瀧山

『千代田之大奥 元旦二度目之御飯』楊洲周延・作/wikipediaより引用

江戸時代

慶喜に警戒された手強い御年寄・瀧山~史実ではどんな女性だった?

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大奥はなぜ慶喜を嫌ったか?

慶喜の将軍就任を嫌ったのは、なにも瀧山一人だけのことではありません。

大奥の総意であり、薩摩の意を受けた篤姫が一橋派を推そうにも、現実的には困難な状況がありました。

むしろ瀧山や大奥の影響からか、篤姫が慶喜の資質に疑問を抱くようになり、実際、父子の人間性に触れ、呆れるようになった可能性は否定できません。

なにせ篤姫の慶喜に対する嫌悪感は、かなり激烈なものがあります。

一橋派は、この国難においては年長で聡明な慶喜こそふさわしいと将軍に推しました。

最愛の子が将軍となれば願ったり叶ったり。

12代・徳川家慶に嫌われ、将軍家に敵意まで募らせていた徳川斉昭にとっては大願成就とも言えます。

斉昭は極端なマッチョイズムの持ち主で「女の園である大奥なんぞあるから軟弱になる!」と、独自のしばきあげ理論を展開。

しつこく嫌がらせのように「倹約しろ」とねじ込んでいました。

子供じみた嫌がらせもしています。

狩猟で獲った獲物を大奥に持ち込み、女性たちが嫌がる様を見て喜んでいたのです。

まるで学校の敷地に小動物の死骸を置くような、ネットスラングでいえば厨二病。

しかも斉昭は、上臈の唐橋を手籠にして妊娠させたのですから徹底的に嫌われ、大奥だけでなく水戸藩内でも女中たちはご乱行に怯えて暮らしていました。

時代劇で嫌がる女性を帯回しする殿様――まさにあれが斉昭とでも言いましょうか。

「わしほどの男に抱かれるのは女の誉れじゃろう! ガハハ!」と脂ぎった自慢を本人がしていたという話もあり、もはや人としてどうかしているレベルです。

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だからでしょう。家定の母である本寿院は「慶喜が将軍となったら自害する」とまで思いつめていた。

斉昭の意に屈することを想像するだけで、ゾッとするのが大奥の総意だったのです。

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13代家定は「慶喜が聡明で美男であったために嫉妬した」なんて話があります。

歴史的に無かったことを証明するのは困難ですが、斉昭と慶喜父子の言動を踏まえていると、彼らが嫌われるのは当然のことでしょう。

父子の愚行を振り返ってみると、滝山からは、女性への暴力に断固立ち上がった勇気ある姿も浮かんできます。

そして、こうした大奥の懸念は、先を予見していたとも言えます。

14代将軍となった慶福あらため徳川家茂は、若いながらも責任感が強く、最善を尽くすべく奮闘しました。

勝海舟は家茂のことを語る時、目に涙が光りました。

生まれた時代がもっとよければ……と嘆いていた。

勝以外の幕臣にとって、実質的な最後の将軍は家茂だったのです。

これは何も幕臣に限らず江戸っ子も同じで、慶喜に対しては「豚や牛を食ってやがる、あの一橋の腰抜けヤロウ」と罵倒する声が聞かれたとか。

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瀧山は大奥の終焉を見守ったのか

ドラマ10『大奥』でも聡明な姿が描かれていたように、史実の徳川家茂も若いながら立派な人物でした。

しかし、その母である実成院が陽気で酒好きな性格。

大騒ぎするため、瀧山が諫めたと伝わります。

また、京都から家茂の正室として和宮が嫁ぎ、何かと揺れる大奥を取り仕切って、篤姫をよく支えたのも瀧山でした。

前述の通り、多くの幕臣と同じく、瀧山にとっても最後の将軍は家茂です。

慶応2年(1866年)に亡くなったとき、自身も御年寄職を辞しました。

慶喜の正室・美賀子の贈り物を記録した中に「慶応3年(1867年)10月、瀧山に白銀20枚等を贈った」という記録が残されています。

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その名目は「下宿」、つまりは永の暇乞い、退職したとあるのです。

瀧山は慶応4年(1868年)の【江戸開城】において、天璋院を説得したとされてきました。

しかし、実際は退職済みであり、そのとき大奥には居なかったことになります。

彼女は大奥を出て、川口で静かな余生を過ごしました。

そして明治9年(1876年)に没し、享年71。

墓は錫杖寺(しゃくじょうじ)にあります。

晩年、瀧山は養子を迎え、瀧山家を興しました。

現在もその子孫は続き、先祖が遺した史料を保管。

瀧山がいかに重要な役割を果たしていたのか、記されています。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
別冊歴史読本『天璋院篤姫の生涯』(→amazon
久住真也『幕末の将軍』(→amazon
家近良樹『徳川慶喜 (人物叢書)』(→amazon
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon

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