小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助の父子が討たれたとき、同時に討死した武将がいます。
森長可(もりながよし)です。
「人間無骨(にんげんむこつ)」という槍を使い、「鬼武蔵」という呼び名でも戦国ファンにはお馴染みの猛将ですが、残念ながら大河ドラマ『豊臣兄弟』では出番なし。
もしも登場していたら、長久手の戦いでは絶対にクローズアップされたであろう話があります。
遺言状です。
実はこの森長可、家康不在の岡崎へ攻め込むとき、出陣前に遺言状を記していたのです。
確かに戦国武将は死と隣り合わせかもしれませんが、そこまで決意をしているのはよほどのこと。
いったい何を書き残したかったのか?

森長可/wikipediaより引用
森長可の遺言状を見て参りましょう。
三月二十八日の朝に書かれた遺言
森長可の遺言状が認(したた)められたられたのは、天正十二年(1584年)3月28日の朝。
三河へ攻め込む別働隊が動き出す直前のことであり、長可は秀吉の家臣である尾藤知宣(びとう とものぶ)を通じて家族へ託しています。
いったい何が書かれていたのか?
中身は、まず身辺の始末から始まります。
秘蔵していた沢姫の壺と台天目は、秀吉へ差し上げるよう指示。
沢姫の壺は居城の美濃金山ではなく京の宇治に置いてあるので、取り寄せて献上せよ、とまで書き添えられていました。
まるで死を予感したかのように事細かに記されているのが、武士の覚悟を見るような気持ちにさせられますね。
さらに……。
あまり上等ではない茶道具や刀、脇差のほか、京の本阿弥に預けてある秘蔵の脇差二振は、弟の仙蔵忠政(のちの森忠政)へ譲る。

森忠政の銅像
形見分けをしやすいよう、譲渡先が書かれた札を品物一つひとつに付けておいた、という気遣いまでありました。
そこまで決めてから、長可は戦場へ向かうのですが、問題はその先で衝撃的な一言も入っていました。
「弟の忠政に自分の跡目を継がせたくない」
弟に跡を継がせるなと書いた
なぜ森長可はそんな一文を残したのか。
遺言書には、弟の忠政に跡を継がせたくないとしたうえで、万一、秀吉方が総敗北したなら、皆々で火をかけて自害してほしいと記し、このことは妻のおひさにも申し伝えて、と念を押しています。
いったい何事なのか。
そこまで具体的に記すというところに長可の本気っぷりが伝わってくるというか……。
森家親族の最期を見ると、決して冗談ではないことがわかります。
◆父・森可成……宇佐山城の戦いで討死

森可成/wikimedia commons
◆兄・森可隆……手筒山城の攻めで討死
◆弟・森成利(森蘭丸)……本能寺の変で討死
◆弟・坊丸……本能寺の変で討死
◆弟・力丸……本能寺の変で討死
父の森可成(よしなり)を始め、織田信長の小姓としても知られる森蘭丸など、父と大半の兄弟は死に、残っていたのが長可と忠政の二人だけでした。
ただ一人残る弟に、そんな運命を背負わせたくない。
そういう願いだったと見られます。
なぜ長可は死ぬ覚悟を決めていたのか
出陣前に遺言を書く武将はそう多くありません。
森長可には、この戦にかける理由がありました。
まず、開戦直後の3月17日、羽黒の戦いで池田元助と共に徳川勢を相手に敗れてしまいました。
小牧山城を先に押さえられただけでなく、緒戦まで落としていたんですね。

池田恒興/wikipediaより引用
軍記物では、秀吉は三河中入りを決行するにあたり、先陣の池田恒興に対して「必ず敵を侮るな、疎懸(まばらがけ)をするな」と釘を刺したと伝わります。
軍勢のまとまりを乱して攻めるな、という念押しです。
それだけでなく森長可は、本領である東美濃を押さえきれていませんでした。
串原遠山・明知遠山・苗木遠山といった一族が反乱を起こしていたのに、尾張へ出陣しているため、弟の忠政や重臣の各務兵庫助を助けに戻ることができない。
研究者の平山優氏は『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』の中で、恒興も長可もかなり焦っていて、だからこそ三河中入りで戦功を挙げようとしたのだろうと見ています。
彼らは本気で命懸けの戦いを覚悟していたのでしょう。
ゆえに悲壮な覚悟で遺言状をしたため、武士という過酷な状況を乗り切ろうとしたのではないでしょうか。
遺言は守られなかった
天正十二年(1584年)4月9日。
長久手で徳川本隊とぶつかった長可は、突撃の最中、眉間に流れ弾を受けて落馬したと伝わります。
周囲が駆け寄ったときには、すでに絶命。
享年27。
母衣衆50騎ほどが踏みとどまって遺骸を収容しようとしましたが、徳川方の大久保忠世勢に蹴散らされ、首級は大久保家臣の本多八蔵が取ったと伝わります。
肝心の遺言は、守られませんでした。
森家の跡目を継いだのは、まさに継がせたくないと書かれた弟・忠政。

鶴山公園(津山城跡)にある森忠政の銅像
引き続き美濃金山城主に任じられ、その家系は信濃川中島藩主、美作津山藩主、播磨赤穂藩主などを歴任して幕末まで続きます。
長可が案じていた武士の運命は、弟には訪れなかったことになります。
願いが叶わなかったことは救いであり、同時に家を残したこと自体は武士の本望であったでしょう。
なお、同じく小牧・長久手の戦いでは、織田家の勇将として知られる滝川一益が失意のうちに現場から退くこととなっています。
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参考文献
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)
- 菊地浩之『織田家臣団の系図』(2019年9月 KADOKAWA)
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)

