瀧山

『千代田之大奥 元旦二度目之御飯』楊洲周延・作/wikipediaより引用

江戸時代

慶喜に警戒された手強い御年寄・瀧山~史実ではどんな女性だった?

明治9年(1876年)1月14日は瀧山の命日です。

一瞬、「誰?」と思われそうですが、ドラマ10『大奥』シーズン2で古川雄大さんが熱演したイケメン武士と言えば、思い出される方もいらっしゃるでしょうか。

劇中では、幕閣随一の切れ者である阿部正弘に見いだされ、将軍・徳川家定に仕えるべく大奥入りした最後の大奥総取締。

阿部を支え、家定に対する忠義は、視聴者の胸に刺さるものがありました。

そこで気になってくるのが、史実の瀧山でしょう。

男女逆転版のドラマと違って瀧山は女性であり、大奥を取り仕切りながら徳川慶喜に「手強い」と恐れられるほどの存在でもありました。

では一体どんな女性だったのか?

瀧山の生涯を振り返ってみましょう。

※以下は徳川家定の生涯まとめ記事となります

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三代にわたり娘が大奥に仕えた大岡家

瀧山は文化2年(1805年)生まれ。

14歳を迎えた文政元年(1818年)に大奥へ上がります。

大奥にあがるには身許が大事であり、そのための人脈が必須条件となります。

彼女の父は御鉄砲百人組・大岡義方であり、瀧山の祖父・義安の娘も“染嶋”という名前で大奥に奉公していました。

瀧山にとってはおばにあたり、彼女が大奥に入る条件は揃っていたと言えるでしょう。

瀧山の弟の娘である“ませ”も大奥に奉公し、天璋院篤姫の中臈になっています。

篤姫の愛猫・サトの世話係を担っていました

※以下はサトの考察記事となります

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ませは明治になってから三田村鳶魚に大奥事情を語り残したことで知られます。

つまり大岡家では、三代にわたって叔母と姪が大奥に仕えたのです。

なお、瀧山の祖父・青木長国は、勝海舟の母方曾祖父にあたります。勝海舟の母・信の従姉妹が瀧山という縁もあったのです。

 

大奥の瀧山は手強い……慶喜がおそれた存在

大奥や奥御殿という世界は、何かと誤解されがちです。

後宮美女三千人がひしめき、将軍様のお手つきを願っていた――というのはあくまでフィクションの世界観。

力仕事をする者もいれば、当初から「男と関わらない」と誓いを立てた者もいる。キャリアを積んでコネづくりに励んだ者も。

瀧山がもしも別の時代に生まれていたら、歴史の中にひっそりと埋もれていたかもしれません。

しかし、彼女は幕末へと向かってゆく動乱の時代を生きることとなる。

その最たる出来事が【将軍継継嗣問題】でしょう。

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慶福(のちの徳川家茂)か、あるいは慶喜か?

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そんな政治抗争が勃発した――と、幕末作品では必ずのように取り上げられますが、これは後世【一橋派】の意見が大きく通った結果です。

例えば、西郷の関連作品などを見ていると、『なぜ一橋派の将軍にしないんだ!』と視聴者は憤るかもしれません。

しかし、血統面では慶福に正統性がありました。

さらには慶喜の父・徳川斉昭は幕末きってのトラブルメーカーとして悪名高く、12代将軍・徳川家慶からも煙たがられていたものです。

13代・徳川家定もまた「慶喜だけはありえない!」と敵視するほどでした。

当時の正統な認識としてはこうです。

そもそも慶喜が将軍になるという選択肢がおかしい――。

よく「一橋派 vs 南紀派」なんて説明されますが、きちんと実態を示すなら次のような表現が相応しいでしょう。

一橋派 vs そもそもなぜ一橋推しなのかわからない南紀派

こうした状況を踏まえて、明治維新後の慶喜を振り返ってみると、なかなか酷いことを語っている。

『昔夢会筆記』の一節にこうあるのです。

「将軍にはなりたくなった。幕府の衰亡の兆しが見えていたわけだし。

そもそも大奥には、老中よりも手強い瀧山がいる。改革なんて全くできない。これで立ち直ることなぞできまい」

改革という言葉を掲げた慶喜の言い分を聞いていると、さも瀧山はそれを邪魔する偏屈な人物かのようです。

しかし、瀧山の立場からすれば、以下のように反論したくなるところでしょう。

・慶喜は確かにやる気がない。しかしその言い訳に大奥を使うのはおかしい

・大奥は確かに慶喜を嫌っていた。それは父の斉昭が散々嫌がらせをしてきたからであろう

・むろん大奥のコストカットは大事であるが、それが些細なことに思えるほど幕府での改革事項が山積みだった。大奥の改革だけを訴えても仕方がない

・結局、大奥で嫌われたから、後になって安全なところから悪く言っていませんか?

慶喜には、そう断じられても仕方がない負の実績を重ねています。

最たるものが【鳥羽・伏見の戦い】でしょう。大坂城で家臣たちには「戦え!」と鼓舞しておきながら、自分だけおめおめと江戸城へ戻ってきた。

大将が真っ先に逃げ出すなんて、歓迎されるわけがありません。

会津藩士から罵倒されるわ。いっそ慶喜を切腹させようと言い出すものまで出るわ。挙げ句、本人は毒殺を恐れて、まともに食事も取れないわ。

当然ながら大奥も怒り心頭であり「節約のせいで来客用の寝具はありません」として、慶喜は毛布にくるまって眠りました。

そんな慶喜が、瀧山や大奥に対して恨みつらみを抱えている可能性は高く、明治維新後に、批判なき場所から語られた言葉に客観性はないでしょう。

瀧山が一目置かれるような存在だったことは間違いないとも言えるでしょうか。

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