大河ドラマ『豊臣兄弟』第35回に登場した滝川一益を覚えていらっしゃいますか。
脚を引きずりながら秀吉の前に現れ、「そなたは隠居せよ」とねぎらいの言葉をかけられると、泣き出しそうな表情となってしまう。
いったい何があったのか?
というと蟹江城で織田・徳川連合軍に敗れたことが説明されましたが、いまいちピンと来なかった方も多いでしょう。
織田信長のもとで、かつては関東を任された武将が急にどうしたのか。
蟹江城でどんな敗戦を喫してしまったのか。

滝川一益/wikipediaより引用
滝川一益の奮戦を振り返ってみましょう。
調略で三つの城を一晩で寝返らせた
小牧・長久手の戦いが始まる前、蟹江城の城主は佐久間正勝でした。
佐久間正勝は織田・徳川方の武将であり、信雄の命で伊勢へ出陣。
留守を預かったのは、叔父の佐久間信直と、前田種定という武将です。
この前田種定に目をつけたのが、伊勢の木造城(こつくりじょう)にいた滝川一益でした。
一益は秀吉方として尾張の調略を担当しており、蟹江城の前田種定に対しては「知行を与えるから秀吉方につけ」と誘いをかけます。
二人はもともと従兄弟の関係だったとも言いますので、話は早かったでしょう。
小牧・長久手の戦い開戦から約3ヶ月後の天正十二年(1584年)6月16日、かくして蟹江・前田・下市場の三城は、いっせいに羽柴方へ転じました。
尾張南部の一角が一斉に裏返ったわけです。

蟹江城址の石碑(天正地震で城は大破したと説明されている)
ここを取れば清須が危なかった
この三城は、ただの城ではありません。
いずれも海岸線に面した「海の城」で、蟹江城の近くには「船入」の地名が残り、かつて蟹江川が伊勢湾へ注いでいた場所にあたります。
前田城は庄内川、下市場城は大野川を、それぞれ天然の堀にしながら、船の通う水路としても使われていました。
つまり伊勢湾の海運と河川交通を押さえる要所だったのですね。
当時の水路は、物資や人の運搬、関所も兼ねていて、それだけで収益源となる。
しかもこの三城は、小牧山城・清須城と伊勢長島城を結ぶ位置にあり、もしもここを羽柴方に押さえられると、織田信雄と徳川家康は連携が断ち切られてしまう重要拠点だったのです。
以下の地図で位置をご確認ください。
上から
小牧山城(赤)
蟹江城(紫)
伊勢長島城(赤)
小牧山城(黄)
と並んでいて、蟹江城を奪えば、たしかに小牧山城――伊勢長島城ルートが遮断されますね。
滝川一益の狙いは他にもありました。
伊勢湾から軍勢を送り込み、尾張へ「中入り」を実行して家康を脅かす――研究者の平山優氏が著書『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』の中で「尾張中入」と呼ぶ作戦を考えていたともされます。
4月に三好信吉(豊臣秀次)らが失敗した“三河中入り”に続く、二度目の中入りとなるわけで。
秀吉としても、一益のように実績ある武将でないと任せられなかったでしょう。
留守を守る信直は城主の妻子を刺し殺そうとした
さすが織田信長のもとで働いていただけあって、滝川一益の手際は見事でした。
6月15日、水軍の将として知られる九鬼嘉隆と共に、3000余の軍勢を伊勢の白子浦へ集結させると、大船数艘に乗って出帆。
海から蟹江に上陸し、一気に城を制圧したのです。

九鬼嘉隆/wikimedia commons
陸路をまったく使わない作戦でした。
しかし、驚いたのは城に残されていた佐久間信直です。
『寛永伝』などでは、前田の内通で敵が乱入したと知った信直が、次のような行動に出たと伝えられています。
正勝の妻子を刺し殺してから、自ら城に火を放って自刃しようと考え、ただちに薪を積み上げさせた――。
これに大慌てになったのが一益でした。
城が焼け落ちてしまえば、羽柴方の拠点として活用できなくなってしまう。
どうにかして蟹江城はそのまま手に入れたい。
そこで一益は、前田種定の次男を人質として信直のもとへ送り、信直たちの身命を保障して退去を促すことにしました。
信直はこれを受け入れ、6月17日、正勝の妻子と共に蟹江城を去っていきます。
危ういところで、城は焼けずに済んだわけです。
しかし、ここから歯車が狂い始めるのでした。
秀吉がいなかった
滝川一益にとって最悪だったのはタイミングです。
この直前まで、秀吉は尾張西部で加賀野井城や竹ヶ鼻城を攻め落としていました。
蟹江城や清須城のすぐ北です。
ところがその攻勢が終わると、秀吉は尾張を去って近江へ向かい、羽柴軍の主力も楽田方面へ撤収しました。
主力が竹ヶ鼻あたりに残っていれば、そのまま南下して一益をフォローできたでしょう。

絵・富永商太
秀吉も6月17日の当日には蟹江の一報を受け取っていましたが、このときは大垣か佐和山にいたとみられ、すぐには戻れません。
一方、徳川家康は、すぐに動けました。
清須を発した織田・徳川連合軍は、18日夜に下市場城を攻めて九鬼嘉隆の水軍を海上へ追い払うと、23日には前田城が降伏して開城。
このとき嘉隆を海上で破ったのは、徳川方の小浜景隆と間宮信高でした。
小浜は、かつて九鬼水軍に敗れて志摩を追われた武将です。
それだけに九鬼水軍に勝利すれば本領を回復する絶好の機会であったと、研究者の豊田祥三氏は『中世武士選書48 九鬼嘉隆と九鬼水軍』の中で記しています。
追う側と追われる側が、20年近い時を経て入れ替わったのですね。
結局、蟹江城はそのまま追い詰められ、ついには本丸を残すのみとなってしまいます。
一益は、それでも懸命に抵抗を続けました。
城を明け渡し、舟で去った
決着がついたのは、約10日後の7月3日でした。
滝川一益は蟹江城を明け渡すと、息子の一忠とともに軍勢を引き連れ、伊勢の楠へ移ります。
内通した前田種定は切腹となりました。
蟹江城がそのまま羽柴方の拠点となっていれば、戦はもっと早くに秀吉勝利でカタがついていたかもしれません。
研究者の平山優氏は、秀吉の体調不良と蟹江城の早期開城に織田信雄と徳川家康が助けられたと述べています。

織田信雄と徳川家康/wikipedia
なんせ滝川一益は調略を成功させ、海から兵を送り込み、要所を三つ同時に奪ってみせました。
作戦自体は悪くなかったのです。
ただ、秀吉軍主力が遠く離れ、海上の九鬼水軍も退けられたため、城内の将兵だけで織田・徳川連合軍の攻撃を防ぎ続けるのは不可能となってしまいました。
この敗戦により、息子の一忠が改易となり、一益自身も没落していきます。
結局、蟹江城での戦いが、信長に関東を任されていた男の、最後の大仕事となってしまうのでした。
なお、小牧・長久手の戦いにおいては200余の兵で1万の池田・森軍に立ち向かった16才の若武者・丹羽氏重がにわかに注目されています。よろしければ以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 豊田祥三『中世武士選書48 九鬼嘉隆と九鬼水軍 戦国最強を誇った水軍大将の興亡』(2023年8月 戎光祥出版)

