大河ドラマ『豊臣兄弟』も、いよいよ中国地方の攻略編です。
羽柴秀吉が播磨へ軍を進め、ついに毛利勢と対峙することになるわけですが、地方で戦いに追われていたのは彼らだけではありません。
柴田勝家や明智光秀、丹羽長秀など。
織田家の重臣たちにはそれぞれ割り当てられた担当エリアがあり、各地域の事情に応じて戦い方を変えながら、勢力圏を広げていたのです。
では、誰がどの地方を、どんな家臣たちと共に攻略を進めたのか?当時を振り返ってみましょう。
北陸方面軍|柴田軍のお相手は謙信
織田軍最強の武闘派といえば柴田勝家。

柴田勝家/wikipediaより引用
勝家の率いる北陸方面軍には、次のような武将たちが集められていました。
- 柴田勝家(織田家屈指の宿老・北陸方面軍の中心人物)
- 佐々成政(後に肥後を任される猛将)
- 前田利家(のちの加賀百万石の祖・槍の又左)
- 不破光治(府中三人衆の一人として北陸支配を担当)
- 金森長近(飛騨統一を成し遂げた名将)
- 原長頼(一向一揆との戦いで活躍した実務派武将)
- 毛利長秀(柴田軍を支えた北陸の重臣)
- 佐久間盛政(賤ヶ岳で大暴れする鬼玄蕃)
越前や加賀の一向一揆を鎮圧しながら、最強の敵・上杉謙信と対峙した軍団です。
特に佐々成政・前田利家・不破光治は「府中三人衆」と呼ばれ、北陸支配の中核を担いました。
本能寺の変後、この軍団から前田家や金森家などの有力大名も生まれていますね。
金森長近については、岐阜県さん協力で作成した関連記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
-

飛騨高山の街並みは誰が作った?金森長近が描いた戦国の都市計画を堪能する
続きを見る
中国方面軍|秀吉が育てた羽柴家臣団
当時、最も勢いがあったのが羽柴秀吉軍でしょう。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
以下のとおり、豊臣政権でも重用された武将たちが勢揃いであり、そりゃ強いわ、と納得のメンバーですね。
- 羽柴秀吉(百姓出身から天下人へ駆け上がる男)
- 羽柴秀長(秀吉最大の補佐役であり名参謀)
- 黒田官兵衛(播磨出身の知将・後の黒田如水)
- 竹中半兵衛(美濃出身で秀吉を支えた軍事・実務型の武将)
- 蜂須賀正勝(野武士の頭領伝説でも知られる秀吉の古参協力者)
- 前野長康(秀吉の尾張時代からの協力者)
- 生駒親正(讃岐高松城を築いた行政官タイプの武将)
- 宮部継潤(近江・因幡・鳥取支配で活躍した実務派)
- 加藤光泰(近江出身の有力国衆)
- 神子田正治(秀吉の初期家臣団を支えた宿老)
- 堀尾吉晴(後の松江藩祖・名城主として有名)
- 石田三成(長浜期に秀吉へ仕えたとされる子飼いの俊才)
- 片桐且元(賤ヶ岳七本槍の一人で後に豊臣家を支える重臣)
毛利勢との戦いは、別所長治だけでなく荒木村重の裏切りもあって、途中から一気に苦戦となります。
それでも三木城や鳥取城などを囲い込んでの兵糧戦は、自軍の死者が圧倒的に少ない、秀吉らしい戦術。
本能寺の変後の「中国大返し」は、かつて語られたような奇跡一辺倒ではなく、兵站や事前準備を踏まえて考えられるようになっています。
戦は将と兵だけじゃない。彼らを支える羽柴軍の兵站能力こそ、強さの源泉だったのかもしれません。
関東方面軍|東国支配を任された滝川一益
天正十年(1582年)に武田勝頼を滅ぼし、甲斐信濃を得た織田家は、さらに東国へ進出すべく新たな方面軍を作ります。
その先鋒を任されたのが滝川一益。
ここでは便宜上、関東方面軍と呼んでおきましょう。

滝川一益/wikipediaより引用
- 滝川一益(伊勢長島攻めや鉄砲運用で活躍した宿将)
- 滝川益重(一益を支えた一族衆)
- 滝川益氏(滝川家の重臣層)
- 上条政繁(上野支配を支えた国衆)
- 北条高広(越後・上野を知る有力武将)
- 真田昌幸(表裏比興として知られる信濃の戦略家)
- 真田信之(昌幸の嫡男にして後の松代藩祖)
もしも本能寺の変が起きてなければ、後北条氏やその他の関東諸氏もこの軍団と対峙していたことでしょう。
丹波方面軍|畿内防衛を担った明智光秀軍
本能寺の変によって裏切り者の印象が強い明智光秀ですが、実際には織田家屈指の方面軍司令官でした。

