(2019年9月 KADOKAWA)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)
- 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(2016年11月 KADOKAWA)
- 福田千鶴『豊臣家の女たち』(2025年10月 岩波書店)
- 岡田正人編著『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
- 『歴史読本』編集部編『信長の子 覇王の血を継ぐ36人の謎』(2012年9月 新人物往来社)
- 楠戸義昭『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』(2002年 毎日新聞社)
【TOP画像】織田信長/wikimedia commons

