そんな言葉を皆さん一度は聞いたことがあると思いますが、当時の火事と言えば多くの死者も出るのに、あまり悲愴な雰囲気はありませんよね。
背景には、少々理由があります。
江戸は当時の基準では新興都市ですから、建設業に従事する人が多く、したがって男性の割合が非常に高いものでした。
そのため、火事の後片付けや再建は、むしろ商売繁盛のキッカケになる……と、いささかブラックな話ですが、現実的には否定できないでしょう。
しかし。
焼ける範囲が大規模なものとなると、流石に話が変わってきます。
江戸時代――かつ江戸で起きた火災の中で「大火」と呼ばれるものは実に49件も発生。
将軍は十五人ですから、一人の将軍につき三回は大きめの火事に遭遇している計算となるわけです。
その中でもとりわけ悲惨だったのが徳川綱吉の時代でしょう。
元禄地震という大地震の直後も含め、都合、三度の記録的大火に見舞われました。
これらを総称して【元禄の大火】と言います。
字面からして元禄期に江戸の町を焼いた一度の大火をイメージしてしまいますが、実際は3回も起きていたんですね。
その詳細を振り返ってみましょう。
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一つ目は元禄十年(1697年)10月
現在の東京都文京区大塚にある善心寺というお寺から出火し、旗本の屋敷が363軒も焼失しました。
今ある寺は、後に再建されたもの。
現代では東京メトロ新大塚駅・東邦音楽短期大学・筑波大学東京キャンパス・お茶の水女子大学などが同じエリアにあります。
どんな災害でもそうですが、もしも同規模の火災が現代で起きたら……と思うと、ゾッとします。
二つ目は元禄十一年(1698年)9月
【勅額火事(ちょくがくかじ)】という、ちょっと変わった呼び名がついています。
京橋南鍋町から出火し、大名の屋敷が83軒、旗本の屋敷が225軒、寺院232軒、町屋1万8,703戸という大きな被害を出しました。
死者も3,000人以上に及ぶと見られています。
当時、徳川宗家の菩提寺である寛永寺の根本中堂が落成したばかりで、ここに掲げる天皇直筆の額=勅額がこの火事が起きた日に江戸へ到着したため、そこから【勅額火事】や【中堂火事】といった呼び名がついたようです。
寛永寺の住職は皇族が就くことになっていました。
それでなくても(将軍の中では)勤王な綱吉としては憤懣(ふんまん)やるかたない火事だったでしょうね……。
※以下は徳川綱吉の考察記事となります
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幸い、寛永寺の被害はさほどでもなかったようです。
余談ですが、このとき焼け出された武士の中に、あの吉良義央もいました。
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実は彼、勅額火事で元の屋敷を失い、現在の両国付近へ移り住み、そこで赤穂浪士の襲撃を受けています。
ついでにいうと、義央の屋敷は勝海舟の生家の近所でもあります。
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江戸がいかに、武家屋敷のひしめく町だったかがうかがえますね。
単純計算で、この2つの火事だけで武家屋敷が671軒も焼けているわけですが……綱吉の時代にはもう一回大きな火事が起きます。
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