明智光秀/wikimedia commons
- 明智光秀(本能寺の変で知られる織田家屈指の知将)
- 明智秀満(左馬助・光秀の右腕)
- 明智光忠(光秀一族の重臣)
- 斎藤利三(春日局の父としても知られる重臣)
- 藤田行政(丹波攻略を支えた家臣)
- 溝尾茂朝(光秀軍団の古参家臣)
- 細川藤孝(足利将軍家に近い文化人武将)
- 細川忠興(ガラシャの夫・後の細川家中興の祖)
光秀軍は丹波平定だけでなく、京都周辺の防衛や山陰方面への対応も担当。
細川父子は純粋な配下というより、光秀と連携した有力武将として見る方がよいでしょう。
織田信長からの信頼が最も厚かったからこそのエリアを担当しており、それだけに本能寺の変の衝撃は大きいものでした。
四国方面軍|丹羽長秀が進めた四国征服計画
信長は四国攻めにも踏み出そうとしていました。
四国遠征の総大将に予定されていたのは三男・織田信孝。

丹羽長秀/wikimedia commons
- 丹羽長秀(信長が最も信頼した実務派宿老)
- 蜂屋頼隆(美濃以来の織田家譜代武将)
- 若林長門守(行政能力に優れた家臣)
- 津田信澄(信長の甥で光秀の婿)
- 織田信孝(四国遠征の総大将予定だった三男)
長宗我部元親との戦争準備はほぼ整っていたのです。
しかし本能寺の変によって遠征そのものが消滅してしまいました。
大和方面軍|筒井順慶が支えた畿内支配
大和国では筒井順慶が重要な役割を果たしていました。

筒井順慶/wikimedia commons
- 筒井順慶(信長から大和支配を任された国衆の代表格)
- 島左近(後に石田三成の重臣として知られる筒井家旧臣)
- 松倉重信(筒井家を支えた重臣)
- 中坊秀政(興福寺勢力との調整役)
- 井戸良弘(大和支配を支えた実務派)
松永久秀との長年の争いを制し、大和統治の中核となった軍団。
ここでは便宜上、大和方面軍として整理します。
信長からすれば、大和国衆の代表格である順慶のほうが、現地支配を進めやすかったのでしょう。
京都政務グループ|戦わない家臣たち
信長の家臣団は戦うだけではありません。
朝廷や公家、寺社との折衝を担当する官僚集団もいました。
- 村井貞勝(京都支配を担った織田政権の事務総長)
- 武井夕庵(外交文書作成の専門家)
- 松井友閑(茶の湯・外交を担当した文化人官僚)
- 菅屋長頼(堺商人や鉄砲流通との関係を担当)
- 長谷川秀一(京都奉行として活躍した実務官僚)
彼らがいたからこそ、信長は安心して各地の戦場へ出ることができたのです。
信長直属の近習衆|次世代エリート軍団
織田信長のすぐそばには若いエリートたちもいました。
- 堀秀政(若くして出世した信長政権のエリート官僚)
- 森蘭丸(信長の近習として最も有名な人物)
- 森力丸(蘭丸の弟)
- 森坊丸(蘭丸の弟)
- 万見仙千代(信長お気に入りの若武者)
- 高橋虎松(のちの山中長俊)
- 弥助(信長に仕えたアフリカ出身の従者)
信長の身辺には、森蘭丸のような近習から、堀秀政のように実務で頭角を現す若手まで、多様な人材が集められていました。
後継者・織田信忠軍|もう一つの織田軍
信長の嫡男で、天正三年(1575年)に織田家の家督を継いだ織田信忠も独自の軍団を持っていました。

織田信忠/wikimedia commons
- 織田信忠(事実上の後継者)
- 森長可(人間無骨という名槍を使う猛将・森可成の跡取り)
- 河尻秀隆(武田滅亡後の甲斐支配を任された宿将)
- 団忠正(信長馬廻から出世した猛将)
- 毛利長秀(北陸戦線でも活躍した重臣)
- 岡田重孝(信忠直属軍団を支えた宿老)
- 斎藤利治(稲葉一鉄の孫で美濃名門の後継者)
武田攻めでは総大将を務め、すでに一方面軍の司令官と言える存在でした。
本来なら信長亡き後の織田政権を率いる人物だったのです。
織田家臣団の強みとは?
北陸には勝家。
中国には羽柴秀吉。
丹波には光秀。
関東には一益。
大和には順慶。
京都には貞勝や友閑。
そして後継者の信忠。
それぞれが特定の方面に対し、一つ一つの部隊が組み合わさって巨大組織として機能していました。
織田家臣団とは、単なる武将の寄せ集めではありません。
全国各地へ方面軍を配置し、軍事・行政・外交を分業させた組織でした。
そして本能寺の変とは、その巨大組織の頂点である信長と、後継者の信忠が同時に失われた事件だったのです。
参考文献
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年 吉川弘文館)
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年 中央公論新社)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成〔増補第3版〕』(2024年 思文閣出版)
- 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田編』(2023年 戎光祥出版)
- 金松誠『筒井順慶 シリーズ・実像に迫る019』(2019年 戎光祥出版)
- 藤井讓治『天下人の時代 日本近世の歴史1』(2011年 吉川弘文館)
- 金子拓『戦国おもてなし時代 信長・秀吉の接待術』(2017年 淡交社)
【TOP画像】上段(柴田勝家・明智光秀・豊臣秀吉)下段(滝川一益・織田信忠・丹羽長秀)の肖像画/wikimedia commons

